ジャズの日々(4):百軒店のこと
百軒店が揺れている。すでに報道されているように、渋谷に新たな「再開発」計画があるようで、百軒店がすっぽりその対象区域に入っているという。SNSで抗議の声を上げている人も多い。
百軒店はその昔、ジャズの聖地だった。
というと大袈裟かもしれないけれど、その周囲半径数百メートルの界隈にあったジャズ喫茶は一筋縄ではいかない個性派揃いで、どの店にも独自の音と空気があって、日々どこに行こうかと悩むこと自体ひとつの経験だった。そして、音楽館で働いた僕にとって、あの界隈が消えてなくなるという話はやはり耳に心地よくは響かない。
「その昔」とは、もうすでに書いたように、1980年代前半のことで、僕がよく足を運んだのは、音楽館以外では、スイング、ブレイキー、ジニアス、デュエットだった。そのほかにも百軒店の中にはブラックホーク(音楽館と同じビルの一階)、BYGなどのロック喫茶、そして界隈ではおそらく一番の老舗だった名曲喫茶ライオンもあった。
BYGとライオンは今でもあるはずだけど、ジャズ喫茶は全滅したと思う。もう何年も足を運んでいないので、また新しい店ができているのかもしれないが、かつての賑わいは望むべくもないだろう。
再開発について声高に反対を叫びたいなどと思っているわけではない。
百軒店自体、もとは関東大震災の後に「開発」された商業地だったということを考えると、都市のうたかたの一コマではないかという気もする。
だが同時に、現在の「再開発」が、かつての偶発的な要素を多分に含んだ「開発」とは違い、周辺環境から内側の細部まであらかじめ計画されたテーマパーク的な性格を持っていることを考えると、もうそんな誘導的(洗脳的?)な消費空間はいらないよという気にもなってくる。
西武(公園通り)と東急(ハンズと109)の「明るい」開発合戦で大きく街としての性格を変えてきた渋谷の中で、曖昧でいかがわしい、だがそれゆえに魅力的な翳りを支えていたのが百軒店のような場所だったような気がする。少なくとも僕は、明るい公園通りのような場所に落ち着きを見出せなくて、ひたすら猥雑で暗い道玄坂から百件店、そして円山町辺りに滞留していた。
そんなことを思い出すと、今回の再開発計画によって渋谷の翳や奥行きがますますやせ細ってしまうのではないかという思いも抑えることができない。
かつて「奥」という概念を手がかりに日本の都市空間の魅力を論じたのは、確か建築家の槙文彦だった。槇はそれを日本独特の空間構造として論じていたけれど、少し視点を変えると、「迷宮性」が都市の命脈を保っているという感覚は、パリをモチーフにしたアンドレ・ブルトンの『ナジャ』や、ニューヨークのヴィレッジを論じたジェーン・ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』にも通じているのではないかと僕には感じられる。
今の百軒店にどれほどその感覚が残っているのかは、正直言ってよくわからない。だがかつては、あの空間に、どこかしら「明るい街」の予定調和的な「楽しみ」を揺るがす予測不能の「悦び」の種が撒かれていたことは間違いない。もちろん、その「悦び」の方は、危険や頽落の気配と表裏一体ではあったのだけど、その感覚はジャズの命とも言うべき即興性、相互応答性と密に絡まり合っていたと思う。
今、若い世代の間でジャズそしてジャズ喫茶がふたたび脚光を浴びていると聞く。けっこうなことには違いない。ファッション雑誌なんかが取り上げているのを目にすることも少なくない。
だがページをめくっていると、何か物足りない感じがすることも否定できない。ジャズだけではない、すべてがお洒落に加工されたカタログアイテムに還元されてしまう情報社会であってみれば、それもご時世かとも思うが、そういった点の羅列が教えてくれないのは、「界隈」という生態系の息遣いだ。
思うに、「界隈」はテーマパーク的な手法からはけっしてつくることができない。予期不能なエレメントの侵入を交えた即興性と応答性の積み重ねから自己生成的に成り立ってくるのが「界隈」だと思うからだ。つまり、自然の風景が、地形や天候や動植物や微生物、そして人間の介入の絡まりあいの中から出来し、変わり続けるのと似ているということだ。
皮肉な見方をすれば、もしかしたら、そのようにして変わり続けた果てに自然消滅したことも、生態系としての界隈の必然だったのかもしれない。だけど、現在進行中の再開発計画が根本から断とうとしているのは、そういった自然発生的な予測不能のエレメントをたくさん抱えた「生成」や「消滅」ではなく、計画的にコントロールされ、持続すること、いや加速することを強制された「生成」なんだろうと思う。
すでに渋谷という街に魅力を感じなくなって久しい僕のような人間は、この再開発を他人事として冷めた目で見る感覚も大いにあるのだけれど、他方では、すでに出来てしまった距離感が、これで二度と息を吹き返すことのない不可逆的な断絶に至るのだろうという、一抹の寂しさのような感覚を拭い去ることもできずにいる。