【SH考察:021】地図と学ぶイベリア半島の勢力入れ替わり
Sound Horizonのシングル『聖戦のイベリア』、中でも特に『侵略する者される者』では、レコンキスタ完了までの流れが描かれている。
世界史を履修する際に助かる要素だ。
とはいえ教科書で扱われる量にも限界があるため、今回はもう少し細かめに、かつ地図上で勢力図を確認しながら、視覚的にわかりやすくなるようにイベリア半島の勢力変化を確認していく。
対象
Story Maxi 聖戦のイベリア より『侵略する者される者』
考察
紀元前6~5世紀:イベリア人居住地にケルト人が流入し混血化
もともとイベリア半島にはイベリア人が住んでいた。
イベリア人がいつどこからやってきたのかは諸説あるが、ともかく先史時代から居住していた彼らをイベリア人と呼ぶ。
そこにケルト人が入り混じるようになった。
今でこそケルトといえばイギリス・アイルランドのイメージかもしれないが、もともとケルト人はヨーロッパ中に広く分布していた。
そのケルト人がイベリア半島にも入ってくるようになり、もともといたイベリア人と混ざり、やがてケルティベリア人として一体化。
このケルティベリア人を、スペイン語ではCeltíberosという。
紀元前6世紀:カルタゴがイベリア半島に侵攻
カルタゴはアフリカ大陸北部で、フェニキア人が建国した国。
当時ヨーロッパ側はローマ帝国が幅広く支配しており、イベリア半島もまたローマの支配下にいた。
海を挟んですぐ向かいにいたカルタゴとは地中海周辺を巡って対立関係にあった。
やがてカルタゴは海を渡って南からイベリア半島に侵攻、植民都市を造った。
紀元前2世紀:ポエニ戦争でローマ帝国がカルタゴを退ける
ローマ帝国とカルタゴは、地中海の覇権を賭けて3回、計120年ほどにわたるポエニ戦争で衝突。
結果ローマが勝利し、カルタゴは滅亡した。
今イベリア半島と呼んでいる一体のことを、かつてラテン語で「Hispania」と呼んでいた。そしてこのヒスパニアが今のスペインという国名の語源だ。
4~6世紀:ゲルマン人の大移動
ゲルマン人とは、ざっくり言うとヨーロッパ北側にいた者達。ローマにいた主な民族とは別民族。
しかし気候が寒冷化して食糧確保が難しくなったため南下する必要性が出てきたり、東からフン人(Huns 図の緑線)が攻めてきたので西や南に押されたりなどで、ローマ帝国内に侵入・侵略を始めた。
この後出てくるヴァンダル族(Vandals 図の青)や西ゴート族(Visigoths 図の紫)はゲルマン人の中の一族。
ヴァンダル人や西ゴート人と言っても良いのだが、ゲルマン人の中の一族ということが分かるよう、区別して「~族」と呼ぶ。
409年:ヴァンダル族がイベリア半島に侵攻
ヴァンダル族は現ドイツ・フランスあたりを経て、フランスとスペインを隔てるピレネー山脈を超え、北側から侵入。
ローマ帝国はイベリア半島でヴァンダル族の国の建国を認めたが、これはローマ本陣から遠いところに退けるための策だったと推測される。
ヴァンダル族の長距離大移動は、その道中で地元民からの略奪を伴うものだった。現代でも英語でvandalizeは破壊するという意味の動詞であり、ヴァンダル族の横暴な様子の痕跡として残っている。
歌詞中「蛮勇」つまり理性のない向こう見ずな有様を表す語を用いているのは、この歴史的背景を意味しているのだろう。
5世紀:西ゴート族がイベリア半島を支配
その後、ヴァンダル族はさらに北側からやって来た西ゴート族に押される形で海を渡って北アフリカに拠点を構えたので、結局ローマ本陣・イタリアの目の前に現れた。
ローマからすると遠くに退けたはずのヴァンダル族が目の前に現れたのだから肝を冷やしただろう。
西ゴート族もまた大移動し、その過程でローマ帝国からの許しのもと建国。他のゲルマン人など他民族と戦った。
当初は今でいうフランスあたりに建国し、上の地図のように現フランスからイベリア半島にかけての一帯を支配していたのだが、507年にフランク族に敗北したことで宮廷をイベリア半島に移した。
ちなみにイスラム教が成立したのは610年頃。そのためまだこの時点ではキリスト教とイスラム教による対立は起こっていない。
711年:ウマイヤ朝がイベリア半島に侵攻
イスラム教成立後、アフリカにいたウマイヤ朝が711年から海を渡ってイベリア半島に侵攻。イベリア半島はわりとあっさりと支配される。
この支配より前、西ゴート王国と当時まだ北アフリカまでを領土としていたウマイヤ朝の間を行き来して商売をしている西ゴートのフリアン伯爵という人物がいた。
この伯爵には美しい娘がいたのだが、当時の西ゴート王ロドリゴがその娘を襲ったため、伯爵は王に対して激しい怒りを感じていた。そこで、彼はウマイヤ朝に手を貸し、イベリア半島に渡ってこられるように手配したのだった。
どうもこのロドリゴ王、人望がなかったらしい。フリアン伯爵以外にもウマイヤ朝に手を貸す者がいたり、とうとうウマイヤ朝勢力がイベリア半島に攻めてきたとき(グアダレーテ河畔の戦い)も、対抗するために用意した兵士たちの中に王の指示を聞かなかったり逃亡を図る者がいた。
ロドリゴ王の最期は確実ではないもののこの戦いで死亡したとされており、王の死をもって西ゴート王国は滅んだ。
そしてそこにウマイヤ朝は更なる勢力をイベリア半島に送り込み、イベリア半島はキリスト教圏が支配する地域からイスラム教が支配する地域と変わった。
718年:キリスト教の王国が成立しレコンキスタ開始
718年、イベリア半島北部にキリスト教徒の国アストゥリアス王国が建国される(上記画像の水色の狭い範囲)。
ウマイヤ朝勢力から北に逃げ延びた旧西ゴート王国のぺラヨという人物が件国者だ。彼は貴族出身だとか、ロドリゴ王と親戚関係だとか言われている。
ここからキリスト教圏はイベリア半島奪還を目指し、国土回復運動や再征服運動と呼ばれる活動を始める。それをスペイン語でReconquistaという。
一般的に、このいったんイスラム教ウマイヤ朝に支配された状況下で、キリスト教国ができた時点からレコンキスタが始まったとみなされている。
1037年:カスティーリャ=レオン王国が同君連合を組む
王朝は変わるものの、イスラム教勢力は相変わらずイベリア半島の領土を保っていた。
一方でキリスト教圏も巻き返しを図り、1037年にカスティーリャ王国とレオン王国は同じ王が頂点に立つ同君連合を組んだ。
1137年:アラゴン=カタルーニャが連合王国化
アラゴン王国は、フランク王国(フランス)から独立したバルセロナ伯領カタルーニャと同盟、アラゴン連合王国となった。
1479年:スペイン王国成立
1469年、アラゴンの王とカスティーリャの女王が結婚し連合。
さらに1479年にはスペイン王国という一つの強大なキリスト教国になる。
この時点になるとイスラム教圏であるナスル朝グラナダ王国(Gradana)はかなり南側に追いやられている。
なお、シャイターン(とライラ)が人類共通の敵になったのは、スペイン王国ができる前のようだ。
サァディが以下のように述べていることからわかる。
「カスティーリャを中心とした啓典連合王国」は明らかにスペイン王国の子と。
これが悪魔が去った後にできたということは、シャイターンとライラがいたのは1469 or 79年以前であることがわかる。
(連合王国の成立なので、1469年のことを指していてもおかしくない)
1492年:グラナダ陥落
1492年、スペイン王国がグラダナ王国を陥落させた。
これをもってレコンキスタ完了とみなす。
ムーア人とイベリア人
最後に余談だが、歌詞カードの記述とナレーションで少し内容が違う部分があるので触れておく。
これは歌詞カードでは日本語で綴られているが、実際には英語ナレーションで語られる文章の一部だ。
「父と母」の部分が「Moors and Iberians」に置き換わっている。
ムーア人とは学術的に確立した民族名ではない。
もともとイベリア半島に住んでいたキリスト教徒が、侵攻してきたイスラム教徒を指して表現した名前だ。
そのため、アラブ人もベルベル人もイスラム教徒のヨーロッパ人も、まとめてムーア人と大雑把に呼ばれていた。
ライラの父はイスラム教徒、母はキリスト教徒。
日本語の文章ではあくまで、父と母どちらに味方するのか、くらいの意味合いに見て取れるが、実際にはそれがそのままどちらの宗教・主義・文化に属するかという大きな決断になることが、英語ナレーションもあわせるとわかる。
結論
レコンキスタ及びキリスト教徒とイスラム教徒との争いに焦点が当てられがちだが、実際にはもっと昔のイベリア半島の様子から描かれていた。
なお、サンホラの世界でのガリア(ヨーロッパ)では、この後しばらくしてアルベール アルヴァレスが率いるフランドル軍が攻めてくる。
イベリア半島の争いの歴史はまだ終わらない……。
ちなみに、老人と三姉妹がなぜイベリア半島を流浪し、歴史を観察しているのかをまとめた記事はこちら。
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他にもSound Horizonの楽曲考察記事を書いています。
更新履歴
2023/05/08
初稿
2023/07/30
「ムーア人とイベリア人」章追加
2024/04/15
一部加筆
2024/04/16
一部加筆
2024/04/24
一部歌詞引用について「※ルビは書き起こしのため誤差がある可能性あり」の注釈追記