【SH考察:072】アイルランド移民の史実と名もなき男の努力
Sound Horizonのハロウィンと夜の物語で、本名すら曖昧な男がいる。兄妹の兄の方で、彼の人生の晩年5年ほどが胸中で描かれている。
その背景は非常に現実の史実に忠実だ。
今回は史実を掘り下げながら、彼を取り巻く状況を理解しつつ、一見名も空き男として死んだ彼の偉業を振り返りたい。
対象
Story Maxi ハロウィンと夜の物語より『星の綺麗な夜』『おやすみレニー』
考察
舞台はアイルランドからアメリカへ
ハロウィンと夜の物語は、アイルランド出身の兄妹がアメリカに渡り、アメリカでどのように過ごしたかが描かれている。
物語の開始時は19世紀初頭(1800年代初頭)。
当時アイルランド"島"はそのすべてがイギリス、正式にはグレートブリテン及びアイルランド連合王国の一部となっていた。
現在のアイルランドとグレートブリテン及び"北"アイルランド連合王国とは異なり、二つの島が一つの国家を築いていた。
1800年代初頭:産業革命
物語の開始、起点となったのは産業革命だ。
産業革命とは、産業に使用するエネルギーが変革し、それによって技術が進化し、社会構造が変わっていく一連の変動のこと。
それまでは職人が手作業で行っていた生産が、工場に大量の人材を集めて分担して大量生産するという形態に変わっていった。
これにより工場単位で見れば安定的に大量生産できるようになった。
しかしアイルランドは同じ国の中とはいえ、イギリス本島から見れば植民地状態だった。そもそも併合も、イギリス側から一方的かつ強制的に行われたものだった。
アイルランドはイギリスと比べて権利が無く貧困で、産業革命に取り残され、農業が主な生業となっていた。
そのような情勢下であるため、貧しいアイルランドから豊かなイギリスへ渡り工場労働に勤めるならまだしも、豊かなイギリスから貧しいアイルランドへ渡るのは確かに変わり者と言える。
1845-1849年 :ジャガイモ飢饉
変わり者爺がアイルランドに渡ってから約40年後、孫世代の時代の話。
アイルランドの主要作物であるジャガイモが疫病で大凶作となり、その影響で大飢饉になった。
ジャガイモは腐り悪臭を放つドロドロとした状態になってしまっていた。
これにより多くのアイルランド人が餓死し出産数が減り、さらに移民による人口流出が起こり、アイルランドの人口は激減した。
命がけのアメリカへの移民
ジャガイモ飢饉に背中を押され、アメリカへ渡る人が増えた。
しかし飢饉で栄養失調状態で、衛生面が全く担保されていない船でアメリカへ渡るため、渡航中に死ぬケースも多々発生した。
そのため、移民船は棺桶船とも呼ばれるようになった。
移民船の死亡率は高く、これはアメリカではなくカナダへ向かった移民船のデータだが、10万人のアイルランド人のうち5分の1、つまり2割は死亡している。
どの移民船でも環境は似たようなものだったと推測されるため、おそらくアメリカ行きの移民船でも同等の死亡率だっただろう。
ちなみに、ジャガイモ飢饉自体は4年ほど続いていたが、兄妹のうち兄の方は飢饉が始まって割とすぐ、1845年にはアメリカに渡っていたようだ。
1845年~ :明白なる天命
ここから兄の人生の舞台はアメリカに移る。
マニフェスト ディスティニーとは、アメリカを西へ西へと開拓、領土拡大していく運動は、神から与え給われた使命であるという主張だ。
要するに先住民から土地を奪うことを正当化するための標語だ。
この当時のアメリカはまだ現代と比べると領土が狭く、西側を支配できていなかった。
「パンのあるところに祖国あり」とは移民のモットーとされている。祖国では貧民でも、新天地では市民として土地とパンと保護と地位を得るチャンスがある。飯にありつけるこの国こそが祖国だ、という意味合いだ。
ラテン語の「Ubi panis ibi patria」のことで、フランス系アメリカ人クレヴール著『アメリカ農民からの手紙』内の記述に由来する。
ただし、紀元前のローマの詩人が使った表現「Ubi bene ibi patria(人生が良いところに祖国あり)」とフォーマットが似ているため、クレヴールがこの言葉を発案したというよりは、この詩の表現を参考に作った言葉であると思われる。
1846年 :米墨戦争の勃発
米墨戦争はアメリカvsメキシコの、テキサスを巡って勃発した戦争だ。
少し時間を巻き戻して、テキサスは1836年にテキサス共和国としてメキシコから独立したが、その後1845年にアメリカに併合された。
メキシコはそもそもテキサスの独立も認めていなかったため、アメリカにメキシコを奪われたようにとらえた。
そしてアメリカとメキシコで、互いの間に引かれる国境がどこかという点でも認識に相違があり、そのすり合わせもうまくいかず戦争にまで発展した。
このように、アメリカが国境とする川のほうがより南だったため、2つの河川の間に挟まれた領域がどちらの国の領土かで揉めた。
1847年 :ブエナ・ビスタの戦い
米墨戦争中の戦いのひとつがブエナ・ビスタの戦いだ。
アメリカ軍が大砲を使ってメキシコ軍に勝利した。
ブエナ・ビスタは小さな村だったようで、現在村そのものはないようだが、モニュメントがあった。
この戦いで指揮を執ったのがザカリー・テイラー少将。後の第12代アメリカ合衆国大統領だ。
ちなみに、少将や大将など、ある程度の規模感の隊や軍を率いる地位階級は複数ある。ただそれらの階級をひっくるめて英語ではGeneralと呼び、その和訳が将軍になる。
つまりテイラー少将の部下が「テイラー将軍に続けー!」と叫ぶのは何の違和感もない。
この頃の戦争ではマスケット銃が使われており、銃弾を発射する際に散る火を、竜が火を吹く様子にみたてて竜騎兵と呼ばれた。
ここでのアイルランド移民の立ち位置が少々ややこしい。
彼等は聖パトリック大隊に属していたが、アメリカを裏切ってメキシコ軍の一部としてアメリカと戦った。
まず、ここにいたアイルランド移民の多くはキリスト教の中でもカトリック教徒だった。
それに対し、アメリカ合衆国はキリスト教の中でもプロテスタントの国だ。要するに宗派が異なる。
そして、メキシコは長らくカトリック国スペインの支配下にあったため、カトリック教徒が多く、そしてその植民地支配から独立した国だ。
つまりアイルランド人からすると、メキシコは宗教が同じで、他国に支配されていたという似た境遇を感じる相手だった。
(またアメリカ側に属しても待遇が悪かったなど、その他いろいろな異常もあったようだが)
結果的にアイルランド人とそれ以外の出身でもカトリック教徒を多く含む聖パトリック大隊は、アメリカを裏切りメキシコ側につき、アメリカと戦う道を選んだ。
だが、『星の綺麗な夜』の兄妹の兄は、宗教よりも勝ちそうな軍・国につく方を選んだようだ。
聖パトリック大隊の者達はその後処刑されたため、兄はこの裏切りからの寝返り(ややこしい)で命拾いしたことになる。
ただし膝を撃たれて後遺症があったようだが……。
1848年 :ゴールドラッシュの始まり
カリフォルニアで金が発見されたことで、たちまち人が集まって金の発掘が行われた。
サッターミルなど金鉱のあたりはもともとはメキシコの領土だったが、金発見直後に米墨戦争が終結し、負けたメキシコから勝ったアメリカに割譲された。
金が見つかったことが新聞で報じられ、大統領(この頃はまだ11代ジェームズ・ポーク)が事実と認めると瞬く間に人が殺到。
それが金発見の翌年1849年だったため、集まった人々はフォーティナイナーズと呼ばれた。
ただし兄がこの流行に乗れたとは言い難いだろう。
彼はブエナ・ビスタの戦いで膝を負傷し後遺症を負っており、松葉杖を使って歩いている。
その状態で鉱山労働ができるとは思えない。
鉱山労働は苛酷だ。そもそも金を探し当てるという体力勝負な仕事であるのは勿論だが、あらゆる地域から移民が集まったことで差別的な活動と自衛の攻防もあり、死亡率も犯罪率も高かった。
そのような環境下で足を引きずる兄が十分な働きができたとは考えにくい。
移民となった兄妹
兄がいつ亡くなったかは定かではないが、1850年くらいだと思われる。
彼は妹ケイトに金銭的援助をしており、そのおかげで彼女はアイルランドの地で飢饉を堪えることが出来た。
追ってケイトがアメリカに来たときには、既にサンフランシスコは金のおかげで栄えた街として発展していることから、兄は飢饉が始まってすぐの1845年、妹ケイトは飢饉終盤か乗り越えた後の1849~50年頃と、5年ほど間を開けて移民となったということになる。
結論
【爺の孫にあたる男】で【移民の男】で【退役した男】で【妹思いな男】で《死にゆく男》である兄は架空の人物だが、必死に生きようとしたアイルランド移民としてはあり得そうな人生だった。
移民になってから刺されて死ぬまでの間は5年ほどだが、激動の人生だったと思う。
彼の原動力は妹であり、途中からはそこに恋人ディアナや生まれて来る子、つまり自分以外の大切な家族だったはず。
そこまでして自分以外の他者のために必死になれる人、劣悪な移民船で生き残り戦争に参加し宗教観や共感を捨て戦い負傷しても働くことが出来る人は、果たしてどれほどいるだろうか?
彼自身は自分を名もなき男と言ったが、称えられるべき男だと思う。
―――
よろしければスキボタン(♡)タップ・コメント・シェアしていただけますと幸いです。
他にもSound Horizonの楽曲考察記事を書いています。
更新履歴
2023/12/23
初稿
2024/04/24
一部歌詞引用について「※ルビは書き起こしのため誤差がある可能性あり」の注釈追記
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?