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第196話:ある日の黒板

12月頃になると授業が問題演習になり、生徒が解答している間は暇なので、黒板にメッセージを書いていました。これはそんなメッセージの一つですが、黒板に書くので次の時間には自動消滅するのですが、生徒が偶然写メして持っていたので残ったものです。

ある日の理数科の授業で、ふと、なぜ国語を学ぶのかという生徒の質問に答えてみようと黒板に書きつけてみました。理系の生徒は、国語に苦手意識を持っている生徒が多く、なぜ、評論なんか読まなきゃいけねえんだ・・と思いがちです。

その場の思い付きで書くので、まとまりもありませんが。
画像を貼ってみましたが、当然読みにくいと思いますので、下に文章を書きだしてあります。
よろしければお読みください。

ある日御黒板
ある日の黒板

うざったいことですが、国語を学ぶ意味があるかということを考えます。理数科だから国語は大概嫌い。去年は「アレルゲン」とまで言われてスタートしました。

今、僕は国語は「考えるための道具」かなと思っています。道具という言い方はよくないだろうし、あるいは日本語によって制約を受けているという考え方もできますが、当面、英語で寝言が言えるようでなければ、僕らは日本語で感じ考えるしかありません。

君達が生きていく時代は素晴らしくもあるけれど、結構揺れています。絶えない戦争。中、ロ、北朝鮮、中東、地球温暖化、少子高齢化、災害、AI・・。そうした様々な問題について考え、判断していかなければなりません。

正しい判断をするためには豊かさのイメージをあやまたずに持つ必要があります。そのためには「ことば」に鋭敏になり、責任ある「ことば」を自分の内につくっていく必要があります。理系的な感覚の中に文系的な感覚もあっていい。

たぶん人は「幸せ」になろうとして生きているのに、「幸せ」になれないのは何故だろう?そんなふうに自分に問うてみるのも大事でしょう。
知識だけでも、お金だけでも、人は「幸せ」になれない(でも、お金はあった方がいいネ)。「幸せ」について問い続けることが「幸せ」を実現すると言ったら禅問答かもしれません。広く学び「知見」を得、いろいろな「経験」の中で「感じる」大学生活を送ってください。自分の「言葉」で語れるように。

蛇足ですが、どんな?文章も「幸せ」を目指して書かれていると僕は思っています。(新テスト〈→共通テスト〉の実用国語〈→実用的文章〉など論外です。)こいつの考える「幸せ」って何だろうと、筆者のメッセージを受信することが「ヨム」という行為なのだと思います。
そんな気にはならないだろうけど、文章を読んでいくとき考えてみるかね。(今日はマジメに書いちゃったネ)


■土竜のひとりごと:第196話


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