第210話:北京五輪とワリエア
北京オリンピック、フィギュアスケートのワリエア問題。
ドーピング陽性の発覚、暫定資格停止処分、解除。出場した15歳のワリエワには非難の目が向けられる。SPでトリプルアクセルの失敗。フリーでもジャンプでミスを重ねる。
演技後の彼女を迎えたコーチの言葉が物議を醸した。
別の報道によると、銀メダルを取ったトゥルソワ選手が、このコーチの祝福のハグを身をよじるようにして拒否し、「いらない、あなたは全部分かっていた」と言ったという。
その発言は後に本人によって「優勝できなかったので色々言ってしまった」と説明されている。ワリエア本人も「コーチを愛している」と後日語ったと報道される。
コーチの言葉も本当のニュアンスはどうだったのか、ワリエアの心理状態はどうだったのか、故意にジャンプを失敗したのか? 折からロシアのウクライナ侵攻、世界の目はワリエアに正しく向けられていたか?
いろんなことは憶測の域を出ないが、大人の思惑が15歳、17歳の選手の気持ちを翻弄している事実だけは間違いない。国家としての威信を得るためのオリンピックの政治利用、圧力によって「勝つ」ことを最優先させた結果だと言える。選手は「道具」でしかない。彼女らは日本で言えば、まだ中、高校生でしかない。
ただ、こうしたこと、発想は身近にもあって、僕らも我が事として考える必要があるのだと思う。
スポーツの指導しているとどうしても「勝つ」ということが最優先になりがちになる。勝負ということが明確なスポーツの世界では、勝敗が「結果」として判断されやすい。それは選手を一つの目標に向かって技術や心の在り方を身につけさせるのに格好の条件となる。
僕も、高校の部活顧問をしていて、ちっぽけながら指導する立場にいる。
「選手が勝ちたいと思っている」と指導者はよく言い、僕も若い頃はずっとそう思って生徒に勝つことを要求してきた。その過程で困難を乗り越えることが成長なんだ、と。
しかし、ある時、「勝ちたいのは自分ではないか」と思ってみた。すると、確かにそうだったことに気づき、そう思ってみた時に愕然とそれまでの指導の在り方を考えたさせられた。生徒を「道具」に使っていたのかもしれないという痛烈な反省である。
でも、そこから解放されてみると、純粋なコミュニケーションや親密な関係が生まれ、お互いに何故テニスをするのかという意味が見えて来た気がした。
考えてみると受験結果もそうであるかもしれない。有名大学に何人合格させるかのような発想は、それが生徒の希望であるものの、生徒を「道具」として見ている発想と同じなのかもしれない、と。
競争による発展や数値目標のクリアという「掟」は、そういう発想を導きやすい。それは今の社会が求める効率や成果主義の弊害であるだろう。
ただ、僕は勝手に思うのだが、コーチの言葉として、その背景にあるドーピングとか、己の保身とか言ったものを捨象すれば、あの「なぜ、途中で放棄したのか」という言葉はスポーツをする人間としては納得できる。
どんな場合にも「放棄」することはスポーツ選手として許されない。それが指導者の立場である。
むしろ、僕はバッハ会長の言葉に疑問を感じる。「自分たちの選手に、こんなにも冷たい態度を取れるのか」という言い方は、第三者的な論評に過ぎない。出場を認めたのはIOCなのに、その責任が見えない。
むしろ、そのコーチに批判を向けさせることで、自分たちへの批判を回避しようとする「政治的」意図があるようにさえ感じてしまう。
言葉は「つながり」の上にあって初めて正しく理解される。スポーツが何を目指すのか、このドタバタ劇は、そうしたことをもう一度振り返べきだと教えてくれている。
蛇足のようになるが、ロシアがウクライナへの侵攻した。プーチンが国家や人間を「道具」として扱い、自分の野望を実現させようとしている。
世界大戦、核戦争の拡大への危惧。戦火の中、命を失い、命を脅かされている人たちがいる。香港の時もミャンマーの時も。命を踏みにじろうとする力に対して僕らの生きている社会はそんなに無力なのか、そう素朴に思う。
僕らは「道具」ではない。
■土竜のひとりごと:第210話