学び舎
学校の授業で、教師が問題を出したとする。
その問題に生徒が不正解を出したとしよう。
その生徒を咎めて、追い詰めて、落伍者の烙印を押すような教師がいるだろうか。
まともな教師であれば、その問題について考えさせ、たとえ不正解が出ても、なぜそれが不正解なのか、何が正解なのかを学ばせることに意味があると考えるだろう。
ところが社会には失敗が許容されない空気がある。
絶対に失敗できなければ、新しいことにチャレンジもできない。
失敗するリスクをとることができないからだ。
しかし、新しいことにチャレンジしなければ、人も社会も、その成長や発展を望めない。縮こまってしまい、閉塞感だけがはびこる世の中になってしまう。
失敗することがすべて悪なのだろうか?
もちろん望んで失敗をする必要はないが、残念にも失敗してしまった時に、なぜ失敗したのか、どうするべきだったのかを考え、そこから学ぶことはできる。そうやって人は成長するのではないだろうか。
実際、科学の発展の裏には無数の失敗があったはずである。
一切失敗せずに大人になる子供がいるだろうか。
人間である以上、みんな何かしら失敗もする。
大事なのはそこから何を学ぶかだろう。
本当に恐れるべきは、失敗を恐れるがあまり、何にも挑戦しないことだと思う。
それによって自らの学びや成長のチャンスを逃してしまうことの方が問題ではないだろうか。
私たちはみな「人生学校」という学び舎で、一緒に学んでいる生徒のようなものなのだ。
誰も完璧な人間はいないし、みんなお互い失敗しながら、それを赦し合いながら、共に学び、成長している。
私たちはみんな人生学校のクラスメートみたいなものなのだ。
失敗が許容されることで、学びにも成長にもつながる。そしてそれはお互い様なのだ。
誰かが失敗したことを責めるのではなく、自分もそういう失敗をして人に迷惑をかけたことがあるかもしれない、もしかしたらこの先あるかもしれない、そう思ってお互いを赦し合って生きることが、この閉塞した社会の空気感を変えていくのだ。