「一日一生」で生きる
私たちが日常、何かに感謝することがあるとすれば、それは得難いものを得たときではないだろうか。
例えば、アカデミー賞を受賞した人のスピーチを聞くと、多くの人が感謝を述べている。それは、その賞がいかに得難いものであるかを物語っている。
その反対に、全く得難くないもの、そこら中にありふれているものを得たとしても、あまり感謝の思いは湧いてこないだろう。
それは、いつでも手に入れることができるからだ。
「ゼロ・グラビティ」(2013年アメリカ)という映画の中で、主人公は宇宙で様々な困難にぶつかる。船外では命綱が切れることは死を意味するし、スペースデブリにぶつかっても、酸素がなくなっても同じだ。
様々な困難を辛くも逃れ、ようやく主人公が地球に帰還できたとき、その物語をじっと見てきた観客は、ホッとしながらこう思うのだ。
「大地があって、酸素があって、生身でも生存できる地球の環境は本当にありがたいものだな」と。
これは映画の話ではあるが、現実も同じだ。
私たちは日々日常にある素晴らしいものを当たり前のごとく享受している。
先日の能登地震では多くの方が亡くなり、今も被災者の方々は避難所での生活を強いられている。まさか、元日に大地震がくるとは本当に誰も思っていなかったのではないだろうか。
でも、実際には起きてしまった。私たちは本当にいつ死ぬかは誰にも分からない。
冒頭のアンジェリーナ・ジョリーの言葉にある通り、明日死ぬかもしれないのだ。もしも、自分が明日死ぬことが分かっていたとしたら、今日という日はどれほど貴重で、尊く、「得難い」ものだろうか。
そう、あなたの今日は実際はとても「得難い」ものなのだ。
時間は一度流れてしまえば取り戻すことはできない。今という時間は、今、この時にしか味わうことができない。
どれだけお金を持っていても、どれだけ有名人になっても、どれだけ人から尊敬を集めていたとしても、過ぎた時間を取り戻す方法はこの世に存在しない。
にもかかわらず、昨日と同じように今日がきて、今日と同じように明日が来ると思ってしまう。そこには何の保証もないのに。
今与えられている時間というものが、実際はとても得難い時間であることをしっかりと認識して、それを無駄にしないで生きる。
明日死んでも悔いが残らないくらい精一杯の思いで、「一日一生」の思いで、今日という日を生きる。
それを積み重ねて、人生の最後の瞬間を迎えたとき、自分自身が後悔せずに、納得のいく人生だったなと思えるのではないだろうか。