もうヒーローは来ない
本戦に出したのが「やる」話ならこちらは「やらない」話
「それにしても困ったわ!また当分外出できなくなるわね」
世界を覆った流行性感冒が効果的なワクチンによってまたしても人類の勝利によって終わってなお、人はマスクをつけ外出していた。
「とにかくマスクしないと、外気から体内に入ってくるんだって。いやぁね」
「ダークムーンでしたっけ?」
「そうそう。なんだってそんなものが出てきたのかしら」
「スペースシャトルじゃないかしら」
道端で話し込む主婦たちのそばを、ひとりの男が通り過ぎた。茶色い時代がかった皮ジャン、古びたジーンズ、長い髪、真っ赤なバンダナを首に飾って、なんかのコスプレに見える。
男の後を白いワンピースの少女が駆け寄ってきた。
「ねぇ、ほんとうに行かないの?」
男は少女を無視し、すたすたと歩く。
「ダークムーンを倒せるのはあなただけなのよ?」
少女は男にしがみつこうとしたが、男は大きく肩をいからせてその手をはらった。はらわれた少女の左手には指輪。
「この世界は……」
「ダークムーンですって!」
「ねぇあなた関係者なの?倒せるの?」
主婦たちは少女にまとわりついた、男はそれを尻目に歩いていった。少女は男に何か言おうとして
「幸せにな」
との男の声に、黙りこくってしまった。
男は一人の狭い借家に帰ると、猫を撫で、工場の作業着へと着替えた。長い髪もゴムでまとめ作業帽を深めに被り、前時代のヒーローのような男はもうどこにもいなかった。
安手の鞄を持って借家を出、男はコンビニに入る。
『ダークムーンの危機!ガス生命体の恐怖!』
『もう嫌だ自粛生活。ダークムーンは水が苦手??』
コンビニの雑誌コーナーには世紀末感があるが、男は気にも止めず缶コーヒーと菓子パンを持ってレジに進んだ。
「280円です」
セルフレジに小銭を、お釣りを募金箱に入れ男はコンビニを出ようとする、その時、先ほどの白いワンピースの少女が慌ててそこに駆け入ってきた。
「あの、こういう男性知りませんか?」
少女は皮ジャンの男の写真をコンビニ店員に見せたが、店員は知らないと言った。
「知りませんか?」
少女は男にも声をかけてきた。男は黙って立ち去ろうとした。すると、少女は男の鞄を掴んだ。
「あの、少しお話いいですか?」
「迎えが来るまでなら」
少女は少しほっとした顔で、男とコンビニを出て駐車場の椅子に座った。
「あっちでもこっちでもダークムーン。人類の危機なんて歴史上何回もあったのに、いざ自分がそこで働くぞ!となったら何もできないものですね」
男は何も言わずコーヒーを開け飲みだす。
「わたし、結婚するんです。だからこんな騒ぎ早く収めて平和な世界で子供を産みたい」
男は何も言わない。
「でも、ヒーローが逃げちゃった。わたしを愛しているんじゃないの?結婚だって祝福してくれそうなのに」
男は黙っている。
「相手の人は対ダークムーン研究所のリーダータナカ、彼の友人だったの」
一言も発さない男に少女はさらに続けた。
「プレッシャー?博士はヒーローの強い肉体にこれならば適合手術に耐えられると、非人道的な手術をした、でもそれは彼が望んだことなのに」
男はようやく口を開いた
「先ほどから聞くと、その『ヒーロー』にはなんの報酬もなかったかのようだな」
少女は真っ赤になって怒った。
「だって人類の危機なのよ?みんなの期待を背負っているのに」
「じゃあやらせろ」
男は威嚇するように言い放った。
「やらせろ、生で出させろ、前も後ろも。金も名誉もよこせ。
皆が期待しているんだろう?先ほどから聞いていれば、なぜそれ相応のモノを与えない」
「な」
「そのタナカにはやらせたんだろう?まぁお前に世界を守る原動力になるだけの価値があればだがな」
「あの人はそんなこと言いません!」
少女はムキになって立ち上がった、駐車場に工場の名前のマイクロバスがきたのを認め、男は嘲笑う。
「と、俺なら言う。さて、迎えが来た、仕事だ」
男はバスに乗ろうと立ち上がり、少女の肩をそっと叩いた。
「その男じゃなくても誰かが世界を守るだろ。自分を幸せにしない世界に、ヒーローの幸せを祈れない世界に価値を感じればだが」
少女は小さな声をあげたが迎えのバスは、男を乗せて扉がもう閉まっていた。
男がバスに乗ると、隣の席の中年男性はなにか古めかしい本を読んでいた。
「これはね、昔の本なんだけど、どこかの女性が研究して、病気の新薬を作った。
それなのに偉い人はその女性になんの賞も与えず、女性は貧困のまま死んだんだ。
新薬は作られず、危機が訪れましたと」
「どこも一緒だな。それがある限り、もうヒーローは来ない」
そう男は笑った。
中年男性は漫画の話かいと言って苦笑いするだけだった。