映画 『ドライビング Miss デイジー』

『ドライビング Miss デイジー』
2022.9.15 鑑賞

 ストーリーがいい意味でフラットでよかった。大きな起伏がなくてゆったり安心して観られる。その反面、少し冗長に感じてしまうかもしれない。

 あらゆる角度での差別が描かれていた。黒人:白人、金持ち:貧しい、???:ユダヤ系(ドイツ系)。度々出る、デイジーの「私は偏見なんかしたことない」という言葉が怖い。差別や偏見って、自覚なく生じる部分があると思う。当たり前だと思っていたことが実は根本は差別・偏見から生まれたものだったりする。そこに気づいていない上での発言だったような気がして、意識なくこういった言葉を言ってしまう怖さを感じた。映画内では、頑固だけど段々と心を開いていく芯の強いおばあちゃん、という感じに描かれていたけどすごく怖い一面も持っている人でもあると思った。黒人がガソリンスタンドのトイレを使えないということを知らないこと、アデラは幸せだったと断言するところ、自宗教への信仰が深い余りにそれ以外に敵対するような態度をとるところ、キング牧師に感銘を受けているけれどもその実本人を蔑ろにした態度を取るところ。すげー怖い。
 でもそんなデイジー一家もユダヤ系という側面からは差別を受ける側である。さらに、デイジーは昔は貧しかった過去から、自分は金持ちであるけれど成金であるようにはみられたくないという見栄のような部分も持っている。これも、偏見に近いものの見方ではないか。そんな中で、自明の差別をしないということは簡単であるけれど、逆に無自覚なものをしないといえるのか。自覚がないまま行っていることは、“しない”ことはできないのではないか。一見、和解し仲良くやっているように見えたホークとデイジーの関係だけど、その裏には無自覚な差別意識がありそれにホークは耐えていた。もしかしたら、アデラもそうだったかもしれない。刷り込まれ当たり前になった物事が、もしかしたら誰かを傷つけているのではないかと考えた。

 今、多様性とかなんとか言ってはいるけれど世間が俎上に上げているものだけが考える対象じゃないし、それ以前の場所に何か考えなければいけないことがあるのではないかと思った。偏見や差別は拭い去れるものではなく、心のうちに浮かんでしまうことはしょうがないけれど、それを自分の中に留めておいて分別をつけて行動することが重要だと、個人的に思っている。でも、自意識の中で差別偏見だとわかるものに対しては自制が効くけれど、わかっていないものに関してはなんのストッパーもなく放出してしまうしそれに対して罪悪感を抱くこともない。その状態は恐ろしいと思った。発言や行動には気をつけているつもりではあるけど、今一度見直さないといけないとも思った。誰も傷つけたくないから。

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