幽玄朗読舞「KANAWA」
朗読劇×能、なんて気になってしまうに決まっているのだ。
伝統芸能にはまったくと言っていいほど詳しくはないけれど、興味がないわけじゃない。
波のように寄せては返す興味をタイミング良く捕まえる、というのは時間配分が下手な私には難しいもので、そのタイミングをこれまで逃し続けてきた。
本当に興味があるのなら、自ら捕まえに行くべきだったのだとは思う。
けれど私にあったのはとても淡い興味で、だから、これはとても良い機会だった。
能と言われて思い浮かぶのは大学時代の、能の葵上と特撮のカネゴンの共通項を探る、と言うちょっと変わった特別講座のこと。
講義のまとめがどんなものだったかはもうちょっと昔すぎて覚えていないけれど、ざっくりとした内容としてはどちらも妄執の話で、つまり、能はとても身近な、人間的な内容だってことを振り返って思う。
能楽堂にも行ったことがあって。たぶん小学校の社会科見学の時。
演目のことは覚えてないけれど、あの静謐な空気は今でも覚えているし、徳川美術館にある能舞台のお部屋はとても好きです。
私の中に存在している能の欠片なんてそんな小さなもので。
おそらく、知らないままでも面白く観れたんだろうな、と思う。
けれど、折角の機会だから、ほんとにざっくりとだけど能の基礎知識を触って、元の題材の鉄輪の現代語訳とちょっとした解釈や解説を頭に入れた状態で観ることにした。
観劇前に読んだのはこちらの2冊。
『マンガでわかる能・狂言』
『能楽名作選(上)』
現代語訳との二段組みだったので照らし合わせしやすくてわかりやすかった。
あと現代語訳で一応答え合わせはしたものの、原文でもそんなに苦もなく意味が取れて、なんだかんだ自分は真面目に古文を勉強してたなって思いました。笑
鉄輪は特定の人の話じゃない、そうなので、今回の朗読舞で描かれたのは鉄輪という物語の集合体のうちのひとつ。という認識でいいんだろうか。
物語の舞台は、平安の都。安倍晴明の活躍した頃。
藤原道長なのはだからわかるし、不特定多数のひとつである物語として名前を与えられた人々はわかるんだけれど、なぜここで和泉式部が?っていうことにしばらく頭を取られましたね。
貴船神社の丑の刻参り、の説話のひとつとして和泉式部のそれがあって、
和泉式部に扇動された女性たちがあの時あの場所でそれぞれに丑の刻参りをしていた、
あれこそが鉄輪は特定の人の物語ではなく一般女性の恨み辛みの集合値、を表していたのかもしれないし、
元の演目で社人が鬼になる方法のお告げをする役割を和泉式部が担っていたのかもしれないなぁ、と付け焼き刃の知識で思ったりしました。
古賀葵さんのお芝居に触れるのは初めてだったのだけれど、和泉式部のお芝居が良かったですね。
恋多き女の妖艶さと、童の如き無邪気さがあって、それがより一層狂気だなって。
式神ちゃんは大層可愛かったです。
が、燃えかけた行のとこ、あれはなんだったのかがぜんぜんわからなくてな…。
探索や干渉しようとした結果、鬼神の怒りに触れたり呪いの元になった負の感情の力が強い、の暗示ではあるんだろうけど、
その後の和人とのわちゃわちゃしてたので、はぁ…?って、なってしまった。
積み上げてきた物をいきなり頭上からぐしゃりと潰されてしまった感があって、燃えかけた意味がわからなくなってしまった。
これは個人的な趣味の問題なのだけれど、私はシリアスの中にギャグが要らないタイプの人間で、思いっきりシリアスに振ってくれた方が没入できるので、その、なんていうか、うん…。
とは言え、和人さんの丑の刻参りの説明は好かったんですよね。
メタ的に説明役であったからかもしれない。
物語とは切り離して、イラスト付きの注釈を読んでいる気持ちというか。
丑の刻参りっていわゆる呪いの話なので、それをコミカルに説明してくれるのなかなかシュールで面白かった。
個人的には、白装束で、のところで自分の姿を見下ろして、ああ白じゃない…けどいっか!みたいなとこがめちゃくちゃ可愛くて好きでした。
声を出しちゃいけないご時世だから、マスクで表情も見えないから、振り切ったお芝居への反応がたぶんとても薄くて、画面でしっかり抜かれた表情には、だ、大丈夫だったかなって、眼が若干泳いでて笑いました。
不安だよねぇ。笑
私は画面の前でしっかり笑ってたので大丈夫ですよ。笑
ところで和人さんは他の人に比べてぐっとお芝居が現代っぽかったのよね。
大河ドラマとか見てても思うことだけれど、時代物のお芝居ってたぶん発声が違うんだと思うの。
耳に届く和人さんの声は現代の話し言葉に発声が寄ってた印象。
ある意味でとても、物語の中で浮いている存在の声で、それは和人さんがこの物語の中でただ一人、呪怨の類いと無縁であるから、なのかもしれない。
純粋で、素直で、一人、人を呪う物語の輪の外にいる感じがする。
それはこの物語の中の光なんだろうと思うよ。
同じく物語を繋ぐ説明役であっても、貴船神社の社人は反対にどうしようもなく物語の中の人だった。
森のあちこちで重ねられていく呪いの傍にあって、随分と影を背負ってしまった声。若々しいどころか幼いような気さえする和人から一転、一気に老け込み疲れた声と表情に、ぞくぞくと震えが来た。
眼の前に見えているのは同じ「中島ヨシキ」が演じている人物はずなのに、和人と社人はあまりにも別人で、重ねることもできなくて、透明な衣装と仮面を着せ替えたかのように、形から変わってしまった気が、した。
何がもう一度見たいって、この部分かもしれないなぁ。
ところで肝心の「鬼になってしまった女」の話なんですけど。
事前学習で「鬼になってしまう人はたくさんいるけど自ら鬼になったのは鉄輪の女性くらい」っていう解説を読んでいたんですよね。
その部分に惹かれたりもしたので、桔梗は果たして「自ら鬼になろうとしたもの」なのかが疑問で…。
解釈が分かれるとは思うんだけど、私にはそうは思えなかったんだよね。
「鬼になろうとした」のではなく、「鬼にならざるを得なかった」のではないかなって。
晴明との最初のやりとりの最後、もう遅い、っていうあれは、私はもう鬼になると心を決めてしまった、のではなく、望む望まないにかかわらず、恨みは桔梗を鬼にを作り変えてしまった、ような。
お告げの部分を省かれているので、丑の刻参りが鬼になる方法、の話としては描かれていないし。
丑の刻参りの説明の時も…装束の話はしてたけどそれが鬼になる方法だとは放してなかったような…?うろ覚え。
呪うことと鬼になると決めることは個人的には別のことだと思うから。
人を呪わば穴ふたつって話だと思うんですけど、人を呪った時点で人に非ずっていうか、化物になってしまった、的な?
そこに覚悟があったとしても、鬼になってでも相手を呪い殺したい、って訳ではないような、気がして。
うまく言えないし、呪いに詳しくもないので感覚ではあるし、桔梗さんの気持ちは桔梗さんにしかわからないけど、印象として。
ところで桔梗の話の中で何回も出てきた鏡はおそらく魂のメタファーだと思うんですけど、何度も何度も繰り返すの印象的で良かったなぁ。
鏡が割れることと関係が壊れること、優しい記憶が罅割れて崩れ落ちていくこと、人から鬼に変わり堕ちていく魂を掛けたんだなぁ、と。
魂が曇り、汚れ、やがて形を崩す。割れたのは、鏡、だけではない。
個人的に単語の繰り返しや短文の繰り返しって狂気を感じさせたり恐怖を煽る文章の最適表現だと思うので、割れた割れた割れた、って繰り返す声がどんどん内に向かっていくの良かったなぁって思います。
話は変わるんですけど、謡いも舞も、すごく心惹かれるものがあって、ちゃんとお能観たくなったなぁ。
歌舞伎には興味があって観に行きたいなって思ってたんだけど、行動に移したいくらいに気持ちが高まったタイミングでコロナ禍に突入してしまったので、明けたらねぇって思ってて、そこにお能も加わりそうです。
いい加減、小鍛治と源氏物語も見たいしな。
名古屋能楽堂の10月の定例公演が「杜若」だったので観に行きたかったんだけれど、ちょっとお席的にあれだったので見送りました。
正月公演はチケットが取れたら行きます。
囃子方に三味線って含まれない、のかな。三味線は長唄?
三味線の方が謡ってもいてくれたんだけれど、地謡って本来なら別の担当なのかな?
よくわからないけど、その謡いは体の中でじわっと重く広がっていくような印象があったなぁ。
事前に曲を読んでたので、おお?言ってることがわかるぞ?ここの謡い読んだ記憶があるぞ?ってすごく楽しかったのでやっぱり先に読んでおいて良かったな、って思う。
ほんとは演目自体も観れたら良かったんだけど、そこまでは手が回らなかった。
いずれタイミングがあればちゃんと見たい。
それはそれとして、節回しが頭の中でぐるぐると回って背骨から落ちていく感じが、した。
この方々が謡ってくださるのね、って思ったから、クライマックスの祈祷の部分で笠間さんが謡った時にはほんとにすごくぞくぞくしました。
余談だけれど笠間さんは「最近呪術の勉強してる」ってフブラジの公録の際に言ってらして、どっちが先だったのかはわからないけどそいうのも生きてるのかもしれないなぁ、と思ったり。
刀ミュの双騎を観た時にも思ったのだけれど、現代演劇と伝統芸能との融合ってとても挑戦的で面白いなって思うんですよ。
違和感なく絡み合っていくのは演出とお芝居のうまさの為せる技なのだと思うのだけれど、混ざり合った部分が色濃く出た瞬間にものすごくどきどきするしぞくぞくする。
寄せるのではなくて混ざり合っている、棲み分けた上で重ねている、その感覚がとても良かったし、その中で笠間さんが間(あわい)に立っていると思うくらいにどちらにも濃く身を浸していて私は完全に笠間さんに持って行かれたな、って思っています。
祈祷の最後の部分、舞と謡のクライマックスで桔梗が悲鳴を上げた時、そこまでめちゃくちゃお能の世界に没入感があった分、一気に現実に引き戻された感じがした。
あれも能と朗読の重なりなんだろうけど、個人的には舞と謡だけで締めても良かったかな…って思ってます。
あのまま幽玄の中にいたかった気持ち。
ただ、だからこそ、祈祷の終わりで鬼の領域から現実に帰ってくると考えたらあまりにも効果は抜群だったのでそういう意味では急に引き戻されたあの感覚は演出にしてやられたって話ですよ。
文章表現については大学4年間みっちり勉強したけど、映像や舞台、身体表現については基礎教養レベルですし、伝統芸能には疎いし、朗読劇はここにきて急に触れ合ってるところなので、
何が意図されていたことなのか、何を表したかったのか、何を暗示し何を心に残そうとしたのか、たくさんの、生身の表現というか、細部に宿る物、緻密に組み込まれた物をどれだけ拾い上げられているかは怪しいところだけれど、
今の私の感想を、わからなかった部分も含めて、残しておく。
ここからは完全に鉄輪とは関係のない余談なのだけれど。
ヨシキさんのお芝居が好きで、私は鉄輪を見たんだよね。
ヨシキさんとは出会ってまだ1年も経っていないのだけれど、出会わなかったら触れなかった物や踏み込まなかった物がたくさんあって。
お舞台は好きだけど朗読劇を見たいと思ったのはヨシキさんや山下さんを好きになってからだし、先にも書いたとおり歌舞伎は観行こうと思ってたけど、ヨシキさんが鉄輪に出てなかったらお能に触れるのはもっとずっと先になっていたんじゃないかと思うし、腰の重い私は、もしかしたらそうは言っても一生触れなかった可能性もある。
夏に写真集が出て、人物写真に特に興味のない私が、初めて写真集を欲しいと思ったこともそうだし、苦手なリズムゲームに踏み込んでみたこともそうだし、お洋服にしたってそうだ。
ヨシキさんの活動によって開きたいと思った扉がいくつもあって、きっとたぶんこの先も新しい扉の存在を、ヨシキさんは教えてくれるんだろうなって思う。
それを開くどうかの選択をこちらに委ねたまま、私の知らないたくさんのことを、教えてくれるんだろうなって、思う。
新しく知っていく世界が、開けていく世界が、楽しくて、興味深くて、私が豊かになっていく感覚がする。
それをね、ありがとう、っていつも言いたいって思ってるんです。
私の世界を広げてくれて、好きなものや知りたいと思えること、生きたい理由を増やしてくれて、ありがとうって、思ってるんですよ。