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「ワスレサル」(短編小説)

【 右足を見て跳び上がった。ちょうどふくらはぎのあたりに取り付いていたものを見たからだ。
驚いたことに、それは小さなサルだった。(本文より)】


右足が重い。

最初に違和感を覚えたのは、梅雨が明けたばかりの頃だった。
数日前まで梅雨寒で、少し肌寒いほどだったのだが、その日の東京には真夏のような日差しが照りつけていた。

俺は職場から一人で営業先に向かっていた。
地下鉄を乗り継ぎ、目的の駅に降り立つ。
地上に出る狭い階段を昇っていくと、排気ガスの匂いとむっとした空気に、むせ返りそうになる。
刺すような日差しに閉口して歩道に日陰を探してみたが、ほとんど見つけられなかった。
 
東京の大学に進学し、都内の企業に就職して三年目。
今働いている会社はいわゆるブラック企業で殺人的に忙しく、アパートには寝に帰っているだけ、といった感じだった。
実家には就職して以来、帰っていない。
毎日が新幹線からの景色のように、飛ぶように過ぎていく。

国道沿いに歩いて行くと喫茶店があった。
自動ドアが開き、出てきた人と一緒にひんやりとした空気が流れてくる。
心地よさに、少し立ち止まったときだった。

「ああァ、もし。」
しわがれたような声がした。
よくある怪しげな勧誘と思い、無視して通りすぎる。
「ああァ、ちょっと寄って行きなァよ。」 
あまりの変なイントネーションに振り返ると、声は喫茶店の横の路地から聞こえてくるようだった。
よく見ると薄暗い路地には、何やら汚らしい小物を売っている露店があり、使い方も分からないような古い道具や、茶碗、破れた本などが置いてあった。
路地から背中を丸めて歩いてきたものをみて、俺は言葉を失った。

それは、こどもの背丈ほど大きさの、後ろ足で立つ、亀だった。

こげ茶色の紙をしわくちゃに丸めてから広げたような顔。深い皺のため、どこが目なのか分からないくらいだ。
この暑いのに、赤いタータンチェックのストールを、頭からすっぽりとかぶっているので、最初は人間かと思ったが、どう見ても、亀そのものだった。

「さぁさ、気に入るものーは、あるだろーね。」
「……ひいっ!!!」
「まーぁまーぁ。」
亀は一方的に話し続ける。
「そう言わずに。ほらー、この眼鏡。ダンナにぴったぁり。」
「…えっ?!」
「掛けるわぁね、ダンナ。」
カメは首を伸ばし、ゆっくりと顔を近付けてきた。俺は思わず一歩下がった。
「これはダンナのために特別にしつらえたものだぁよ。」
「は?」
「ほぉれ、持ってけぇ。」
カメは俺の手に眼鏡を滑り込ませると、ゆっくりと露店のところに戻って行った。
カメは、黒ずんだボロ雑巾のような座布団が敷いてある、ビールケースの上に、すとんと腰を下ろした。

眼鏡を握り締め、俺は呆気にとられて立ち尽くした。
カメの顔が、ゆっくりと甲羅の中に入っていく。
「…こ、これ…」
路地の外から恐る恐る声を掛けたが、カメは聞こえてか聞こえていないか、ぴくりとも動かない。
近くに行って台に置こうかとも思ったが、薄暗い路地にしゃべるカメは余りにも不気味で、近付きたくなかった。
営業先との待ち合わせの時間が迫っていたこともあり、俺は逃げるようにその場を離れたのだった。

その日の帰りの電車の中で、改めてその眼鏡を調べてみた。
銀縁でデザインはわりと古いもののようだ。レンズは楕円で、使われているガラスは厚く、ずっしりと重かった。

俺用にしつらえた?どう見ても中古品だ。大体カメが立って歩いて、しかも、しゃべるなんてありえない。
きっと熱中症にでもなって、幻覚をみたんだ。カメに見えたけど、人間だったのだろう。

やがて電車は駅に着き、俺はアパートまでの上り坂を歩き始めた。
もうすぐ着くというときだった。右足のふくらはぎに微かに違和感を覚えた。
「あれ…」
立ち止まり右足で地面を軽く蹴ってみる。少し重い気がした。
「筋肉痛?大した運動もしてないけどな…」
しかし違和感はすぐに消えてしまったので、俺は再び歩き出した。
そして帰宅したときには右足の違和感は、なくなっていた。

次の日朝起きて布団から立ち上がると、やはり右足が何か変だった。昨日よりも少し重い気がする。
「参ったなあ…」
ふくらはぎをさすりながら身支度をし、会社に出掛けた。
右足は、時間を追うごとに重くなっていった。

「はあ…重い…」
一週間後、俺はついに傍目にも分かるように、足を引き摺り始めた。
さすがに心配になってきたので、病院へ行き、レントゲンを撮ったりしたが原因は分からず、後日精密検査を受けることになってしまった。

そして二週間目の夜。
その日は特に重かった。深夜まで残業をして疲れ果てていたこともあってか、駅からのたった十分の道のりでも、何回も立ち止まってしまった。

「ああ、全く…何なんだよ。」
足は鉛のようで、ジンジンと痺れていた。俺は石垣に寄り掛かった。
「アレレ、ダイジョウブ?」
そのとき突然、子供のような、とてもかわいらしい声が聞こえた。
「誰だ?」
辺りを見回したが、暗い住宅街には誰もいない。
「モー。ココダヨ。ア、ソウカ。ホラ、アノ眼鏡カケルンダヨ。」
「は?」
「ホォラァ。ダカラネ、モラッタヤツ。」
慌てて鞄の中を探った。そういえばすっかり忘れていた。鞄は同じだし、整理もしていないのであるはずだ。
程なく手に冷たい感触があり、奥に放り込んであったあの古い眼鏡を取り出す。
レンズの埃を上着の裾で拭き、掛けてみた。

すぐに、恐る恐る周りを見てみたが、誰もいない。
思わず笑ってしまった。よく考えてみたらおかしな話だ。まったくばかばかしい。子供のいたずら…
「あ?…うわあぁっっ!?」
眼鏡を外そうと下を向き、右足を見て跳び上がった。
ちょうどふくらはぎのあたりに取り付いていたものを見たからだ。
驚いたことに、それは小さなサルだった。

「オモカッタ?ゴメンネ。」
体は深い緑色の短い毛で覆われている。黒い顔からは、灰色の大きな瞳がこちらを覗いていた。
俺は恥も外聞もなく大声で喚きながらめちゃくちゃに足を振った。
しかしサルは何にも感じないかのように右足にしがみついていた。
この変な眼鏡が見せる幻なのか?外してみると、確かに何も見えない。しかし感触や重さは本物だった。
「な、なんで俺の足にサルなんか…」
「ナンカ、トハ、失礼デスネ。チャンと名前、アルンデスョ。」
「だってしゃべってるし…まじで、何だよこれは…」
「コレ!!モウ、ダカラ名前アリマスッテ。ワスレサルデス。」
「は?ワスレサルデス?」
「ノミコミ悪いナア、モウ。」 サルはお尻を掻きながら言った。
「アノネ、僕ハ『ワスレサル』トイウ種類ノ、サルデス。ニホンザルとかテナガザルとか、イルデショ。ンデ僕ハネ、ワスレサル。」
「ワスレサル…」
「ハイ。僕はナニカ大切ナ物ヲ、ワスレサッチャッテルとき、トリツキマス。」
「だって、だ、だけど、こんなのありえないし…サルが足に…」
「アリエマス。ソレニ、サルデハナクテ、ワスレサル、デスカラ。」
ワスレサルはにっこりした。
「デモ、ダイジョウブダイジョウブ。ナンカ思いダセバ、僕キエマスノデ。」
「何かって…」
「大切なコトナンデショ。ワカルデショ。ナイショ。」

余りのことについに耐えきれなくなり、俺は眼鏡を外した。そして右足を見ても、何もいなかった。
大きく深呼吸をし、もう一度眼鏡を掛けてみる。ワスレサルがしがみついたままにっこり笑って、手を振っていた。
俺は思わず眼鏡を投げ捨てた。眼鏡はカチャッと乾いた音を立て、アスファルトに落ちた。
「何だよ…俺、おかしくなったのか…」
歩道に座り込み、つぶやいた。
午前零時を廻っていたので、住宅街はいつもより暗くて静かだった。それっきり、ワスレサルは口をきかなかった。
しかし時々身じろぎする感覚もしたし、咳払いまで聞こえていた。夢ではないのは明らかだった。
俺は眼鏡を拾ってそのまま鞄に放り込み、重い足を引き摺りながら歩き出した。

     * * *

「ネエ、ドオ?オモイダシタ?」
ワスレサルは今日も俺の右足から話し掛けて来る。
今日は金曜日だったが、有給をもらっていた。
前に予約していた、足の精密検査の日だったからだ。
だが、もちろんキャンセルした。医者に「眼鏡を掛けると見えるワスレサルというサルがですね、右足にしがみついてですね…」などと言えるわけが無い。

「忘れている大切なこと…」
ソファーに寝そべりながら、つぶやいた。
誰かの誕生日?何か約束?誰と?
幼かった頃のことも考えてみる。
両親は共働きだったので、俺の面倒は祖父母が見てい
た。田舎の家なのでやたら広く、毎日敷地内いっぱいに走りまわったり、近所の田んぼで泥まみれになって遊んでいた。そして疲れると祖父母のところへ行き、おやつをもらう。
 祖父は俺が、大学二年のときに亡くなった。
実家の匂いが思い出される。あの古い家独特の、色々なものが入り混じった匂い。懐かしい感覚を探るように目を閉じる。
子供の頃は何であんなに時間がゆっくりと流れていたのだろう。
がむしゃらに走ってきたこの数年間は、こんなことを考える時間は無かった。

「ヨーク、カンガエテカンガエテ。アナタニハ、ワカルハズデスヨー」
眼鏡を掛けないと姿は見えないが、小さな子供のようなかわいい声で励まされるとかえって癪にさわる。
「うるさい。」
「アレ、オコッチャッタ?ゴメンネ。」

ワスレサルは数分おきに話して来る。どうやら声も姿も、他の人には分からないようだった。眼鏡はあれから掛けていないので俺にも声しか聞こえなかったが、右足にヤツがしっかりとしがみついているのは分かった。
「ア、ソウソウ。ヒトツダケ、イウのワスレテタノ。」
突然、ワスレサルが言った。
「何だよ。」
「アノネ、眼鏡。アノ眼鏡カケテルアイダ、僕、カルクナルヨ。」
「おいっ!そんな大事なこと、何でもっと早く言わないんだよ!」
俺は引き出しに入れていた眼鏡を急いで取り出した。
「ゴメンネ。ワスレテタ。」
眼鏡を掛けてみる。立ち上がり、足踏みしてみた。なるほど、重さは残っているがずっと楽だった。
鏡の前に立つ。右足には深緑色のワスレサルが見えた。
見るのが嫌で、今まで眼鏡を掛けないでいたのだった。久しぶりに見たワスレサルは小さな手を振っていた。
「お前、よく見たらズボンはいてんのな。」
「ソウデスヨ。ステキデショ?手作りナンデス。」
紺色のコーデュロイでできた吊りズボンだった。
そのときふと、ワスレサルを前にも見たことがあるような気がした。一体どこで…?何故か懐かしいような、奇妙な感覚に襲われた。
「サンポニデモ、デタラ?」
ワスレサルの声に我にかえる。
「そうだな…」
俺は素直にうなずき、サンダルを突っ掛けて表へ出た。

平日の昼下がり。快晴だった。青空を見上げ目を細める。
日差しはめちゃくちゃに暑かったが、久々に足を少し引き摺るだけで歩けることに、喜びを感じていた。
そのまま近所の本屋に行く。あの眼鏡は古臭くて恥ずかしかったが、そんなことは言っていられない。
平日の昼間に本屋に来る。
小学生のときの夏休みのようだ。
念のため動物図鑑を手に取った。もちろん、ワスレサルなんてサルは載っていなかった。
「やっぱ、見たことないのかなあ…勘違いか…」
しかし確かに俺の右足には、サルがいるのだ。何でこんなことになってしまったのだろう。
あの日、眼鏡なんて受け取らなければこんなことには…。
「あ。あの露店…」
あの場所に行けば、から何か教えてもらえるかもしれない。俺はその足で、亀…人間だったと思いたいが…がいたあの駅まで行くことにしたのだった。

地下鉄の階段を上がり、外に出ると、強烈な日差しと熱風が襲ってきた。
そういえば今日は平日だし、営業先の人に会うかもしれない。
よれたTシャツにだぶだぶのズボン、サンダル、古くさい眼鏡が急に恥ずかしくなり、俺はうつむいて歩き始めた。

国道沿いの喫茶店が見えてきた。確かあの手前の路地だったはず…。
「あ…?!」
驚いて立ち尽くした。路地は、無かった。
「何で…?!」
路地があった筈の場所は隙間がほとんど無く、隣のビルが建っていた。
少し来ない間に区画整理で無くなったのかとも思ったが、隣の雑居ビルは以前からあるものだし、壁にも古いビル特有のシミやヒビがあった。
路地は無くなっていた訳では無かった。元々、無かったのだ。
「でも確かにここに…やっぱり、幻覚か…」
二、三十センチほどの隙間を覗いてみたが、暗くてよく見えない。何か少しでも手掛かりはないかと、手を差し込んでみる。
すると布のようなものが手に触れたので、引っ張り出してみた。
それはあの亀が座っていた、ボロ雑巾のような座布団だった。座布団は灰色だと思っていたが、よく見てみると花柄だったようだ。
辺りを見回したが、亀の姿はどこにも無かった。
もう一度手を差し入れてみたが、もう何も見つからなかった。しばらくそこで待ってみたが亀はついに現れなかった。

暑さと、最近続いている頭痛のため、俺は歩道の縁石に、崩れるように座り込んだ。
「あれれ、ダイジョウブ?」
俺の様子を見て、ワスレサルが話し掛けて来た。
「お前とまだしばらく過ごすことになりそうだな。」
ワスレサルは大きな灰色の瞳を見開いてからニッコリした。

俺は座布団を元の隙間に戻し、足を引き摺りながらのろのろと家路に着いた。
     
ありもしない路地にいた、しゃべる亀にもらった眼鏡。
足にしがみつく、サル。

全てがバカバカしい。
ワスレサルだって?きっと全部幻だ。俺は頭がおかしくなったんだ。

地元の駅にようやくたどりつき、自販機でコーラを買う。
帰り道にある小さな公園へ行き、ベンチに座った。

「ネエ、ソンナニ、キをオトサズニ。そのウチ、オモイダスヨ。」
ワスレサルはぺらぺらと相変わらずうるさい。無視してコーラを飲んでいた。
「ネ!ゲンキダシテ!」
ワスレサルは俺の右足を結構な力でバシッと叩いた。その拍子に俺はコーラを落としてしまった。
「うわっ!ったく、落としたじゃないかよ。」
「ゴメンネ…」
ズボンに付いたコーラを手で擦り、立ち上がってベンチの下を覗き込んだ。
あらかたこぼれてしまったペットボトルを拾おうと手を伸ばしたとき、すぐ横にスミレの花が咲いているのに気がついた。
ずいぶん季節はずれだったが、もともと植物のことに興味がなかったので、気にならなかった。

そういえば祖父の納骨のとき、墓の砂利とコンクリートの囲いの隙間から、すみれが生えていたのを思い出した。
就職してからは、一度も墓参りに行ってない。
実家に帰っていないのだから、当然だ。そんな暇も、考える余裕もない。

そのとき、右足が急にものすごく重くなった。そして次の瞬間、何かが下に落ちる音がした。
下を見ると、ワスレサルが地面に落ちていた。
「おいっ!」
慌てて助け起こすが、どうも様子がおかしい。
「これ…ぬいぐるみ?!」
ワスレサルにそっくりのぬいぐるみだった。その瞬間、俺は全てを思い出した。

それは、亡くなった祖父に誕生日にもらったものだった。手触りが気に入っていて、俺はどこへ行くにも離さなかったそうだ。
コーデュロイの吊りズボンは、祖母が縫ってくれたものだ。

そして銀縁の眼鏡は、間違いなく祖父が掛けていたものだった。ありふれたデザインのものだったが、何故か確信を持ってそう思った。

じいちゃんは、いつも俺を気にかけてくれていた。
大学に入って、俺が深夜のコンビニでバイトを始めたときも、「あいつは寝なくて大丈夫なのか?」と、ずっと心配していたそうだ。

「俺は…ほんとは…限界だったのか…」
最近続いていた頭痛、イライラ、睡眠不足…あともう少しのところだったのか。
目の前に迫っていた闇の一歩手前で、肩を掴まれ、ぐい、と引き戻されたような気がした。

     ***

そろそろ秋が近い。夕方になり、急速に冷えてきた。右足は筋肉痛のように少し痛むが、重さや感触は全く無くなっていた。

明日、実家に帰ろう。
そしてじいちゃんの墓参りに行こう。
俺は、もう動かないぬいぐるみを抱えたまま、日が落ちるまでベンチに座っていた。

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