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「拝啓、夏目漱石様 五通目」


 拝啓、新緑の装い瞳に映しては、頬を撫でる五月の風があまりに優しいこの頃です。宵の虫たちが日を増す事に騒々しくて敵いません。
 先生の御自宅では如何で御座いますか、矢張り縁に出ると草叢が喧しいようですか。

 先生に手紙を書こうと思い乍ら、あれよと云う間に薫風の季節となってしまいました。わたくしはこの間、全く遊び惚けていた訳ではないのです。大切な私信を、まさか先延ばししようなんて不心得だって、これっぽっちも持っていなかったんです。けれども実際遅くなりました。桜の季節は終わり、和菓子屋の店先には柏餅が並んでいます。若鮎も並びました。春眠暁を覚えずと瞼を半分下ろしていた世間は、どうやら五月病に頭を抱えているようです。わたくしに何が出来るでしょう。

「それから」を読んでいた自分は、「門」さえ読了してしまい、今では「二百十日」を読んでいます。僭越ながら―と語り尽くしたかったあれもこれも、旬を通り過ぎて襖の向こうへ雲隠れです。無論、もう一度読めば済むのです。そうして思う存分語れば良いのですけれど、時間が全然追い着かないのです。妙ですか。けれどわたくしの活動すべき事柄と分量に対して、時間の方が遅れていくようで、一日は二十四時間だそうですが、自分の方でも果たして等しく二十四時間であるか、近頃少し怪しい気の致します。

 先生、わたくしは「明暗」についてもいささか語りたい処が御座いました。一寸お時間頂戴致しまして、ここでお話し申し上げてもよろしゅう御座いますか。
 先生、あんな面白い処で切られちゃあ堪らんです。あの向こう、最早面白い気配しかしないんですもの。或る女性の、果物を手元で捌くあの手際。そのシーンを描かれた先生。惚れるなと云う方が土台無理な相談ですよ。どうでしょう、もう仕舞いまでお書きになられましたか。読みに伺ってもよござんすか。

 なんて云う読者がこれまでにうんといたことと拝察致します。言わずもがな、わたくしもその内の一人です。
 先生を、初めて狡い!と思いました。申し訳御座いません。正直が信条故、不躾をお許し下さい。いち書生の癖に生意気ですから、後でお叱りを受けます。話は少し逸れます。

 狡いと云えば、太宰治先生だって狡いのです。

 申し上げます、旦那さま、あの御方は「グッドバイ」を、傑作の予感だけ漂わせて、散々匂わせて、ぷちんと切っておしまいになられました。ひょっとしたら「グッドバイ」だけは、別物であったかも知れないのです。愉快痛快の内に、笑って終わったかも知れないのです。未だ誰も知らない太宰先生に出会っていたかも知れないのです。けれども太宰先生は、仮令そうするべきと御自分で判断なされても、そうはなさらなかったかも知れません。「グッドバイ」も、先生らしく、余韻を多分に残して、書き終えられたかも知れません。ハッピーエンドと云う言い方は如何にも陳腐で相応しくないかも分かりませんが、ハッピーエンドだけではない創作になったかも知れないです。だから太宰先生は、あすこでお終いになされたのかも知れません。あのまま御自分の手で描き切ってしまうのよりも、余韻だけの方が、ハッピーエンドになるから。
 わたくしは、そんな想像巡らしました。

 先生はそれからお会いになられましたか。若し「うん会った」と仰るなら、太宰先生にもその後の具合をお尋ね申し上げたいので、早く御帰りになられるよう、先生が仰れば屹度お帰り下さると思いますから、どうかよろしくお伝え下さいませ。

 話を随分脱線させてしまいました。そもそもわたくし、春先からずっと迷い続けに迷っている事を先生に御相談致したく筆を執りたいと願っておりました。それが思いながら長編執筆は休みませんし、短編掌編も書きますし、植物の生長も著しい為に目が離せませんから、とうとうこのような季節になってしまったのです。迂闊にも程があります。けれどその内には、
「いいから君は書いていなさい」「好きなんだろう、なら書きなさい」「自分は自分である」
 と、先生ならばそう叱咤激励下さるような気がして、その度に気を取り直しては、よし書こう。と自分を鼓舞して執筆に齧り付いてどうにか今日まで過ごして参りました。其の甲斐あってか、noteに於いては五本目の長編小説を、連載開始にまで漕ぎ着けまして、只今は六本目を執筆中で御座います。これがまた新しい試みも含んでおりまして、難儀しております。現実と文字の狭間で右往左往するあまり、その境が段々分からなくなっております。

 けれども先生、聞いて下さい。物凄く、応援して頂いているのです。こんな不器用なわたくしを、支えて下さるんです。書いたものを読んで下さる。買って下さる。面白かったと温もりさえ届けて下さる。三十と七年と半分くらい生きて来て、此れ程嬉しい事が他にありましょうか。ある訳が無い!!本当に、どれだけ感謝申し上げても、まだ足りません。

 先生の御蔭です。心の芯の処で、浮世の渡り方が不得手なわたくしを支えて下さる先生の御蔭で、此処迄歩いて来られたのです。それに、あの人も。大きな存在。
 此の御恩、早く御返し致したいものです。そうでした、風の噂に、先生のお手元へ未だわたくしの書いた小説が届いていないと聞き及びました。早速、先ずは「よりみち」三部作を纏めてお送り致します。いづれ本にする作品です。「面白い」を追い求めて書き上げた作品です。どうかどうか、間違っても赤をお入れになって送り返さないで下さいまし。赤はわたくしが、直接お伺いに参ります。原稿を三本分、風呂敷に包んで、もう片方の手には、美味しい茶団子でも下げて馳せ参じます。

 先生の名に恥じぬ生き方を択びたいのです。門下生の一人として、わたくしは全体第何期生だか分かりませんけれど、兎に角真っ直ぐに生きて参りたいのです。君は書生じゃなかったのかと、お思いでしょうが、寺田寅彦先生に嫉妬致しますから、わたくしも手を挙げて、今度門下生の一人(いちにん)に加えて頂きました。

 近所の鶯が、今朝初めて、少しだけ上手に鳴きました。山は深まりつつあります。月は雲の向こうです。わたくしは今日も休まず筆を執ります。

 先生、何時になっても構いません。お帰りの際には、必ずやお声掛けください。それでは、夜は少し冷える様です、お体に気を付けられて、先生の安息とした日々を、只々お祈り申し上げます。

                          敬具
    令和三年五月十二日                 いち

夏目漱石様



「文箱の中」


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