大地のシンフォニー~翼を見つけた日
「わたし、ほんとに歌が好きで」。
この言葉を何度宮本さんの口から聞いたことだろう。
56歳になっても、職業になっても、ずっとこう言い続けられるほど、本当に本当に歌うことが好きなのだろう。
大好きなことや大好きなものがある人がずっと羨ましかった。
寝食も忘れて熱中して、それさえあれば他に何もいらないという、大好きなこと。
元アナウンサーの小島慶子さんが「好きなことはその子をうんと遠くまで連れて行ってくれる。親が連れて行ける場所よりもずっと遠くまで」とエッセイに書かれていて、本当にそうだなぁと思っていた。
宮本さんを、こんなに遠くまで連れてきたのは、大好きな”歌”だったんだ。
好きという気持ちこそが、宮本さんを空高く羽ばたかせているんだ。
…私は何が好きだったんだろう?
宮本さんに出会ってから、ずっと考えていた。
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親の強い意向に押し切られ理系(正確には工学系)の学部に入学した。
入学してすぐ、私には向いていない、と悟った。
在学中に”向いてもいないし好きでもない苦手なことをするのがどれだけつらいか”ということを一生分味わった。
学んだのは”我慢と忍耐”。楽しいことなんて一つも無かった。
それでもなんとか単位も落とさず留年することもなく学校を卒業して某メーカーに就職、海外販売の職についた。
社会人になって5年目に結婚してから仕事に家事、長男が生まれてからはそこに育児が加わり、自分の時間なんて一日に10分もない多忙な日々。
保育園のお迎えの時間が決まっているため残業はできないし、子供の病気を理由に出張をキャンセルすることも出来ないから、外勤営業を外されて内勤営業になった。
内勤営業でも今まで通り数字は出せる。絶対出してみせる。
そう思って限られた時間の中で死ぬ気で働いた。
次男が産まれてからは自由な時間どころか満足に睡眠時間すら確保できず、寝てる時以外は常に働いても休める時間は全くない。
でも誰も助けてはくれない。
何故なら子供を2人持つと決めたのは私だから。
そして、子供に寂しい思いをさせてまで働いているんだから弱音は吐けない。
負ける訳にはいかない。
せめて子供に誇れる仕事をしなければ…。
子供はもちろんかわいいし産んだことに悔いもない。
産まれてきてくれたことに感謝もしている。
宝物だと思っている。
だけど、本音を言うと。
自由に世界を飛び回って大きな仕事をしている同期の男性たちが羨ましかった。
世界を変えるような仕事をしている彼らが妬ましかった。
同期の男性が次々に昇進しさらに同じ職場の年下の男性社員にさえ追い越されていくのが悔しくて悔しくて、夜中に何度声を押し殺して泣いただろう。
これは子育てしながら会社に迷惑をかけて働く私へのペナルティなのか?
それとも昇進しないのは私の能力不足なのか?
どうしても参加しなくてはならない会議のある時に限って子供は熱をだすものなのだけれど、発熱している子供をあずかってくれる病児保育機関は当時私の居住区にはなかった。
他にどうしようもないから、子供に解熱剤を飲ませて一旦熱を下げてから登園させる。
罪悪感と申し訳なさとで胸が押しつぶされ泣きながら、会社へ行って会議へ出る。
当然その日の午後にはまた発熱し症状が悪化し休みが長引くのだけど、「今日も子供の病気で会議を欠席か」と言われるのがいたたまれなかった。
有休は使い果たし、子供の病気で休むたびに欠勤になった。
死ぬ気で働いているのに、欠勤が響いてマイナス査定になる。
私は本当に子供に誇れる仕事をしているのか?
本当は大した意味などない仕事じゃないのか?
こんな非人道的なことをしてまで続ける意味のある仕事なのか?
自問自答しながら体に鞭打つように働き続け、晴れて管理職に昇進することができたのは、長男が生まれてからちょうど10年。
次男が小学校に上がる年だった。
やっと努力が認められたと思って、心の底から嬉しかった。
しかし、だ。
体を壊すほどに働いてめでたく昇格した管理職だけど。
実際なってみると管理職業務は全然楽しくないしやりがいもなかった。
学校と同じだった。私には向いてない。
圧倒的に販売の仕事の方が好きだった。
そうは思ったけど、時間制限があって社内でしか働けない私が男性に負けないためには管理職でいるしかなかった。
管理職でさらに上を目指すしかなかった。
負けられない。負けられないんだ。
世の人々が好きとか嫌いとか向いてる向いてないで働いてるわけじゃないことは、分かっている。
超男尊女卑な会社で、女性の私が昇進させてもらえただけで幸運と思わなければ。
だけど、考えずにはいられない。
「わたし、ほんとに歌が好きで」。
好きな歌を仕事にして40年以上歩んできた宮本さんが、今でも少年のように目を輝かせて口にするこの言葉を聞くたびに。
…私は何が好きだったのかな。
子供のころの私の夢はなんだったんだろうか、と。
気付けば管理職になって10年が経過していた。
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ある日、徒歩通勤中にいつものようにイヤホンでエレカシの歌を聴いていた。
会社横の公園まで来た時だった。
「大地のシンフォニー」がシャッフルでかかった。
”本当の自分の場所って いったい何処にあるんだろう?”
”演じて来たんだろう? 似合わない役わりを”
今まで何度も聴いて来たのに。
この日聴いた「大地のシンフォニー」は全く違う意味をもって私に聴こえてきて、そして突然理解した。
私は自分のいるべき場所にいない。
似合わない役わりを演じている。
それに気づいたとたん、涙がぶわっと溢れだしてきた。
あとからあとから溢れてきて、泣き止もうとしてもどうしても泣き止むことができなかった。
公園から会社に電話して部長に告げた。
気分が悪いので午前中休みます、午後から出社します、と。
人影まばらな平日の公園で泣くだけ泣いてすっきりすると、自動販売機でペットボトルの水を買って一口飲んで空を見上げた。
つらかったのは、似合わない役わりを演じてたからだ。
自分のいるべき場所にいなかったからだ。
…大切なのは負けないことじゃなかったのに。
ストン、と色んなことが腑に落ちた。
すっきり晴れ渡った秋の空に白い雲がぽかりと浮かんでいた。
午後出社して部長に「管理職をやめさせてほしい」「海外販売の仕事に戻してほしい」と告げた。
管理職業務にやりがいを見いだせないこと、海外販売の仕事のほうが好きで自分の居場所だと思えること、その他もろもろこの10年の恨みつらみを全部吐き出すかのように物凄い勢いで説明した。
黙って私の話を聞いてくれた部長は「わかりました」とだけ言った。
…降格になるんだろうな。
それでもいいや、と思った。
何度か部長と話し合った末にライン管理職(組織上部下を持って査定をする管理職)を来年度から別の人間と交代することに決定し、代わりに海外販売の仕事は統括責任者とまあまあ広範囲な地域担当を命じられた。
部下を査定する、育成する、という業務が苦痛で何のやりがいも感じていなかった私は、心底ほっとした。
海外販売の仕事に戻ると、すぐに怒涛の日々が始まった。
毎日寄せられる膨大なクレームやとんでもない要求への対応。
製品仕上遅延の謝罪、客先対応。
納期調整、生産調整、販売数字の調整。
必達数字、利益率。
そんなものに振り回されながらも、代理店のことだけを考えてなりふり構わず髪を振り乱して必死に仕事をこなす毎日。
トラブルばかり起こって毎日ジェットコースターに乗っているような日々。
…販売の仕事って、こういう感じだったなぁ。
大変さとは裏腹に、どこかでその状況を楽しんでいる私がいた。
そんなある日、海外代理店から私がした何かの仕事に対してやけに熱い感謝のメールが来た。
20年近いつきあいのアメリカの販売店のスタッフからで、感謝の言葉と共に”戻ってきてくれて嬉しい””これからも頼りにしている”と書かれていた。
思わず顔がほころんで返信を書こうと最初の一文を入力し、ディスプレイに表示された英文を見た瞬間、それは突然天から降ってきた。
…ああ、私は英語が好きだったんだ。
英語を使う仕事をしたいと小学生のころから思っていたんだ。
雷に打たれた思いだった。
理系に進んだけど、どうしてもその思いを断ち切れず通学の電車ではいつも英語の本を読んでいた。
学校に通いながらアルバイトを3個掛け持ちして留学費用を貯めて、とうとう1年間行くことができたオーストラリア。
理系の学部だから語学留学の単位は認められず休学扱いとなり、卒業はみんなより遅れたけど後悔は微塵もなかった。
そして幸運にもこの会社で英語を使う海外販売の仕事に携われた。
そんなことを次々に思い出す。
…どうしてこんな大切なこと、忘れていたんだろう?
毎日が大変すぎて。
ただただ目の前の仕事と育児と家事をこなすのに必死で。
負けたくないとむきになって。
自分が好きなことを仕事にさせてもらっているのをすっかり忘れてしまっていた。
…私の子供のころからの夢は叶っていたんだ。
小さい小さい夢だけど。
本人も忘れてしまうほどに、こんなにも自然な形で。
世の中を動かす仕事をしたいとか、子供に誇れる仕事をしたいとか。
そんなのおこがましかった。間違ってた。
だって、私は好きなことをさせてもらって、収入を得ている。
その上、販売店から感謝までしてもらって、小さくても私の仕事は誰かのために確実に役立っていると実感することができる。
こんなに幸せなことって、他にあるだろうか?
私はこんなに幸せだったのに。夢はきちんと叶っていたのに。
どうして忘れてしまっていたんだろう?
ああ、私って本当にばかだ。
小学生の私にとって海外への憧れは、そのまま英語への憧れだった。
英語に憧れ好きになり、ひたすらに大好きな英語を習得したい、それを仕事にしたいという夢を追い求め続けて。
気付けば、帰国子女でも英文科卒でもない理系の私が、重役の通訳や大切な公文書の翻訳をさせてもらえるようになっていた。
海外販売統括責任者まで任せてもらえるようになっていた。
世間から見れば、大したことのない仕事かもしれない。
でも私のちっぽけな夢は、子供のころには想像もつかなかった遥かに遠い場所まで、私を連れてきてくれていた。
…”好き”が私をここまで連れきてくれたんだ。
今更ながらそれに気づいた私は熱い思いで胸がいっぱいになり、誰もいない夜のオフィスで声を上げて子供のように泣いた。
宮本さんが、この大切なことに気付かせてくれた、と思った。
いつでも夢を追い続けるあの人が、教えてくれたんだ。
宮本さんに大声で伝えたかった。
宮本さん、私にも好きなことがあったよ!
子供のころからの夢があったよ!
私にも空を羽ばたくための翼があったよ!と。
小さい小さい翼だけど。
私も空を飛べるんだ。
…そう、宮本さんと同じ。
大好きなことが、私の翼だった。
それが、とてもとても嬉しかった。
しっかりと自分を抱きしめて、その手を背中まで回す。
見えない小さな翼を確かめるかのように。
二度と翼の存在を忘れないように。
その日、私は翼を見つけた。
凡人の私にはないと思いこんでいた翼を。
宮本さんに出会わなければ、決して見つけることのできなかった翼を。
翼を見つけた日だった。
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この話には実は後日談があります。
”管理職をやめさせてくれ”と申し出たのでてっきり降格になるだろうと思っていたのに、結果から言うと逆に昇格しました(驚)。
それまで私の会社には、管理職コースとして『組織と人の管理をするマネージメントコース』しかなかったのですが、ちょうど『専門職として業務の管理をするエキスパートコース』が新設されたのです。
会社としてはこのエキスパートコースは技術職を想定しているとのことだったので、販売一筋だった私は自分には関係ないものと思っていたのですが。
私の直属の部長が上層部に相当な圧で交渉してくれたそうで、特別推薦という形でこのエキスパートコースに転向しての昇格試験を受けさせてもらえることになったのです。
(本当は受験のための要求事項をクリアしていなかった…💦)
試験と面接には強いので、無事合格致しまして、今に至ります。
いえーい!
海外の仕事をずっとペアでやってきて、私の仕事を常に一番近くで見ていた人が当時の部長だったのです。
この人だけは、いつも私を助けてくれた。
どれだけ休もうと、常に「お大事に」と気遣ってくれた。
本当にありがたい…(号泣)。大好きな尊敬する部長です。
なんか災い転じて福となす的なエンディングで良いでしょ?(笑)
これからも推し活のために全力で働く所存です!!!
そして、やっぱり…負けないぜ!!(負けず嫌い😂)