1リットルの涙
21年間ペアで仕事をしてきた上司が、今年度60歳を迎え3月末で退職する。
”60歳で退職”と言っても、私の会社も世の流れには逆らえず数年前から65歳まで仕事を保証している(再雇用という形となり、決して同じ年収は保証されないけれど)。
私の上司は営業部の部長で、マネージャーとしてもちろん有能であるけれど、一営業としても会社創設以来一番功績を残している人物だ。
とても高い視点を持っていて、どんな困難にぶつかっても常にゴールとそこへたどり着くための道筋が見えているかのような、真のリーダーだ。
頭脳明晰で決断力・判断力・実行力に秀でユーモアもあり、仕事仲間を尊敬して大切にするので関わる人全員が彼のファンになってしまう。
そんな素晴らしい部長と、例え肩書が変わっても、あと数年は一緒に働ける。
少しずつ彼から色々引き継いでいこう。
そう思っていた。
12月に入ったばかりの月曜日、いつもは出席しない部内の打合に「冒頭だけ参加して」と次期部長から呼ばれた。
「残念ながら、○○部長はご家庭の事情で今年度いっぱいで退職するとのことです」
打合せ冒頭で、次期部長は本当に残念そうにこう言った。
……え?
いつか彼が会社を去る日がやってくることは分かっていた。
だけど、それは来年度じゃないはずだった。
「あと数年は働かないと」と、つい半年くらい前に言っていたし、私も当然のようにそれを信じて疑っていなかった。
まだ何も引き継いでいない。
彼無しでは、この組織は回らない。
…それよりなにより、どうして21年間ペアで働いた私に何も言ってくれなかったのだろう?…
真っ白になった頭の反対側で、彼と過ごしてきた時間や思い出がぐるぐると駆け巡りはじめた。
21年前、私が長男の育児休職から復職したタイミングで今の部に異動となった。
私は休職前、別の部で海外販売の仕事をしていたのだけど、当時国内のトップ営業で主任だった彼専属のアシスタントを命ぜられた。
会社上層部が当時はまだ少なかった海外の販売を伸ばそうと、彼に海外を担当させることに決め、本人から”英語が出来て海外販売の経験がある人を専属でつけてくれるなら引き受ける”という条件が出され、ちょうど休職中だった私が適任ということになったらしい。
部に営業の男性は10人以上いるのに、当時の彼は国内47都道府県のうち半分以上と東南アジアを一人で担当していた。
その上、韓国・台湾・中国も担当するという。
当然のことながら、ほとんど社内にいなかった。
最初の一年位は何故だかあまり口をきいてもらえなかったけど、ペアで仕事をするうちに面白い位に息があってきて、それに伴い海外の数字は驚くべき伸びを示した。
建築に例えるなら、彼が設計図を描いて各所から認可を取り付けたのち、私がその設計図を基に家を建てていくという感じで仕事の分担をしていた。
私が家づくりで何かミスしても、彼が最後にチェックして必ずそれを見つけて直してくれるという絶対的安心感があったから、本当に思いきってのびのび仕事が出来た。
そして彼も、自分の設計図や認可にミスがあっても私が修正すると知っていて、些末なことにはこだわらず時間を最優先事項に集中して使っていたように思う。
営業とアシスタント、という図式からはだいぶかけ離れた仕事の仕方だったけれど、私たちにはこのやり方が一番効率的だった。
私たちは2人だったけどペアで仕事することで10人分位の仕事が出来る。
そんなふうに思えた。
どちらが欠けても成り立たないペアだった。
彼は一軒の家を設計するだけでなく、町を、都市を、国をデザインするような壮大なビジョンを持つ人だった。とても尊敬していた。
メールよりも何故か電話での指示を好む彼は、海外出張中は毎日10回位電話をしてくる。
メモを取るのも大変なスピードで複数の指示が飛んできて、やっと会話が終わって電話を切ると、まだひとつも仕事が終わっていないのに数十分後にまた電話、の繰り返し。
そして彼は私に依頼した仕事に関して、決して口を出すことはなかった。
彼のスピードについていくのは大変だったけど、任されている・頼られているという実感があって仕事が楽しかった。
そんなふうに、お互いを絶対的に信頼しあって21年間共に歩んできた。
もちろんお互いが昇格していくにつれ、仕事内容は少しずつ変わっていったけど、海外の仕事に関しては基本は変わらなかった。
部がつぶされて課に降格になったり、海外代理店の若い社長が亡くなったり、粉飾決済もどきがあったり。
色んな事件があって、泣いたり笑ったり文句言ったりしながら、2人で海外の数字を伸ばしてきた。色んな国へ一緒に出張した。
大袈裟だけど、戦友だと思っていた。
どんな時も、どんなことも、一緒に乗り越えてきた戦友。
…なのに、どうして?
どうして、私に何も言ってくれなかったの?
呆然自失の体で会議室から自席へ戻ると、その日の夕方の時間帯で彼から会議招集が入っていた。
…ああ、良かった。私には事情を話してくれるに違いない。
妙に安堵した。
指定された会議室に16時少し前に向かった。
ほどなくやってきた彼は、私に向かい合う席に座ると「Iさん(←私の苗字)には、話しておかなくちゃと思って」と前置きして、突然「1リットルの涙、っていう話を知ってますか?」と聞いてきた。
「…沢尻エリカが出てたドラマですか?ほとんど見てないですけど…難病にかかって、最後に死んじゃうお話ですよね」
…何言ってんだ?この人。そう思いながら答えると、
「僕は全く見てないんですけどね…僕、その病気なんです」
と言った。
10年前のアメリカ出張中に彼が強烈な眩暈に襲われて、一晩中ホテルのバスルームの床に這いつくばって嘔吐し続け、私に「眩暈がして動けない」と電話をかけてきたことがある。
彼の声を聞いただけで、瞬時に非常事態が起きていると悟った。
ホテルの近くの大きな総合病院の緊急外来で様々な検査をしたが理由は分からず、結局3日ほど入院した。
眩暈がなかなか治まらず、帰国のための飛行機に乗ることが出来たのは、それから更にホテルで1週間療養したあとだった。
眩暈とふらつきと複視の症状が残っていたため、帰国後大学病院で検査をした。
様々な検査をし彼の症状と完全に一致するものではないがある免疫性神経疾患の診断が暫定で下った。
半年程度で自然治癒する、薬はないと告げられたそうだ。
しかし、彼の症状が回復することはなかった。
本人も回復しないことを不思議に思っていたに違いない。
途中で医師からは「もうこの症状と一生つきあっていくしかない」と言われ、その後、今日に至るまでの10年間、定期的に経過観察に通っていた。
仕事は変わらず続けていて、相変わらず海外出張が多くコロナ前までは1年の半分くらいは日本にいなかった。
お酒を飲むと眩暈がひどくなるかもしれないと、好きだったお酒を飲まなくなり、そしてその頃から彼はあまり笑わなくなっていた。
それでも私と話をしている時だけは、とても楽しそうな笑顔を見せてくれて、それだけが救いだった。
一方で、ふらつきは少しずつひどくなっているようだった。
「1リットルの涙と同じ病気って…、あの”暫定”の免疫性の神経疾患ではなかったってことですか?」
と問うと、ある書類を見せてくれた。
診断書のようだった。
「…違ったんです。僕ね、今年の夏に時間があったので、医者からずっと薦められていた精密検査を受けたんです。遺伝子検査までしないと分からない病気だったんですけど。指定難病だそうです」
と言って、彼の病気の説明をしてくれた。
歩行時のふらつきやめまいの症状から始まり、だんだんと体中の運動機能が失われていき、平均して8年ほどで歩けなくなり車いす生活になってしまうということ。
歩けなくなるので障害者となること、既に難病認定されているので申請すればすぐに障害者手帳をもらえること。
箸を使ったり字を書くなどの細かい動きも徐々に困難になること。
喉や声帯、口回りの運動機能も失われていくので、構音障害を発してろれつが回らず滑らかに話せなくなること。
自分の意志で動けなくなるので、いずれ全面的な常時介護が必要となる…等。
淡々と他人事のように説明をしてくれたあと、彼は「発症してから平均で8年ほどで車いす生活になるってことですけど、僕の場合はもう10年過ぎてるんですよ。定年までは務め上げられそうだからある意味良かったなと思って。もう少し早い発症だったら、それも無理だったかもしれないから」と言ったあとに、「会社に来るときは使ってないんですけど、僕、もう杖がないと歩くのが難しいんです。呂律も回らないし、コーヒーとか持つと落とすし。…もう限界なんだと思います」と小さく付け加えた。
説明を聞いている途中から既に涙が溢れだしていたけれど、最後に小さく付け加えれらた言葉がぐさりと胸に突き刺さり、こらえきれず嗚咽となってしまった。静かな会議室にしばらく私の泣き声だけが響いていた。
歩けなくなる?話せなくなる?全面介護?
どうして?
どうして部長がその病気にならないといけないの?
どうして神様はこの病気を部長に与えたの?
どれくらい泣いていただろうか。
ふと目を上げると、部長の目にも涙が光っていた。
今まで見たことのない、とてもとても優しい目をしていた。
私の視線に気づくと「Iさんがあんまり泣くから、もらい泣きしちゃいました。」と照れたように笑ってハンカチで涙を拭うと、「この話は他の誰にもしないで下さいね。」と言った。
私がぶんぶんうなずくと、「あんまり悲しまないで下さい。悲しませるために話したわけではないので」と呟くようにいった。
いくら21年間ペアで働いたからって、本当は私にも言いたくなかったと思う。でも私には話してくれた。そのことに胸が熱くなってまた涙が溢れた。
「話して下さってありがとうございました。症状がこれ以上進行しないことを祈ってます。祈るしか出来なくて悔しいです。それから、21年間部長と仕事できて私は幸せでした。部長みたいな素晴らしい人と一緒に仕事できたこと、私の人生の宝物です。本当に本当にありがとうございました」
もっと気の利いたことを言いたかったけど、涙と鼻水を流し嗚咽しながら、つっかえつっかえそれだけ伝えるのがやっとだった。
部長は「こちらこそです。Iさんと一緒に働けて幸せでした。いつも安心して完全に頼り切ってました。…Iさんと仕事するのはとても楽しかったです」と優しい笑顔で言ってくれた。
それから、これからの組織のことや販売数字のことを話した。
部長は「やりたかったことの半分もできなかった」と何度も口にした。
21年間一緒に働いた私には、彼がやりたかったことが何なのか誰よりもよく分かっていた。
もう少しの時間さえあれば、部長なら出来るのに。
いつだって不可能を可能にしてきたこの人なら、絶対絶対出来るのに。
そう思ったら胸が痛くて唇を嚙みしめた。
話が終わって会議室を出る前に私はふと「…あの、退職後もたまに会って頂けますか?」と聞いてみた。
部長は「もちろんです」と答え、「次に会う時は車いすになってるかもしれないけど」と小さく笑った。
それから唐突に「海外の仕事、お願いしますね」と言った。
「え?…私、ですか?」
びっくりして、思わずそう聞き返してしまった。
だって、設計図を描くのは部長で、私は家を建てる人だったから。
私は設計図の描き方を知らない。
思わず漏れた「…私、そんなこと出来るかなぁ…」という言葉に、部長は「大丈夫ですよ、Iさんなら。」と力強く答えた。
それから後のことはあまりよく覚えていない。
席に戻ると定時を過ぎていたので、パソコンの電源を落として帰路についた。
途中、もう誰も歩いていない暗い公園の遊歩道をぐるぐる回り、冷たい風に吹かれながら声をあげて泣いた。
私は部長に何が出来るだろう?
今まで部長が私にしてくれたことが次々と心に浮かぶ。
子供の病気で私が休まざるを得ないとき、いつも黙ってフォローしてくれた。いくら休んでも嫌な顔もせず常に心配して私の体調も気遣ってくれた。
快適な環境で仕事できるように配慮してくれた。
私に100点満点の査定をつけて「あり得ない」と人事から注意されたこともあった。管理職への昇格試験を受けられるように特別な対応もしてくれた。
この人の下でなければ、私は働き続けることはできなかった。
部長から受けたたくさんの恩を、私はどうしたら返せるのだろう。
何をすれば良いのだろう…。私に何が出来るだろう。
止めておけばいいのに、後日私はネットで病気についてリサーチし”1リットルの涙”の原作を買って読んでしまった。
映像は恐ろしくて見る勇気が持てず本にしたのだけど、本の内容とリサーチ結果は私を奈落の底に突き落とすのに十分だった。
”嚥下機能が低下するため食物摂取の際の窒息死、誤嚥性肺炎による死亡がよく見られる”というネットの記述にまず打ちのめされた。
そして、ペンを握れなくなるぎりぎりまで本人が綴った日記を母親が解読して本にしたという原作。
だんだん歩けなくなり、車いす生活になり、ついには寝たきりとなり言葉もまともに話せなくなっていく過程が克明に描かれていた。
一番残酷なのは、”体が動かなくなっても脳は正常のままである”という事実だと思った。
本の中の”口の周りの筋肉が上手く動かなくて上手に話せない。上手に話せないと、周囲から知的障害者と同じ扱いを受ける”という記述に、更に打ちのめされた。
正常な脳のまま、体だけが動かなくなっていく。言葉を失っていく。
自分の中は何も変わらないのに。
こんなに苦しいことって、あるだろうか。
朝目覚めても、体が動かないから起き上がれない。
一晩同じ態勢で眠り体のどこかが痛くなっていても自分で体の向きを変えることもできなければ、それを訴えることも出来ない。
喉が渇いていても、それを伝えられない。
トイレに行くこともできなければ着替えも出来ない。
誰かが来てくれるまで、永遠に待つしかないのだ。
どんなにつらいだろう。どんなに苦しいだろう。
食事は介助してもらうのだろうか?
食べ物が喉に詰まって苦しい時はどう伝えるの?…
考えれば考えるほど苦しくなった。
寝ても覚めてもそのことを考え続け、会社で仕事をしていてもふと気が緩むと泣いてしまう状態が続いた。
症状的にはALSやパーキンソン病に似ていると思った。
転職して今からでもアプリ開発エンジニアになって、これらの病に苦しむ人々の役に立つアプリを作りたいと真剣に考え、プログラミングを勉強できるコースを探したりした。
それ位しか、部長のために出来ることを思いつけなかった。
気付けば部長から病気のことを聞いて1ヵ月以上が経過していて、東京ガーデンシアターでのロマンスの夜(1/16)がやってきた。
ライブで歌われたカバーは名曲ばかりで、大人のコンサァトはそれはそれは素晴らしくて心の底から酔いしれた。
ただ何故だかいつもライブでは号泣する私がアンコールまで一曲も泣かなかった。…そう、アンコールまでは。
この日アンコールで歌われた”冬の花”で、私は何故だか号泣した。
歌詞に感情移入したとか共感したとかいう訳ではなくて、全身全霊で歌う宮本さんの姿にただただ心を揺さぶられた。
もしかしたら、曲は関係なかったのかもしれない。
ああ、宮本さんは常に全力で生きてる。命を使い尽くしてる。
理屈じゃなくそう思った。眩しかった。
ライブの帰り道、1人電車に揺られながら考える。
私は全力で生きているだろうか?
宮本さんをライブで見たあとは、いつもそう考えてしまう。
全力で生きたいと命を使い尽くしたいと願っても、何の特別な才能も持たない私は、きっと世の大多数の人がそうであるように、何をしたらいいのか分からない。
”命を使い尽くす”と言えるほどの、何が出来るのか分からない。
私は健康なのに命を使い尽くすことができなくて、あんなに有能な部長が病気になってしまった。
そこまで考えた時、突然私の心にある言葉がふっと浮かんだ。
…部長のやり残したことをやるんだ。
それが私の使命だ。
部長が何度も口にした”やりたいことの半分も出来なかった”という言葉。
私が残りの半分を。必ず必ずやり遂げる。
21年間一緒に働いた私にしか分からない。
私が、部長のやり残したことをやるんだ。
心の底からじわじわと熱い思いがこみ上げてきた。
部長と同じことは出来ない。
でも一番近くで部長を見てきて、考え方も仕事の仕方も一番良く知っているのは私だ。
他には誰もいない。私が海外の仕事をやるんだ。
部長が築いてくれたものを絶対に無駄にはしない。
それが、私の使命。
”使命”という漢字を心の中で書いた私は、何かに弾かれたようにびっくりして、そして涙が溢れそうになって必死に堪えた。
だって、”使命”って、”命を使う”って書くから。
”使命”が”自分に課せられた役割”だという意味なのは理解している。
でも、その役割を通して命を使い尽くせってことなんじゃないかな…。
少なくとも、私は部長にそういわれた気がした。
命を使い尽くして全力で生きたいと願っても、何をしたらいいのかわからず生きてきた私。
そんな私に、使命が与えられた。
私はこれから今の仕事を全力でしていけば良いんだ。
ひたすらに真っ直ぐに進めばいいんだ。部長の分まで。
生きるんだ、全力で。
電車が自宅最寄駅について改札を抜けロータリーへ出る。
冷えた空気の中、漆黒の夜空に黄金の下弦の月が浮かんでいて、私の心には何故か今夜宮本さんが歌った”First Love”の歌詞が浮かんだ。
”You will always be inside my heart.
いつも あなただけの場所があるから
I hope that I have a place in your heart too.”
私の心にはいつも部長がいて、これから先ずっと私の仕事を見守ってくれると思う。この場所は永遠に彼のものだ。
ーーー彼の心の中にも、私だけの場所がありますように。
1リットルの涙を人知れず流しながらこれから病気と闘っていくだろう彼の心の中に、同じ涙を流しながら一緒に闘う私の居場所がありますように。
そう願わずにはいられなかった。