他者への期待[機能性ディスペプシア闘病記-8]
大学では教育学部に入った。
特に教員を目指していたわけではないが、「金八先生」が好きだったので、漠然とその分野に興味があった。
初回の授業から、違和感を感じた。
内容が、あまりに現実から乖離しているように思えた。
理想論というか、机上の空論に近い。
教育とは、僕のイメージでは「支援」あるいは「子どもの可能性を引き出す」というものだと認識していた。
学部での定義は「矯正する」「これなしではまともな人間に育たない」という、傲慢なニュアンスにも違和感があった。
グループワークでも「人間は一生成長するか」を2班に分かれてディベートする、という課題が出たが、「人によるだろ」と冷めた目で見てしまっていた。
脳科学的には、結晶性知能は年老いても伸びることが示されているが、「それは成長しうる」ということが示されただけで「成長する」とは言えない、と教授がつっこむ。
ますます、成長するかどうかなんてどう証明すれば良いのか。
そもそも問いがおかしいのでは、というディベートのテーマが頻発した。
クラスメートとも、相性が合わなかった。
元々、群れるのが嫌いな単独行動派だったのだが、飲み会や放課後の遊びなどの強要が激しかった。
同調圧力、というものをここまで強く味わったのは初めてだった。
カラオケや飲み会に行くよりも、図書館で本を読んだりしている方が僕は楽しかった。
表面上は明るくふざけて周囲に合わせることができるし、小学校高学年からそのようにしてきたけれど、ひとりの時間の方が価値が高かった。
人間嫌いというわけでもないのだが、いつも「浮いてしまう」感覚があったし、どこかで「ここは居場所じゃないな」という疎外感があった。
寂しくはなく、ただ、ここじゃないという感覚。
しかし、教育学部ということもあっただろうか。
「みんな仲良く」みたいな理想論がまかり通る。
「1人は寂しいだろ」「みんなにもっと馴染まなきゃ」と集団行動を強要されるのが、非常に迷惑だった。
自分のスタンスを話しても「私も昔はそうだった。でも今はみんなと仲良くやっている」などと反論されてしまう。
僕は、集団行動したい人はすれば良い、それが肌に合わない人はしなければ良い、それが多様性であり価値観の尊重だ、と主張していただけなのだけれど。
飲み会も、大声で騒ぐことに楽しさを見出せなかった。
体調不良と嘘をついて、途中で帰ろうとしたことが何度もあったが、店の外まで追いかけてきて帰そうとしない人も何人かいて、不思議だった。
大学生にもなってこんなに幼いのか、と落胆した。
授業で、クラスメイトと理想のデートについて話したことがある。
ろくに交際経験のない自分が何を語れるのか、というツッコミはさておき。
僕は、たとえばショッピングモールに行った時、自分の興味に相手を付き合わせることに抵抗がある。
なので、時間を決めて別行動できるくらい、自立した関係性がいいな、と当時から考えている。
相手の興味に自分が付き合うのは抵抗はないが(むしろ好奇心が刺激されるので、楽しい)。
クラスメイトはこぞって「そんな仲の悪い関係は嫌だ」と否定していて、「常に一緒がいい」と言っていたけれど、その辺は人それぞれ。
ただ、これは別に「仲が悪い」と僕は認識していない。
むしろ仲が良いからできるのでは、と思ったりする。
1人で弁当を食べていた時も、「寂しいね、一緒に食べよう」と言われたが、「1人が寂しいと思う方が寂しいのでは」と心の中で言い返していた。
寂しいかどうかも主観なので、結局どちらでも良い。
当時、Macユーザーの比率はかなり低かったので、学内ではそこも浮いていて、「そんなものはゴミだ」と言われて驚いた。
理由は右クリックができないかららしい。
2本指でタップすればできるし、左利きにも優しいデザインなので、その点ならMacの方が優れているのではと思った。
そもそも人の持ち物をいきなりゴミ呼ばわりされることに驚いた。
嫌われているのなら仕方ないが、その割に遊びにはよく誘われたので、そうでもない気がする。
結論、ライフスタイルや考え方が、学部の授業内容やクラスメイトと一切合わない、ということが、当時の僕には大きなストレスだった。
浪人してまで頑張ったことから、失望も大きかったのだろう。
他者へ大きく期待すると詰む、ということが、当時の僕にはわかっていなかった。