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生きているのに生きるのが怖いんだ


しりひとみさんのコラム、「死ぬのが死ぬほどこわいんだ」を読んだ。

エモいタイトルに惹かれて読んでみると、いつものオタクノリの文章で綴りながらも本人にっとては心の柔らかい部分を吐露しているであろうことがよくわかる記事だった。

この記事に付いていたタグは「わたしの舞台裏」。

ライターを始めて半年、文章をネットで書き始めてそろそろ2年。彼女へのリスペクトも込めて、右に倣って書いてみようと思う。


物書きからライターになった


これまでに書いてきた文章は、ライブレポートから始まり、コラム、小説と渡って。ライターを始めてからは、インスタグラムのキャプション作成、インタビュー記事など、仕事としてお金をもらうようになった。

物書きからライターに肩書きが変わっただけで、「文章を書く人」から一歩も動いているつもりはなくて。周りの認識もおそらく「文章を書く人」で変わらないんじゃないかと思う。

ひとつ言えることは、自分にとって書くことは生涯の武器であるということ。


どうあっても書くことが好きだった


やっていることは、なにも変わっていない。

2019年11月25日にライブレポートを初めて書いて、コロナ禍の不安定な頃に物語を生みつづけ、その1年後には仕事にし始めた。

「自分の好きなものを誇りにしたい」「お金をもらうことで自分の文章を価値があるものだと証明したい」。

そんな考えから始まって、半年。1年にも満たない期間のなかでもわかることはいくつかある。

文章が書けるだけではいけない。自分にとっての正解がメディア・クライアントの正解ではない。人からの縁でもらう仕事は大事にしないといけない。とりあえず書いてみないとわからない。趣味でも仕事でも書くことは楽しい。文章でもらったお金はずっと嬉しい。

これから先にどうなるかはわからないけど、それでも文章を書き続けている予感はある。

これだけは胸を張って言える。書くことが好きだ。

だから今日も生み出している


これは、「文章を書く人間」ではなくて「自分」の話になる。

22年生きてきて未だに生きることが楽しいとは思えない。だからと言ってこうなりたいというヴィジョンはなくて。好き勝手に生きてきたからいつどうなってもいいくらいに考えている。

そんな自分がそれでもまだ生きていられるのは書けるからだと思う。

楽しいことがあれば残すし。悲しいことがあれば忘れるために書くし。伝えたいことがあれば飾らず、けれど美しく文章に仕立てる。書けるだけで楽しいし、誰かに響けばそれはそれで嬉しい。そんな気持ちで書いてる。

(............気分で筆を執るからこその難点はハチャメチャにあるが。)

今日に何もなくても明日に希望がなくても、それでも生きていることに変わりはないから。ならせめてと、今日も生きるために文章を書いている。

最近、よく聴いているカンザキイオリさんの「不器用な男」。歌詞にこうある。


春も夏も秋も冬も書いた 死にたくないから
ゴミみたいな部屋で 今日も生み出していた


「死にたくないから書いている」。これに尽きる。


今日も


おなかが空いたらごはんを食べて。眠たくなったら寝る。それと同じで、書きたくなったから書く。

特別なことでも何でもなく、生活と地続きの「書く」という行為。自分にとっては生きることに等しい。

この理屈でいくと生活の場面を切り取っているに過ぎないから「舞台裏」とはちがう気もするけれど。

ともあれ、今日も生きているから僕は文章を書いている。




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