5月12日の日記「空白から見る美」
「ミロのヴィーナス」という作品はご存じの通り両腕がない。
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ただこの作品は欠陥品として見られるのではなく多くの人から美しいと賞賛されている。
両腕がないことによってそこに美が成立しているのだ。
そして本来両腕があったいちは空白があるだけ何もない。
そうなると今度はそこに何があったのか、どんな両腕だったのか、何かを持っていたのか、そう考える余地が出てくる。
そしてこれも同じように歌詞の一部が自主規制音によって消されている。
これはあくまで作曲者による演出だがあえて一部が隠されている事によりまたそこにも考察の余地が発生している。
が、この曲はあくまで「空白」を楽しむ物であると考えた。
歌詞考察の動画を見たのだがそこにピー音で隠されていないだけで何かもな足りなく感じてしまう。
足りないものがそこにあるはずなのになぜだろうか。
そう思った時に改めてこの曲の奥深さに気づかされた。
さようなら。