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どんな失恋でも過去のことになるんだよ。50年も経てばね。


 すっかり帰りが遅くなって、バス停から自宅へ向かう緩やかな上り坂を急いでいると、甲高く泣きわめく声が聞こえた。
「捨てないでぇー、お願いだからぁー、捨てないでぇー」
 前方に、若い男性の片足に全身で抱きついて引き摺られていく女性が見えた。
 女性に片足を掴まれたまま、男性はずるずると前に進んでいく。すぐに彼らに追いついた。横目で見ると、男性はあえての無表情である。コンクリートがあちこちはげ、下地の砂利が剥き出しになっている坂道で、ストッキングしか守るものがない女性の足は傷だらけだろう。
 「手を離しなさい。男にすがるんじゃない。こっちから捨ててやりなさい」と孫のような年齢に見える女性を叱咤したかったが、周囲が見えない若者には余計なお世話に違いない。静かな夜の住宅街に響いていた声はやがて聞こえなくなった。
 恋は痛ましい。

 彼らを見てすっかり忘れていた過去を思い出した。
 二十代の前半、実業団のアイスホッケーの選手と付き合っていた。屈強な体のゴールキーパーで、無口で朴訥な人だった。デートはスケートのことが多かった。一人ではへっぴり腰なのに、彼に手をとってもらうと羽根のように氷上を滑ることができた。

 交際して1年足らず、結婚したいなと思い始めたころ、別れはまさに突然訪れた。
 
 アイスホッケー仲間とスケートをしに行った彼が、若い女性の顔に裂傷を負わせてしまったのだ。転んで突っ込んできた女性を避けられなかったそうだ。目撃者がたくさんいて、彼のせいではないと証言してくれた人もいたようだが、彼自身が責任を感じて、治療費や慰謝料を払うことに決めた。
 会社員の給料ではどうにもならず、故郷に帰って家業を手伝い、お金を工面することにしたと言う。一緒に来て、とは言い出せなかったのだろう。言われてもついて行ったかどうか。間も無く彼とよく似た面差しの実直そうなお父さんが挨拶にみえ、彼は故郷の九州に帰って行った。
「苦労は買ってでもしろと言いますが、貧乏と失恋の苦労はしない方がいいと思っています」と、島崎藤村の『初恋』を誦じてくれた高校1年の時の若いロマンチストの数学教師が言ったことなど思い出していた。街中で井上陽水の「心もよう」が流れていた。

 何年か経ち、音信が途絶えていた彼から、手紙と小さなプレゼントが送られてきた。生活が落ち着いたようだった。返事を書いた。「元気に過ごしています。結婚してもうすぐ子どもが生まれます」
 再び手紙が来ることはなかった。

 親しい友人にも言ったことがない、本邦初公開の話である。すっかり過去のことになった。「心もよう」を聴いても切なくすらならない。
 引き摺れていた彼女にもきっとそんな日が来る。

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