メドレーで歌ってしまう『真白き富士の嶺』『鎌倉』、そして『琵琶湖周航の歌』
久しぶりに在来線に乗って遠出をした。電車の窓から遠く太平洋が見えた。海は初冬の低い太陽を受けて穏やかに煌めき、縮緬のような優しさだった。かつて、毎年冬の日本海を見た。海沿いに夫の実家があるのだ。暗く底から揺らされているような角立つ水面に、引き摺り込まれそうな気持ちになったものだ。
目を細めて海沿いの集落の向こうの広々とした海を眺めていると、知らず知らず心の中で『真白き富士の嶺(七里ヶ浜の哀歌)』を歌っていた。
真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心
1910年、逗子開成中学校の生徒ら12人が学校に無断でボートに乗り、江ノ島を目指した。地元漁師たちが止めたにもかかわらず出挺し、七里ヶ浜沖で転覆、全員死亡した。
事件は美化され、今のSNS問題に通ずるような関係者へのバッシングにつながった。命を落とした少年たちばかりでなく、事件に連なる人の人生も変えてしまうことになった。
両親は折に触れてその話をしていた。亡くなった若者たちは両親の世代である。当時は大きく報じられて、生々しく記憶に残ったのだろう。両親が話していたそのエピソードをかすかに覚えていた。
大人になってから『七里ヶ浜』(宮内寒弥)を読んだ。著者は人生を変えられた一人である当時のボート艇庫の監督者であった教師の息子さんである。思慮なく今まさにボートを海に漕ぎ出そうとした少年たちは、自分たちの運命も、それによって人生を変えられてしまう人たちの運命にも考えが及ばず、高揚した気持ちでいただろう。
ゆっくりとした哀愁を帯びた曲調は子どもにも歌いやすかった。
『真白き富士の嶺』を歌い出すと、なぜか続けて文部省唱歌の『鎌倉』を歌ってしまうのがお決まりだった。お話の本で読んだ悲劇の実朝や静御前、護良親王も歌詞になっている。切ない気分を込めて、古に思いを馳せる気分でうっとりと歌ったものだった。
七里ヶ浜の磯づたい
稲村ケ崎、名将の
剣投ぜし古戦場。
『真白き富士の嶺』は5番まで、『鎌倉』は8番まである。何十年も忘れていたのに、口ずさんでみたらどちらも最後まで歌えたので我ながら驚いた。歳をとると昨日のことは忘れるが、子どものころのことは忘れないと言われるのは本当だ。
さて、『真白き富士の嶺』を歌おうとすると、うっかり『琵琶湖周航の歌』になってしまうことがあった。
われは湖の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧や さざなみの
志賀の都よ いざさらば
同じ時期(1910年代)に世に出た曲のようだが、こちらは三高(現京都大学)ボート部を歌ったもので、のちに寮歌となった。おそらくは京都出身の父がよく知っていて、歌っていたような気がする。調べてみると6番まであったが、1番しか覚えていない。先の2曲と違い歌詞もロマンチックで温かい。乙女心には染み込まなかったのかもしれない。