夏の砂の上
はじまり
降るような蝉時雨と、かすかに聴こえる潮の音。
窓から差し込む赤茶けた光。
茶の間と呼ぶにふさわしいテーブルと古びた扇風機。
蝉の声が季節の移ろいを告げている。
この作品は、潮の匂いがしてきそうな家屋で交わされる会話で進んでいく。
「長崎は今日も雨だった」の歌が頭の中でリフレインする。
子どもの頃、酔った父が同僚を家に連れてきて、こんなふうに歌っていたのを聞いたことがあるような気がする…
としばしノスタルジーに浸る。
黒電話の音が響く。
その姿は見えないのに、あの重い受話器を持ってコソコソと話す優子の姿が浮かんでくる。
この作品の舞台はいつ頃なんだろう。
目に見えている光景は確かに昭和だけど、会話の節々にコンビニだの職業安定所だの出てくるから、もしかしたら平成なのかもしれない。
なんだか不思議な時空だな…と思う。
決して派手な作品ではない。
淡々とした会話のみで進んでいく世界では、奇抜な大事件も起きないし、人々にも大きな変化はないように見える。
正直、きっちりとお膳立てされた作品を観ることに慣れている人間には、
ちょっとハードルが高い気がする。
何を隠そう、私自身がそうだ。
だから見終わった時、途方に暮れた。
どうしよう。
チケットはあと何枚かあるけれど、私には無理だったのだろうか。
この先この作品をちゃんと「鑑賞する」ことができるだろうか…。
退屈しない世界
ただ、不思議なのは観ていて全く退屈しなかったことだ。
理解できない演劇や映画を見ている時間はつい時計を見てしまう私だけれど、この作品を観ている間は、時間が過ぎ去るのが惜しい気がして、全く時計を見ようと思わなかった。
むしろ、終わりの時間が近づいているのを気づかされるのが嫌だった。
こういった作品は、ともすれば製作陣だけが「分かっている」(そして観客が置いていかれる)ことになりがちだけれど、この作品はそうではないのかもしれない。
この作品はきっと、観客の無意識下にそっとささやきかけてくるのだ。
普段は意識していない、とても繊細な部分で。
だからあまり考えすぎず、とにかく作品世界に身をゆだねてしまえばいいのかもしれない。
座長が言っていたように何かが「うごめいている」感覚さえつかめれば、
それで充分なのかもしれない。
そう気づいた時、少し気が楽になった。
ついつい理屈っぽくなりがちな私だけど、できるだけ彼らの言葉を心で感じてみようと思った。
登場人物たちの心情に思いを馳せながら、そこに寄り添うように見ていくうちに、なんとなくなにかが掴めた気がした。
ホントに「なんとなく」だけど。
シンプルなセットと想像力で展開される世界
この作品のセットは日本家屋の茶の間のみ。
キッチンや電話や玄関や寝室といった見えない場面でのシーンもあるのだが、あえて音声のみで表現されているため、
そこで展開される光景は観客それぞれの想像力に委ねられる。
この作品の魅力はそこにもあると思う。
舞台というのは元々、映像作品に比べて想像の余地が大きい。
演出側は、限られた状況の中でどこまで具体的に表現するか。
そして観客側は、どこまで想像力を膨らませて「観る」ことができるのか。
舞台を観るだいご味は、その「見えないものを観ようとする」部分にあると言えるのかもしれない。
この作品は「見えているもの」と「見えないもの」
そのバランスが絶妙なのだと思う。
真剣なのにどこかユーモラスな人々
この作品は、会話から人々の心象風景を描き出す。
「人の気持ち」だってまた、見えないもの、想像力で補うものだ。
全く別業種の仕事について嬉しそうにしつつ、どこか苦しんでいるようにも見える元同僚。
気持ちを切り替えられない治を責めながら、自分はちゃっかり以前と同じ職に就き、妻までも奪おうとする後輩。
治との間にずっと、愛憎反した感情を抱き続ける妻。
何度男に騙されても懲りない妹。
親から捨てられた優子。
さまざまな人々の思いが交差していく。
自分自身でもはっきりとは自覚できない気持ちを抱えたまま生きていく人々はとてもリアルに映る。
そして決して明るいとはいえない作風だと思うのに、どこかクスリと笑ってしまうシーンも多い。
浮気相手の妻が乗り込んで来たり、終盤、主人公が大変な目にあったり。
本人たちは至って真剣で辛いのに、その口調からおかしさがこぼれる。
人は愚かだし、間違うし、人生は上手くいかないことも多い。
でもきっと、辛いだけでもない。
なんだかそう思わせてくれるのが嬉しい。
治と優子
主人公のとつとつとした長崎弁は、染みのない言葉のはずなのに、なぜか心に染みる。
寡黙で、まだ若いはずなのに枯れたような風情を感じさせつつも、時に見せる激しい感情からは、妻や仕事に対して、熱く複雑な想いを抱えていることが伝わってくる。
辛い過去や傷あとを抱えながら、彼が出した結論が「淡々と生きる」ということだったのだろうか。
そして、優子。
一見、おとなしそうでありながら、実は大胆で危ういものを持っている雰囲気を見事に醸し出している。
少女の顔と大人の女性の顔を交互にのぞかせる彼女は、治に対してどんな思いを抱いているんだろう。
親の都合に合わせてあちこちと連れまわされ、放置され、それでもそんな母親に対して抱く想いは、治が妻に向ける想いと近しいものがあるのだろうか。
半ば無理やり同居させられることになった彼らが二人きりで会話するシーンは、実はほとんどない。
決して傷をなめあうわけではなく、しかしどこかで心が通じ合っているようにも見える二人。
水が出ない。飲み水さえもない環境で、どこか諦めて今の「渇き」を受け入れているようにさえ見える。
でも、本音はきっとそうじゃない。
水が欲しい。
生きるための希望が欲しい。
貯めた雨水を交互に飲み、まるで子供の用にはしゃいでいる二人がとても印象的だった。
そして、別れの場面も。
終わりに
きっと私は、もうこの作品の事を好きになっているのだろうと思う。
まだ何も理解はできていなくても。
2回見終わった今は、もう一度見たくてたまらない。
いったい彼らの中にあるものは何なんだろうか。
彼らはどんな気持ちで生きているんだろうか。
そして、光に目を細める治は一体なにを思ったのだろう。
周りの変化に合わせて、治自身も変化していくのだろうか。
この人の事をもっと知りたい。
もっともっと。
その想いを胸に、私はまた劇場に足を運ぶのだろう。