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応募作品⑮『想定外の未来』

※この作品は、2019年の自分史(短編部門)に応募し落選したものです。NOTEに掲載するにあたり、気がついた分については、多少修正や加筆しております。2本書いたのでそのうちの一本です。

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『 想定外の未来 』

 発達障害があることで長年巻き起こっていた精神障害が自身が思っていたより全くといっていいほど治っていないことに気がついた3年前の春、再度自身の障害に関して真正面から向き合うために自分史でも綴ってみようと思ったが一度断念したことが実はある。

 その当時、自身の記憶の整理もかねて現在から自身が生まれた時のことまでを改めて辿ってみることが自己治療にも繋がると思ったからだ。ただ、まだその当時は完全に治りきっていなかったことや熊本地震が起きたことで一旦保留にした。そうそう、そういえば…。あの時に綴っていた文章を一纏めにし〝あとがき〟として残した文章の最後をこんな言葉で締めくくっている。


〝治る〟にも段階がある。
〝治っていく〟にも過程がある。
〝治る〟の向こう側にある景色は
無限に無数に広がっている。
誰のものでもない。
私だけの治る景色が
みれる日がくるように
私はただ自分と向き合う日々を
これからも大切にしていこう
そう思っている。


 今思うとその〝あとがき〟が『治す覚悟を決めた』宣言文にもなったように思う。だからといって、この世に生を受けまだ45年しか生きていない私が、自分史を綴ることは普通ならありえないことだとも思った。
 自身の過去を綴ったところで、ただの自己満の境地に過ぎないだろうし、それが、他の誰かの役にたつのだろうか? そんな思いがでてこなかったワケでもない。
 ただ、過去を一度整理することで私の治っていく過程を後押ししてくれるようにも思ったし、その時々のリアルな感情も共に残しながら、過去の負の感情や誤学習を成仏させ、書き換えることも自己治療といっても過言ではないように思ったからだ。

 そして、そんな自身の経験を自分以外の誰かへリアルタイムで発信するというスタイルはネット社会である現代だからこそ出来ることで、過去の体験を織り交ぜながらその時々の着地点で感じたことを赤裸々に綴ることが承認欲求の不具合の治療にもなるのではないかとも思ったし、一個人のエビデンスに過ぎないことも、まだ記憶が鮮明で脳みそが元気なうちに最新データを残しておくことが大切なことのようにも感じたからでもあった。それと、当時の知人からの薦めもあり紙媒体ということではなくブログというカタチで発信することにしたのだ。

 ただ、あの時想定していた〝治るの向こう側の景色〟とは随分かけ離れた別次元へ辿り着いてしまった。想像を越えた毎日は日々更新され続けている。それより果たして私の長年感じていた不具合は〝治った〟といえるのだろうか?

 3年という月日で今現在の私に成れたのは自己治療によるものだけでは決してなく、きちんと医療の力も借りた。自身の障害に真っ向勝負すると決めてからは、折に触れて神田橋條治先生の診察を受けていた。先生との約1年弱は私にとって宝物となり、お陰様で本来の私に戻ることができたのだから先生には感謝しかない。それに加えオマケもついていた(笑)

 なぜなら、自身が想定していた以上の未開拓のメンタルの領域に達しているからだ。過去の自身の価値観と今現在の価値観の違いに苦笑いするくらい変容してしまったから自分自身が一番驚いているくらいだ。メンタルが強化されたに留まらず、それまでに言語化できなかった内面の感情を言語で表現することができる様になったことでとても楽になった。そうなったことで自己解決することが容易くもなったのだろうと思う。と同時に自己愛のことまで解決してしまったのだ。ずっと自分のことが大嫌いでたまらなかったし、過去の悪い子だった自分やエゴの塊だった良い子の自分、どんな自分も認め許せるようになった。私自身は自身を扱いやすくなったのだが、もしかしたら逆に周囲の人たちは扱いづらくなってしまったかもしれない(苦笑)それくらい、私という個体は変体したといってもいいように思う。人は変わろうと思えば変われるのだ。それが〝発達〟といわれるものでもあるように思う。そして、今の自分は案外悪くなく心地いい。こんな風に思えるようになったことは心底嬉しく思う。

 それにしても、一体私は遠い昔、自身でどんな魔法をかけてしまったのだろうか?と狐につままれた感じでもある。それと、燻っていた最中には全くわからなかったことだが、現在の着地点で言語化するなら、私の場合には、〝自分次第〟だった。自身の世界の切り取り方次第で世界の見え方や受け取り方が如何様にも変化してしまうことを日々体感し思い知らされているからだ。

 私は世間一般でいわれる〝ただの人〟なのだが、それでも私の半生は平坦といえるものではなかった。成人になって発覚した発達障害があることで巻き起こっていただろう2次障害や育ちの中で育まれてしまった誤学習もあいまって、あまり人には話したくない黒歴史もそれなりにこさえてしまった。私の半生を簡単に表記すれば『波乱万丈』といったところだろう。だからといって不幸だったというワケでもない。

 高校卒業後、一度社会へ出て、恋に仕事に結婚そして出産もした。幸せを感じていなかったとは決していえない。それなりの幸せを感じていながらも何故か満たされたことがなかったのだ。だからなのか、内心そんな自分を責めてもいた。

 私はごく一般的な家庭に生まれ、両親は今だ健在だ。貧乏といわれて育ったが本当は貧乏でもなかったし、機能不全家族といわれるほどの家庭でもなかったと思われる。ただ主体性が確立されるだろう思春期の時期に、周囲の人たちと自身の考え方や価値観の違いと折り合うことなく未消化のままにし、周囲の評価ばかりを気にした他人軸で取捨選択をするような生き方が望ましいと勝手に誤学習をしてしまっていたことが負の連鎖を引き起こしてしまったように思う。

 それと並行し、トラブルが起こると感情コントロールがうまくできなくなったことを悩んでいた時(感情の部屋を分けて考えるようにすれば良いのではないか?)と閃いた時からネガティブな物事は脳内のネガティブな部屋へ閉じ込めるようになった。それが、未消化の感情を置き去りにするようになったはじまりになるのだと思う。それでも、自身が壊れないようにするためのその当時の私なりの戦略だった。でも、そうやって回避していたことが、精神医療でいわれる〝解離〟といわれる状態であったするならば、おそらく私の中で長年燻り続けていたものは〝それ(乖離)〟になるのだろうと思う。

 そうなると、私は平成が始まり終わりを迎えた約30年もの間、バラバラの感情を使い分け統合できないまま暮らしていたことになるのだから考えてみると恐ろしい(苦笑)。 それとは別に、燻り続けていた〝それ〟と長年苦しんでいた2次障害やその当時からの様々な保留事項は、どんな自分も認め、受け入れられるようになったことで、たった3年の月日の中で、ほぼ解決をしてしまったのだから、人体の不思議を認めざるを得ない。、

 数パターンの〝希死念慮〟や〝執着の問題〟や〝他者では決して埋まることのなかった孤独感〟そして〝積み重ねられた罪悪感〟。どれも今は善悪関係なく全て受け入れられるようになり、過去データは日々書き換わり更新され続けている。『解体からの再構築』という言葉がぴったりな未来の中で過去の私も共に想定外の〝未来〟の中で、私は〝今〟を生き延びている。

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