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きょうのそら

2024年8月25日(日)罪過からの洗礼

今年の夏は晴れ間が続く日が多かったのに
久しぶりに雲行きが怪しい
台風の影響もあって
昨日と今日は時々雨が降っている
外出時に雨に降られると
今年の夏ほどありがたいと思うことはない
それだけ寒がりの私でも
暑いと感じるくらいだしね

自分の本心はあまり話さない…というより
わりと達観しているほうなので正直話せない。
準備ができている人ではないと
チンプンカンプンだから。

昨日、珍しく相談をしてみた
何も話すことがなくなってしまっていたんだけれど
悩んで苦しかった時期があったから
いい忘れたこともあったけれどある程度全部ぶちまけた
おかげさまでスッキリしたのだけれど
ちょっとひっかかってしまった部分はあって
それで、昨日から脳みその前頭葉左側らしき部分が
ぐるぐる動いている気がするww

自分では、わりと〝寛容〟なほうだと思ってたんだけど
まぁ他人からすればそうじゃないらしい。
ふむ。
数年前からの現在まで
私や子どもに起きていた出来事を話せば
私が〝寛容〟じゃないなんていえないと思う
所詮他人事な人たちにとって
鼻糞程度なんだろうな。
これがドラマや映画だったら
私がこうしてブログを綴っている時に
私と子どもの苦労していた時期の回想シーンが
流れているに違いない。
それを観れば、そんなこと軽々しく口に出せないくらい
私も子どもも大変な日々だったのだけれど…
私と子どもという言葉では
私たち二人の個人が抱えている問題も
その当時苦労していたことも
『私』や『子ども』という言葉に含められた
数年間の想いや苦労は微塵も盛り込まれていない
それは、知っている人たちにしかわからない
みえない情景や心情なのだ
だから、こうして言語化していて思うことは
想像する力や寄り添う力がない人は
支援者には向いていないように思うし
それがありすぎる場合もまた向かないように思う
あっ話がずれてるww

私が寛容になれないのは
『罪過(法律や道徳に背いた行い)』に関してだ
それは立場上仕方ない部分もあるのだけれど
そうしたことまでも〝寛容〟になって欲しい
ということだとしたら
これでも、私相当受け入れているほうだけど…
受け入れて欲しいことの〝違い〟が多すぎるんだよなぁ
そして、それは誰でも良くないから
みんな拗れていると思うのだけれど…
私はそのことに気がついたから
効率いい方法を考えて〝自己内省〟するしかなくなったワケで…

自分にとっての『WHO(誰)』がわかっていて
その『誰の人』とならば
言葉なんていらないんです
そして、その言葉も長文ではなく単語だけでも
下手すると傍にいるだけでも
通じてしまうものです
それと、自己開示はどこで
『パカッ』と開いてしまうかわからないものだから
相手は選ぶ必要があるってこと
気がついてください
だから、心屋式では心のバンジージャンプを
とばされることをやらされていたのだろうと思われます

あと、私のこのブログを読んでくださっていると思うので
いい忘れたことを落としておきます
私と私に纏わる、特に福祉や医療に携わる方たちは
〝罪過の前提の違い〟が私とありすぎなんです
その域にいるからこそ、
自分たちの〝罪過〟に気がついてないってこと
で、そこに対しての寛容でもあったとするなら
ご自身たちは自白していることになります
そして、それは『洗礼』にもあたるんだけど…
という思いが湧き出てきました
すみません。
戦国時代も終わって令和です
法治国家なので
みえないことが許されてきたから
こんな社会に成り下がってしまったと
思っていた身としてはなれないなぁ
あっ赦せることと赦せないことはあるので
それは、私が母親だからってこと
抜け落ちてますです

そして、私は生活保護だからだけじゃなく
〝罪過〟に関しては寛容にはなれません
というかなりません。
その意味は、映画『万引き家族』を観れば
私のいわんことはわかるハズです
はースッキリ

それでは、またー明日か明後日か明々後日かー

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