#026_ざざっと成育歴②之十(最終回)
〔思春期から青年期までの変〕
青々と茂る季節の迷路から
次のダンジョンへ
さて、そろそろこの章もこの回が最終回となります。
青年期から現在までを継続して綴ろうと思っていたのですが、一旦、思春期時代の頃までで、この自分史は〝終わり〟にしようと思います。いわゆる今回で【前編】終了ということです。
この回の後に『あとがき』として、もう1本記事を綴ろうかとも思っていますが、なるべく早い段階で終わらせるつもりです。そして、また日を改めて、青年期から現在のどこかの地点までのことを〝後編〟として綴りはじめようと思っています。というのも、コロナ禍はまだ続くようですが、それなりに社会も変わり始めており、私自身の現実も少しずつ動きはじめている状況なので一旦キリがいいところで〆ておくといった次第です。
同時進行で記事を綴ることは可能ではありますし、過去を遮ることが自己治療にもなってはいるのですが、現実で起きていることにも対処しながらになるので、自分自身が思っている以上に負荷がかかってしまうみたいなんですね。
確かに、数年前の自分と比べるとメンタルは頑丈にはなったのですが、逆に身体は弱ってしまったからです(苦笑)それだけ、私自身、外側からみてて出来ているようにみえますが、実は、キャパが少なく、無理もしがちなので、というか無理をしないと現実が動かないので、キャパオーバーの状態になりがちだということにも、やっと気がついたからです。それに加えて、病院に行くことは、億劫じゃなく、むしろ好きだったのですが、数年前から物凄く億劫になってしまいました。何故なら、検査はしても腑に落ちるような対処をしてくださるドクターに出会えなかったからでもあります。
ただ、それは、私が生活保護世帯になったことで、越境したりして、受診ができなくなっただけじゃなく、生活保護世帯だと、必要最低限の治療しか受けれないんです。正直言って。それに加え、思春期時代のトラウマがあったことで、清掃パートの仕事をしていた時に起きた出来事が、更に私の被害妄想を駆り立ててしまうことになりました。そういったことから、血液検査の数値や検査結果においても、信じられなくなってしまうことになりました。なので、正直言うと実は検査結果のデータを信じられていません。
なぜなら、血液検査は先生方が直接行ったわけじゃなく、あくまで検査している所から届けられたデータをみて、あくまで先生はその〝結果〟をお知らせしてくださるだけだからです。なので、もし、その血液検査のデータが意図的に何かされていたとするならば(そんなことはあり得ないのですが…)医療事故や誤診というカタチで人を殺すことはできるよね…といったことが閃いた時から、そんな思いに押しつぶされそうになる自分自身とここ数年戦ってきたし、それは現在もまだ続いています。
血液検査をしてもわからないっってどういうこと? 科学的データや知見をうたってるのに矛盾してるよなぁって思うんですよね。もしかしたら、サイコサスペンスとかを観た影響でそういった妄想にも駆られているのかもしれませんが…。
医療従事者側が個体の情報を握り、それらがどういう意味を持っているのか知っているからこそ、知識がない患者側の立場の人へわかりやすく伝え、信頼関係を築いていくかで、残った傷が〝治る〟ことはなくても、癒されたり奇跡的に治癒に向かうこともあるのだろうと個人的に考えているのですが、プラセボ効果を馬鹿にする人もいるのもこの世。ただ、飲まなくてもいい薬を飲まずにいられたほうが、断然身体には良いわけです。
それでも、そこに至るまでには、それなりの治療が必要だし、治療を受けている上で、自分自身の身体に起こっていることを主治医に伝え、それを受け止め、対処してくださる先生との信頼関係次第で、その人の予後が大きく変わるものだと私は痛感しているからなのですが、私の場合には、それを自身が拒否してきた10年余りを過ごしてきたことに気がついたので、信じられなくても頼るほかない〝今〟をやり過ごすことなく、1ミリでも前に進むために帳面消しをするような日々を送るほかないのです。
身体のことや潜在意識のこと、そして薬剤に関することを学んでいる人たちは、無害なもので人を殺める術や追い込むような知識や知見を持っているんですよね。
身体の〝代謝〟や〝解毒〟に関することを知っているならば、治療方針次第では、自然死にみせかけることもできるんだろうといった思いが芽生えてから、正直信じられなくなってしまいました。
それでも、身体からでている聲(身体の不具合)をなんとかするには、凡人の私の場合、標準医療を頼るほかありません。なので、病院へ行くまでのことです。小さな不安を取り除くことが、大きな病を防ぐことになると思っており、それが〝予防〟だとも思っているからです。やっと〝生きる〟ことが楽しくなってきたので、死にたくないでもあるのですけれども。
そんな思いも抱えながら、本当は信じられていない精神科へ毎月通院し、先生と他愛のない会話をしているワケですが、福岡へ移住して半年の間に起きた出来事で、気づかされたのは、自分の人生の中で一番大きく躓いてしまい、それを〝癒す〟ことができた思春期時代に、自己の中へ逃避することで、トンネルというか自分自身でつくってしまった〝迷路〟を彷徨うことになってしまったことに改めて気づかされることとなりました。その件につきましては、#025_Breaktime04 を読んでいただけましたら幸いです。
兎にも角にも、また、前置きが長くなっておりますが、現時点での私の思いを先出しすることで、本題で私が何を言わんとしているのかがわかってもらいやすいような気がするので、長くなってしまいました。スミマセン。とりあえず、ざざっと成育歴思春期の章の最終回です。
〝人〟が癌だったからこそ〝人〟で癒すということ②
成育歴②之九をアップしこの記事を綴るまでに、自身が思春期時代から握りしめてきたことを紐解きながら自分なりの自己治療を行う中で、映画を観たり著書を読んだりしていた。
どんな映画や著書を読んだのか、紹介したいところだが、一度紹介を始めれば、全ての作品の感想を綴らなければならない呪縛に囚われてしまうタイプなので、今回は割愛させてもらうことにする。
その中でも自身が一番揺さぶられた作品や、ずっと気になっていた作品を読んだ著書などの一部を抜粋し、思春期時代から自身の抱えていた感情と照らし合わせながら綴っていきたいと思う。
数年前に話題になった漫画『君たちはどう生きるか』を読もうと思い購入を考えていたのだが、思わぬ場所に置かれていたので、ざっとになるが読み終えることができ、こうして、やっと重い腰をあげることができた。
簡単にはなるが、読み終わった感想としては、私がこれまでに気がついたことの確認作業になったということが率直な感想だ。それと、もし、思春期時代の教科書に『山月記』ではなく『君たちはどう生きるか』が教科書に一部分だけでも抜粋され掲載されていたなら、私は著書を通して、自身が抱えていた問題を誰にも相談することもなく、コペル君のように自身の中で気がつき〝楽〟になれただろうなと思う。
そして、同年代ではなく、その時期に、どんな人に質問すればいいのかも気が付けたのかもしれない。これは、前章の中で「はちどり」という映画を観た時に感じたことと同じだ。
ただ、当時を振り返ってみると、コペル君の伯父さんのような存在や「はちどり」の塾の先生のような存在は、私の周りには、学校の先生しかいなかった。学校の先生以外で、私の思いを受け止めつつ、知りうることを教えてくれる存在はいないに等しかったた。だからこそ、吐き出せる場所がなかったのだ。
もし、そういった存在がいたなら、自身の中に閉じ込めることなく、本当の気持ちを開示したり、相談できただろうというか相談したと思う。そんなことを思うと、正直虚しい気持ちでいっぱいになる。それでも、私自身、自分で強いと思っていたメンタルは、ただ鈍感だっただけで、弱すぎたことで、自身の身に起きてしまう物事だけでなく、自身から溢れてくる想いさえ受け入れることができなかっただけだったことに気がついたのが40代すぎてからだったのだから、どれだけ、人に振り回される人生を選んでいたのかを思い知らされている。
今年の夏で私は48歳になった。思春期時代に躓いてできたかすり傷だった物事が、成長過程とともに、自身で自分を死に追い込むくらいの傷にいたらしめることになっていた。ただの傷がうっかり放置していたら、癌化してしまったようなものだ。
鬱でさえ『心の病』といわれていた時代があった。それでも〝心〟といわれる領域は、身体にみえない次元だからこそ、画像診断やデータ解析だけでは紐解けない次元でもあると思うのだ。
それに、個体差もある。科学的なデータ解析だけで、ある程度、自分がどのグループに所属しているのかまではわかっても、その人が〝治癒〟にいたるまでには、その人自身の生き延びようとする力だけではなく、その人自身が置かれた環境やその時々で出会う人次第で人生が大きく変わってしまうのだということに改めて気づかされることになった。
それは、障害のある息子と再度暮らしはじめ、たった3年の月日の中で気がついたことだ。〝発達障害〟という総体的に語られてきた概念は、実は〝マヤカシ〟でしかなかったんじゃないのだろうか…と今現在は思うにいたっている。
私の息子は、知的障害を伴うカナータイプの自閉症スペクトラム障害だ。世間一般で語り継がれてきた教科書通りのタイプで、私も一時期、世間一般又は名だたる先生方の言葉のマジックにまんまとハマっていた時期もある。
ただ、息子と改めて暮らす日々の中で、教科書通りの当事者に仕立て上げていた犯人が実は学者や研究者だけじゃなく、臨床の場所で働いていた人たちでもあり、当事者や保護者もまんまと字義どおりに受け止めていたのだということに気がついてしまったのだ。
字義通りに受け止めるのが得意なのがASD(自閉症スペクトラム)の特性の1つともいわれているのだが、だとすれば、今までの知見を字義どおりに受け取り、目の前の当事者の状態像をすべて教科書通りに当てはめ、特性として片付けられてきたとするならば、改善できることも改善できないのは当たり前の話だと思うのだ。つまり〝療育〟や〝教育〟を受ける機会に恵まれても、障害特性や本人の問題としてしか片付けられていなかったとするならば、対処療法は、ただ〝害〟でしかないように思う。
当事者や保護者だけではなく、精神科の先生が如何に、新しい知見を食いつぶし、患者を通し自己との対話を怠っていただけなのかもしれないという思いも芽生えた。
先生方には、失礼なことを私は発言しているかもしれないのだが、考えてみると、あきらかに、精神を病んでいる当事者の方が、社会的な場面での経験値はあきらかに多いとおもうのだ。だからこそ、臨床の現場で働いている先生方よりも、経験値が高くなってしまうのは当然なことでもあると思う。何故なら、医療現場や福祉の現場も一般社会ではあるが、特殊な環境になるからだ。
それに、普通教育の時代から社会生活を送るまでの間にも、数々のトライアンドエラーを繰り返してきたことから得た、様々な感情を抱え、それらを自分なりに昇華していていく作業は、どちらも同じように思えるが、生きてきた次元又は世界線が違うからこそ、共感しづらいだけではなく、理解できなくても当然だと思うのだ。
それと、先生方は体験はすることはなくても、医学を志す中で学び〝知識〟としては知っていらっしゃるだろうことは、患者になる私たちよりも情報に触れる機会は多いだろうと思うし、ご自身なりの臨床データに触れた経験はあるのかもしれない。
ただ、実質、一般的な社会で巻き起こる経験値は、おそらく低いと思われる。なぜなら、次元を変えてまで、自身の糧にできている先生方が存在していないとはいわないが、患者に寄り添うということは、一般社会で何が起きていることかを知ることからも、その人の治癒に対する状態像がみえてくることもあると思うからだ。
とどのつまり、山の上から里を眺めていても、実際みえている現象と山のふもとで起きている現象にはズレがあるということでもある。当事者の問題行動は「氷山の一角」でしかないのに、みえている状態像だけで、その人の本当の苦しみに気がつけないまま、部分的なところだけで判断をし治療が行われてきたとするならば、罪深いことだと思う。
神様でも魔法使いでもないのだからこそ、里で起きてることを自身の目で見聴きして、そして、当事者や周囲の話を聞くことで〝解像度をあげる〟ということででも、新たな知見は産まれると思うのだが、それができていない現場が多いように思う。ということは、当事者も医療従事者又は支援者も、自分自身の都合のいいことだけしか伝えきれていないのだろうと思う。だからこそ、私は、自分自身に沸き上がってくる想いや身体症状はすべて吐き出してみることにした。何故なら、その道のプロだからこそ、言ってもいい場所なはずだからだ。それが現場の人たちへ投げかける問いでもあるように思う。そこから考えるのが医療や福祉又は行政側のできる事なのではないのだろうか?
後、医療従事者や支援者の中には、自身にもどこかの地点で何らかの心の不具合を抱えているからこそ、その場所で働いていらしゃる方も存在するかもしれない。が、自身の中にある古傷を癒せる力がない人たちは、精神的に病んでいる人を癒すことはむかないというより、難しいだろうと思う。
むしろ自分自身が病んでしまう原因にもなってしまうように思うのだ。何故なら、自身が体験し越えたことのない経験をしているのが患者でもあるからだ。そして、自他の区別がつかない状況での介入ほど、共依存に陥りやすいようにも思うからだ。
それは、患者と医療従事者や支援者だけに限らず、程よい距離感が必要なのは、どんな立場の人にも必要なことだと思うのだ。
何故なら、人には〝脊髄反射〟というものが備わっていることから、自分自身が傷つかないように、又は、死なないように、反射的に行われる機能が備わっているということで『聞こえているはずだけど、聞いていない』又は『聞く耳をもたない』状態となってしまう人たちもある一定数は存在し、そういった状態に陥りやすい人たちを言語化するならば〝思考停止〟といわれる状態でもあると思う。
ということは〝言っても聞かない〟又は〝聞こえているけれど伝わっていない〟という状態の人が、脳の機能的に起きている不具合なのか、その人自身が身に置かれてきた環境で〝思考停止〟する状態になってしまったのかで、大きく診断名は変わるはずなので、障害でもなんでもない人たちが、もしかしたら〝発達障害〟とラベリングされているケースもあるだろうと思うにいたっている。
障害の特性と一般的な〝躾〟又は〝教養〟の範囲で、起きている不具合は、実はとても似ているように思う。だが、当事者も保護者も支援者もドクターも、都合よく障害特性にしてしまっているだろうケースは〝ある〟のではないのだろうかということに最近になり気がついてしまった。だからこそ、医療や福祉の現場が以前に比べれば、診断する場所や支援機関が増えても機能できていない状況になっており〝飽和状態〟となってしまったのではないのだろうか…とも思う。
私の息子は決して障害が軽いわけではない。知的な遅れは、中度から重度域で自閉症スペクトラムも併存している。ただ、そんな息子と過ごす中で、障害の軽重関係なく、その人に腑に落ちるカタチで伝えることで、問題行動と思われることが問題じゃなくなることにも気がついてしまった。それは、昔、受講した発達障害の講座で囁かれていた「予後が悪いのは軽度域の人たち」ということの意味を改めて痛感しているからでもある。
そして、本人の問題だとおもわれていた問題行動は、決して障害を持つ人の特性が問題になっているのではなく、当事者に関わっている周囲の人のほうがよほど〝障害〟になっていることにも気がついてしまった。
だからこそ、私は、鬼滅の刃の〝煉獄さん〟とはいかないまでも、自身の信念に基づいて断固として包み隠さず自分の思ったことは、伝えることに徹するようにしている。
そして、私なりの信念をもち、行動に移してわかったことになるが、いかに、当事者や保護者が自己都合の不具合だけを伝え、未来を見据えた解決策を提案できていなかったのかということに気がつかされることになった。
そして、最悪なのは、精神医療や福祉に纏わる人たちの一部に、自身の立場や制度を利用し、自身の知見をただ当てはめるだけの療育や支援の在り方をアナウンスしている人のせいで、標準医療や療育の現場をかき乱してしまう存在が、本来、より良く機能しているかもしれない医療や福祉の現場をかき乱しているのだろう存在がいることにも気がついてしまった。
正直いって迷惑だ。まぢ、バロス案件ばかりなのだが、これまでは、私自身の中で、ぼんやりとした得体のしれない気持ち悪さとして感じていただけで、こうして言語化するにいたらなかったことに加え、日々の生活を送るだけで、それらを訴える気力もない状態でもあったので、気づくのが遅くなってしまった。正直、早く気がつけなかった自分が腹立たしい。
だからこそ、お金持ちでもない、バックボーンもない私自身の現実を変えていくには、自身の半径1メートル未満から関わっている人たちに、アレコレ手をかえ、場所を変え、訴え続けるほか、私には手立てがないということを思い知ったからなのだが、とりあえず、私自身がまだ行動できるうちに、気がつけたのはよかったように思う。
『バロス』といえば、ゴミゴミな人たちを切り離し、空の果てまで飛んでいけるのなら、早い段階で現実は変わっていくのかもしれないのだが、だからって、世の中が本当に良くなるかどうかなんて、良くならないに決まっている。なぜなら、それは歴史を振り返ればわかることだからだ。
とにかく、どこかの時点でズレてしまった、たった1ミリや1度のズレを一旦ゼロに戻し、現在地でのピントを合わせ、微調整していくことが大切だと思うようになった。
そうすることが、どこかの地点で掛け違えてしまったボタンを掛けなおせる〝鍵〟になるように思ったからだ。
ただ、掛け違えたボタンのボタンを失くしてしまったり、着ていた服が小さくなり自分自身の好みに合わなくなれば、誰かに譲ったり捨てたりすることになる。つまり、その服を人の〝縁〟に例えるなら〝縁が切れる〟ということでもある。
謝罪すれば許してもらえるという行為は、幼少期までだ。それでも、私たちが心にとどめておかなければならないのは、例え、その時は、許すことができても、人によっては、一生その傷を抱えて生きることになるということは、忘れてはならないことだと思う。
そういったことも踏まえ、自己満にはなるが、こうして自分史として綴ることが、私と似たような状況に陥り、抜け出せなくなっている人の目にとまってくれたら…。楽になってもらえたら…という思いを持ち、今まで綴ってきた。そして、当事者だけではなく、発達障害や精神医療に携わる医療従事者や福祉関係者に限らず、全ての人たちに気がついて欲しいことでもある案件だったからだ。
気がついて欲しいというのは、私のエゴになってしまうのだが、障害の有無に限らず、自身を責めることで、その場を治めてきた人たちや、自分の正しさばかりを押し付け、ジャイアンリサイタルばりの思想を押し付けているような人たち、どちらの方向にも、気がついてもらうことで、解決される物事のほうが実は多いんじゃないかと思ったりもするからだ。外側の問題のほうがより複雑だからこそ、当事者自身の本当の問題というより、本人の〝苦しみ〟に気づきづらいようにも思うからだ。
それはどんなことかというと〝同調圧力〟や〝イジメ〟などといったことは、よくある事として捉えられがちだが、人が思ってもみない些細なことから、人は暗闇の住人になってしまうことがあるからだ。
ただ、どの次元で自分が生きやすいかのかは、その人次第になる。必ずしもお日様の下だから生きやすいともいえない人たちも存在するワケで…。
世界は広いし、現代だからこそ、マイノリティな人でも生きやすい場所はいくらでもあるだろうし、棲みわけることができるはずだと思うのだが、何故、人は、同じ世界線でその場所を奪い合いながら〝生きる〟ことを望むのだろうか?
それって、結局〝権威〟や〝所有感〟といった、自身の中にある〝満たされない思い〟を満たすためなんじゃないのだろうか?と思うのだ。
私たちはいずれ、すべてを手放し死に行く民なのに、何故、自身では抱えきれないものを求めてしまうのだろうか? ということに私は気づかされることになった。今現在、生きているからこそ〝死〟というゴールを目指し生きているという現実と向き合うことが嫌だからこその行為なのではないのだろうか? だからこそ、この世に生まれ、これまでに得た【カード】を使い切ることばかりに注視した生き方を選んでしまいがちなのだろうと思ったりもする。
プレミアのカードを持っていても、使い方を間違えればただの紙切れ同然なのだ。そして、社会の価値観が変わってしまうことで、これまでに得たもの全てが、ただのゴミになってしまうこともあることに気づけないまま、その〝価値〟を変えないためのデキレースを続けている人たちは、現世だけでなく将来的にも持ち越すためなんだろうなぁと思うようになった。
そんな無駄な戦いも、その人にとっては、とても大切な過程なのことは十分理解しているが、そんな風にわざわざ他者を巻き起こむことなく、自身を満たすことは案外簡単なことで満たされるものなのだが、それを自身でみつけることができない人も多いように思う。それに、価値基準が相対的なモノで自身のプライドを保てている場合の人には、そんな話をしたところで、笑われて終わるだけだろうと思う。
ただ、私が現段階で思うのは、この世に〝輪廻転生〟ということがあるのが真実なのだとしたら、未消化の感情(満たされない思い)を抱えたまま死に逝き、繰り返すことが、永遠に自身の欠片(遺伝子)を残すことにもなるのだろうと思うと、私には腑に落ちた。そのようなことから、自身の取り巻く環境の中で、人を煽ったりネガティブなことに人を巻き込むような人たちの傍からは、一刻も早く離れたほうが望ましいことに気がつくことになった。エンガチョはしてもされても悪いことばかりでもない。
そして、そうした人が、今世の課題をクリアしないことで、同じ課題を抱えたまま輪廻転生していくことになると仮定するならば、それが〝クローン〟でもあると思うし、魂が引き継がれていくことでもあるのだろうと思うにいたっている。ただ〝魂〟の件は、別の路線でも自身の中で温めていることがあるのだが、今はまだ上手く言語化できないので、いずれまた、何かの機会で綴りたいと思う。
こうしたことに気が付くきっかけとなったのは、空海と最澄2人の物語が漫画となった「阿吽」を途中まで読んだことで、気がつくことになったのだが、この漫画を読むまでに、博物館や資料館などを巡ったことが、結果的にその物語にも繋がることになり、それが、私の中で長年燻り続けて一度解決した『死生観』が更にバージョンアップすることにも繋がった。そして、また更に楽になった。何故なら、私は閉鎖病棟へ入院し現在まで、里で苦行を行っていたようなものなことにも気づかされたからだ(苦笑)いや、もう、苦行はお腹いっぱい。だからこそ、新天地を求め移住したというのに…。
〝人〟が癌だったからこそ〝人〟で癒すということ③
熊本から福岡へ移住し半年が過ぎた。
移住して2か月が過ぎたころ、環境の変化や疲れや度重なるトラブルで、再度、大きなてんかん発作からの乖離が起き、見ず知らずの人の前でも人格障害が勃発してしまった。それがきっかけとなり、ストレス過多になると自己逃避するために乖離しやすくなってしまった。しかも、一時期、自身が誰かもわからない状況にもなってしまった。何度も乖離したことはあるし、人格障害が起きることはあったのだが、私の場合には、基本的に要所要所は覚えていることが多かった。
ただ、この時は、数日になるが、ある一定の時期の記憶がぶっ飛んでしまい、今まで私のどこかで眠っていた小さな私が表に出て、主人格…(どれも自分なのだが…)というか、現時点の自分が格納され、別人格…というか(いや、だからどれも自分だと思われるのだが…)インナーチャイルドだか過去の私が主人格となっていた数日間は、一部の記憶がない記憶喪失のような状況になってしまっていたようだった。
一応、後日、忘れていた時の自分を思い出すことができたのだが、私の場合、健忘している時のことも、後で引っ張り出せば思い出せることもあるので、演技していると思われてしまうことを懸念していた。
演技性の人格障害だと思われるのが物凄く嫌でたまらなかった。当事者である私自身〝演技〟してるつもりはなく、溢れてしまう感情を抑制しないようにすると、そうなってしまうだけの話なのだが、まだ、私の場合ハッキリと〝人格障害〟と診断されたワケでもないし、私の身に起きている状況がどういうことで起きてしまうのかも、まだハッキリとしていない状況でもあるので、情報を出したくても出せない。無念だ。
ただ、1つだけ、いえることは、多重に人格が表出しても、私の場合、それぞれの人格に〝名前がない〟ということだけは、ハッキリとわかった。
人格障害が起き、短い時間になるが健忘する時があることを自覚したことで、更なる工夫をしたり、訪問看護を24時間連絡がとれる訪問看護ステーションに切り替えることにし、息子と再度、離れて暮らすことになり、息子はグループホームに入所したことで、私は実質1人暮らしの状態になってしまった。そうなったことで、思春期時代に浅かった傷がより深くなる傷となった〝喪失体験〟を思い出すことになってしまった。
私は、男性不振ではない。でも、どうやら、男性不振かレズビアンかバイセクシャルだと思われているのではないのだろうか…と思うようになった。なぜかというと、自分が心を許している人以外の異性とは、なるだけ二人きりになることを避けていたからだ。
それを回避するために、息子が自宅にいる時に、訪問してもらうようにしたり、担当を女性の方にお願いしたり、特に自宅に訪問する時は、男性と二人きりにならないように配慮をお願いしていた。
ただ、正直言うと、身体に触れられることに関しては、実は男女関係はなく、実は苦手だ。決して誰でもいいというわけではない。同姓で気心しれている人だからといって、ハグは受け入れることができも、本当は苦手だ。
なので、私からハグを求めたり、握手を求めることは、実は稀なことで、特別な存在になる。
なので、ハグを受け入れられる人は、結構特別だったりする。自分の息子でさえ、大人になってしまったので、正直受け入れられないのに…(苦笑)
世の中にはフリーハグなるものがあるようだが、全人類がそれを受け入れられる又は受け入れることが〝望ましい〟という考えも多様化して欲しいなと思う。苦手な人もいるから、もし、この後〝私に拒否られても勝手に傷ついたりしないでね。〟と付け加えておく。
ということで、12年前くらいからは、なるだけ人に触れることや触れられることを避けてきた。というのも、実際、答え合わせをしたことはないのだが、私に触れた人や触れられた人の無意識レベルの感情を私自身が感じてしまったり、時々、なんらかのビジョンがみえることがあることで、余計なおせっかいをしてしまうことになりがちだったからだ。
人によっては、後ろの人に話しかけられるような感覚に陥ることもあるので、そういった意識に引っ張られないようにするには、ある程度の距離感が必要で、それなりに意識をしっかり持っておかないと、相手を戸惑わせてしまうことになってしまうからでもあった。でも、そういったことを伝えることで、私自身がまるで特殊能力がある人のように思われてしまうことも、なんだか嫌で話せなかった。
そして、私は無自覚に伝えてしまう癖があるので、そういった意味でも心身ともに距離感を意識してとることが必要だったからでもあったからなのだが、そういった細かい事情を話さなかったことが、別の意味で、誤解されてしまうことになっているのかもしれないと思うようになったものの、そこまで話す必要があるのだろうか…という思いもあって、ずっと言えないでいた。
ただ、できれば、男性ではなく、女性のスタッフにお願いしたいといった配慮をお願いしても、実質、その意味を理解してもらえなければ、配慮してもらえないのだと思い、誰もがいつかは通る道といわれる『ロストバージン』の出来事を必然的に話さざるを得なくなった。
当時の『喪失体験』を話している時、脳内では青白い動画がフラッシュバックしつつ話すことになった。そして、そのことを書き綴っている今、当時を思い出すとなぜか、身体が少しだけガクガクとしてしまう。誰しもが通る道なのだから…と長年自分に言い聞かせてきたのだが、自分のことを守れなかった自分を後悔していたことも思い出してしまい虚しさでいっぱいにもなるからだとも思う。
当時は高校生だったので、一応、男性と二人きりになるということがどういうことなのかということも、ある程度の予測はついていたのだが、まさか、まだ出会って間もない人で〝好き〟になれるかどうかわからない相手に、その日に全てを奪われてしまう『喪失体験』をするなんていう想像はできていなかった。
なんかオカシイ…と思った途中で、逃げることはできたのに、私は逃げることができなかった。その時代は携帯電話もなく、その人の家は街とは違い、街からちょっと外れた場所にあって、土地勘もなかったこともあり、どうしていいのかわかららず逃げることができなかった。
後、嫌がれば途中でやめてもらえるといった甘い考えもあったのだろうと思う。抵抗はしたが、結局受け入れてしまった。ただ、ただ、怖くて痛かったことしか思い出せない。
事が全部終わった後、相手の人から「まさか本当に初めて」だとは思わなかったといわれたことは、悲しくも私の中で刺さったままだ。そして、自宅に戻るまで、実は放心状態だったのだけれども、平然をよそおっていた。それでも、友だちにはバレていただろうと思う。そして、自宅に帰り、今日のことが母にばれたらどうしようという思いでいっぱいだった。というか、なぜ、親にばれることを恐れていたのかも、今の私からすれば、おかしな母子関係だなと思うに至っている。
その当時の私は、性的な体験に興味はあっても、それらを受け入れられるメンタルではなかったのに、自分が選んだことだから…と、その出来事を受け入れてしまったことで、自身が汚れてしまったように感じた。でも、それは、いずれは、必ず通ることになる経験だが、私の場合には、まだ〝時は満ちていなかった〟のだと思う。
誰しもが通る道だとしても、誰とその道を互いの同意の元で通るのかということは大切にする必要があったことを、30年の時を経て気がつくことになった。〝そんなこともあったなぁ…〟なんて、笑い話にして良き思い出として振り返ることができる日がくるのだろうか…? それこそ過ぎてみなければわからない。
大人になった今、当時を振り返ってみると、実質レイプをされ『ロストバージン』をしたようなものになる。それでも、逃げることはできたのに、私は逃げることができず、受け入れてしまったのだから、それは『同意』をしたことと同じことなのだと自分を言い聞かせていた。
でも、それは、私の価値観が間違っていたことに今更だが気がつくことにもなったところで、遅い。それが私の人生を狂わせてしまう要因にもなってしまっていたなんて…ことにも気づかされたことで、決して自分だけが間違っていたワケではなかったことに気がつけたことは、良かったのだが、こういったことに気がつくまでに、長い年月がかかったからこそ虚しい気持ちでいっぱいになる。
そして、もしかしたら、周囲の人たちが、よかれとおもって私に体験をさせたのかも…なんていった憶測をしてしまうことになった。それでも、その当時、その場へ行くことをとめてくれた友だちもいたのに、友だちの忠告をあまり深刻に受け止められなかった自分も歯がゆく思うことになった。
結果的には『喪失体験』を話せたことで、私にとっては、大きな1歩を踏み出すことができたと思われるが、結果的に数日寝込むことになった。そのことは、私の中では〝些細〟なことだと思っていたのに、実は〝大きな古傷〟だったことに気がつくほかなかったからだ。そして、最悪だったのは、その後に、付き合った人に言われた一言が、その古傷を深くえぐり『セカンドレイプ』をされたようなものだったことにも気づくことになり、更なる追い打ちとなった。
「もし、千晴にとって俺が初めての人だったら、別れなかったと思う」
その当時の彼は、何を思ってそんな話を私にしたのだろうか? 今となっては意味がわからないのだが、今思うと、まぢ酷い人(使徒)だったなぁと思う。今そんなことを言われたら、その場を立ち去るだけじゃなく、縁を切り、私の現実世界では死んだ人同然の幽霊部員になる。エンガチョ案件だ。
ただ、その当時の私は、自分を責めることしかできていななかった。人を好きになることや感情コントロールが上手にできていなかったこともあり、当時、それなりに好きだった彼氏に言われたその言葉は、なんというか、自尊心をぐちゃぐちゃにされただけでなく、自分自身を責め続ける人生への扉を開くことになってしまったように思う。
お陰で、どんな自分でも、大切にしてくれる人を探すようなことになったようにも思う。おそらく、それは、愛されているということに気がつけないまま、自分が大切にしている〝何か〟を相手に差し出すことで〝与えて〟もらえるといった誤学習となってしまうことにもなったのだろうとも思う。
だからこそ、そんな時、両親以外の大人に、私のした体験を話すことが必要だったように思うし、確かに誰しも通る道だとしても、本当はしなくてもよかった体験だったということを教えてもらえたり、怖くて嫌だった気持ちを感じることのほうが自然なことなのだと教えてもらえていたら、その後の人生は、もう少し違ったものになったのではないのだろうか…とも思う。
あの『喪失体験』は、青春時代の酸っぱくて苦い良き思い出でもなく、悪しき思い出だったということや、自己防衛の方法や、万が一何か起きた時にどういった対処をすればいいのかも含めて、教えてもらう必要が私にはあったように思う。
何故なら、その当時の私は、それなりの知識はあって、身体も大人になっていても、心理面では、同年代の子たちよりも幼かっただろうと思うからだ。
学校でもそれなりの性教育はあったと記憶しているが、だからといって個別に突っ込んだ話はされないし、あの時代だったからこそ、学校の先生の話に聞く耳を持てていなかっただろうとも思うのだ。
本当は、怖くて罪悪感を抱えていたのに、その苦しみから逃れるには〝乖離〟するほかなかったのだろうと思う。そうすることで感情に蓋をし、平然をよそおっていたのだろうとも思う。
私が『喪失体験』を笑い飛ばせるくらいの人柄だったら、また違った〝別次元〟の〝今〟を生きているように思う。それが、手にとるようにわかるからこそ、過去へ戻り、やり直すことができない〝今〟を受けいれるほかない。
とにかく、大人になれば自然に手に入れることができる現実は〝待つ〟だけで手にいれられることもあるのだが、過ぎてしまった時間を取り戻すことができないからこそ、思春期時代にしか経験できない時間を、ただやり過ごしてしまうなんて勿体ないことなんだよ。とだけ、四捨五入すればアラフィフなオバサンから若い人たちへのお節介なひと言を残しておこうと思う。
〝人〟が癌だったからこそ〝人〟で癒すということ④
指先にできたささくれのように思っていた体験が、実は私を蝕むことにもなっていたなんて思いもよらなかったというより、薄々は感じていても、どこか蔑ろにしていたことが吐き出せたのは結果的に良かったのかもしれない。それでも、その時々知り合って仲良くなった人たちに、その時に感じたありのままの気持ちを聞いてもらったことはあっても、悲しい思い出のはずなのに、誰しも通る体験だということでお終いにし、笑い飛ばしてもらうことで終わっていた。
でも、本当は、物凄く傷ついていて、自分のことを大切にできなかった自分に罪悪感を持っていた。それと、そういったことを自分で気づく前に、誰かに『辛い体験だったね』と味方をしてもらえていたらなんても思う。
ただ、そういった体験を話すことが、癒しに繋がると思っていたが、私の場合には、受け止め方の方向性を間違っていたからこそ、癒されることがなかったのだなぁと今となっては思う。
そして、そういった話を聞いてもらう人も選ぶ必要があったのだということも思い知った。何故なら、性的な体験だからこそ、その体験を話すことは間接的にでも、レイプの現場を見て見ぬふりしているようなことにもなりうるからだ。
20年くらい前のことになるので、当時の法律がどうだったかは、調べていないのでわからないのだが、今現在の法律だと立派な犯罪だったりするのだから、男女共に、決して自分の身体を何かと引き換えに他者に差し出すような轍は残さないほう懸命だと思う。
何故なら、心の底から好きになった人ができた時、必ずその問題が付き纏うことにもなるからだ。
とりあえず、私は性的なトラウマを誰しもが体験する儀式に摩り替えるという誤学習をしたまま、社会人になってしまった。それでも、私が今現在、こうしていられるのは、その時々で出会った人たちのお陰で癒されたことが沢山あったからだ。
ただ、私の場合、他人軸で生きていた時間が長すぎたことで、2次的な問題も起きてしまうことになった。それらを吐き出さなければいけない時、私は人格障害が起きてしまっていたようにも思う。
安全で安心できる居心地のいい場所があり、誰かがいて安定するからこそ、私自身に受け入れられる空間ができる。
自身を保つために、真空パック状態にしていたからこそ、パンドラの箱に鍵を突っ込んでも空けられなかったのに、その状態から解放されることで、過去のどの時期かに格納してしまっただろう物事が、パンドラの箱がパカっと開き、思わぬことから、過去とリンクする現象が飛び出てしまうキッカケになっているのだろうと思われる。
そして、もしかしたら、私自身、無意識レベルで試し行動を行っているのかもしれない。それでも、そんな自分を抑制してしまったら、元の木阿弥だ。だからこそ、私の中で渦巻いていたアレコレを、吐き出して私の身に起こる現象を私の周囲にいる人たちにみてもらうほかない。それでも、耐性ができてしまうと、せっかく開けるようになった蓋が閉じてしまうことも感じている。
ただ、何度目かの自覚ある〝乖離〟を体験して思うのは、自分自身で貼ったお札の場合には、時が満ちれば、自然に開き昇華されることもあるのだが、誰かが意図的に貼ってしまったお札ほど、その人自身を頑なにすることもあるのだなとも思ったりもする。だからこそ、自分以外の誰かを巻き込む手段でしか、自己改革を起こせなくなってしまうのだろうとも思ったりもする。
薬剤に限らず、過ぎれば毒になってしまうこともあるように、メンタルケアの場合でも、自身では思いもよらない状態になってしまうこともある。副作用はどんなことでも起きるということを案外気がつけてない人が多い。
そういった面では医学的な知見や科学的なデータが必要な場合もある。ただ、ただ、それだけでも、解決できない人たちもいるのも確かだ。なぜならば、私自身がその1人だという自覚もしているからなのだが、長い年月をかけ、やっとイマココの状況で、先はみえていない。
それでも、思春期時代から彷徨ってしまうことになった白夜の迷路からは抜け出すことはできたのだから、良かったように思う。そして、何より、何かがキッカケで乖離するかもしれない危なっかしい自分自身と共に、親以外の人たちに頼りながら、なんとか新天地で暮らせているのだし。不完全な私のままでも、そんな自分が愛おしくて大切なのだと思えるようになれただけでも十分だ。
そんな些細な幸せを嚙みしめる日々も、満更悪くない。何もかも手に入れたかった日々から一転し、私にとって大切なことを手放したり、諦めなければなければいけない日々のどちらも〝葛藤〟していたのは同じだった。
それは、私自身にある価値観によって生み出されているからかもしれない。
未来から流れてくる情報を、取りこぼさないように生きることは、もう御終いにしたい。自身の好きなことに関しては貫きたい。それでも、絶対、矛盾することに遭遇してしまうだろうとも思う。
ただ、1つだけ心にとどめておきたいことは、どんな明日が待っていても、私にとって大切なことは忘れずに守れる自分で在りたいなと思う。
完
※最後まで読んでくださった皆様。ありがとうございました。