鬱々を徒然と
鬱々な日々を綴る
noteで『創作大賞』という企画が始まった。私もチャレンジしてみることにした。それは何故かって…
日々降って湧いて澱のように溜まっていくナニガシカが酷すぎるからだ。それらを言語化することが今の私には必要だと思って。
ただ、なかなか続けられない私には〝動機〟が必要だと思い、エッセイとして綴ってみようと思うにいたった。1万字。鬱々としている心模様を言語化してみるのも面白いのかもと思って。
思春期時代に、誰にも打ち明けられないことや湧き上がってくるネガティブな思いを詩にしたりして、日記に書き留めていたように、50歳を越え、ある程度自分という〝個体〟が仕上がった感じもするし。
自分という存在に疑問を感じ、心がどこにも納まることなく彷徨っていた青い時代の頃とは一味違った、ネガティブな感情をエッセイとして綴っていく。一人問答なエッセイ。
誰か1人にでも、引っかかって共感してくれたり気持ちが解れることに繋がってくれたら尚嬉しい。
2024年4月の終わりに…
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真夜中のドアに手をかける
夜中に目が覚めた。部屋の空気を入れ替えようと、勝手口のドアを開いて、部屋に戻ることなくそのまま座り込んで足を投げ出す。
外はまだ夜明け前だがしらけている。屋根越しに見える遠くの山には霧がかかりはじめ、少しずつ雨雲も近づき、耳をすませばやっとわかるくらい小さな音がパラパラと聞こえる。どうやら雨のよう。
後3日もすれば5月。少し早い五月雨といってもいいのかな? そんなことを思いながら、溜息をついた。生きるのが辛すぎて。
20240427_曇りのち晴れ
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サンクチュアリ
勝手口のドアが〝どこでもドア〟で、ダイニングテーブルの引き出しが〝タイムマシン〟だったら、時空を越えて行きたい場所に行けるのに…。なんて思う事で夜な夜な現実逃避をする時がある。
そういえば、去年の今頃も夜な夜な起きては夜空を眺めていたっけ。
月がのぼる夜も雨で土砂降りの日も…。そして、1年後の今日も同じ様に真夜中にドアを開き、頭を空っぽにして空を見上げている。
私は、傍から見れば、自分自身からおおっぴろげに心を開いているように思われているが、正直言って本当の意味では、好き好んでそうしているワケではない。半分はそうだが、後半分は仕方なく〝おおっぴろげ〟にするほかない状況で〝こじ開けられた〟ようなモノという感覚でいる。
その状況は、性的搾取と同じように捉えてもいいように思うのだがどうだろう? そうなれば、身体的ではないが、心も集団レイプとセカンドレイプにあってしまった事故のようなものと同じように思っている。
それくらい〝心〟という領域を〝聖域〟のように扱ってはもらえないものだろうか? 例え、両者に悪意はなかっとしても。
20240430_曇り
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イレモノ
身体は〝イレモノ〟だという考え方があることは知っている。〝魂〟という言葉も知っている。それでも、どちらも不確かなものだ。
それらが語られる時、知っている人が語ることと、理解している人が語ることの内容は同じでも、感覚的に中身のない言葉の羅列のように感じてしまうのは、どうしても前者の方ではないかと思う。
上手に化けの皮を被り〝本物のように振舞える〟というより、なりきって演じているのかもしれない。自分ではない〝成りたい自分〟の着ぐるみを着て演じているような感じ。
でも、まぁそうやって、人は成長していくものなのかもしれない。毎日〝自分〟を繰り返し練習する。オカシナ話に感じるが〝あるがままの自分〟ではどうしても周囲と諍いが起きやすくなるものだし。
ただ、今日この日まで〝イレモノ〟という言葉が何となく嫌だったのだが〝理想の自分の着ぐるみ〟を着て、日々練習をしているという意味で捉えるなら〝イレモノ〟という言葉も似たようなものだと思うと腑に落ち、不思議と嫌な気持ちが失せた。
まぁ、それでもいいのかも…なんて。大抵の人が潜在的に求めている行為に気づけないまま、顕在意識で否定して生きているよう思うから。
20240501_曇り時々雨
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理想が具現化されたとて
繰り返し自分を練習したことで、不自然に思える行動も自然な行動に変えることに成功したことはいくつかある。
ただ、環境によっては、今までできていたことも全く出来なくなってしまうこともあった。そういう時は、知らず知らずのうちに無理をしている自分にも気がつけていない状況であることさえ忘れてしまう。
〝出来ていたことが出来なくなってしまう〟ということは、誰しもあることだと思うが、それが著しく全くできなくなってしまうのが〝障害〟があるということだと私は体感している。それは〝個性〟とは呼べないんじゃなかろうか?
数日休み、環境を整えれば再度出来るようになるのだが、元に戻すには、多少なりとも時間がかかってしまう。
環境の変化に応じ、負荷がかかることが全くない人なんていないように思うが、気にならない程度で1晩寝むれば回復できる身体でいられることが、容易に出来た若い頃とは違い、年を重ね、無理がきかなくなってしまうことを痛感しはじめた頃には、私の場合、すでに慢性化してしまっていた。
想像の世界での私は、どんなことも自由に描けるが、自身のこだわりを捨てることなくそれらを具現化するには、プライスレスすぎるお金が必要になる。
とどのつまり、人に関しては〝選ばれなければ選べばいい〟ということは出来ないし、他にもお金ではどうにもならないことはたくさんあるからこそ、現在、生活保護受給者の私にとって全てのことが〝こだわり〟を捨て本当に選びたいモノ、人、場所を選べない状況で生きなければならない。
この意味の深さを気がついてくれる人なんて存在するのだろうか?
20240502_曇
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波がきた
4月の終わり頃からなんとなく調子が悪かった。不具合が起こるのは決まって生理前後。PMS(月経前症候群 以下略)といわれるやつだ。そして、私は更年期真最中でもある。
久しぶりに、時折訪れる〝鬱の大波〟に飲み込まれそうになった。久々だった。朝目が覚めると涙が溢れてくる事態。
意識では「大丈夫」とか「仕方がない」と思ってあきらめていても、身体は嫌がっていたみたいだ。
最近、本当に〝わがままボディ〟ってやつになっている。先人の人たちの言葉を借りれば「体は正直」というヤツ。
思春期時代の推しB'zの稲葉さんの言葉を借りるとすれば『1ミリのズレも嫌なセコイヤツ』ww でも〝セコイやつ〟と思われようが〝我儘〟と言われようが、私は今の自分が結構気に入っているからそれでいい。やっとダメな自分も受けいれ〝好き〟になれたのだし。
20240503_晴
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初めての博多どんたく
〝鬱の大波〟をなんとか越えた。頓服は使うことはなく。それでも、一番親しい年上の友人に電話で話を聞いてもらったり、夜中にチャット形式で相談できる場所を頼った。
チャット形式で長々と自分の悩みを書き綴った。答えようもない相談だとわかってはいたが、どうにもできない思いを第3者へ吐き出せたことはよかったようだ。なんの解決策もないありきたりな返答だったが、妙に胸に響いた。
夜中だったことや睡眠不足に加え、泣きながらチャットをしていたのもあり、途中寝落ちをしていた。それでも、朝目が覚めると涙がこぼれてしまい、再びどうしようもない思いで胸がいっぱいなったので、ふと母親に電話をかけたのだ。
電話に出た母の声は、いつもの声とは違い調子が悪そうだった。そんな様子に気がついていたのにも関わらず、私は自分のことだけを一方的に話した。母は自身の体調のことは話すことなく、私の話を聞いてくれた。
考えてみると、私は思春期の頃まで、クラスの友だちや学校の先生に、話せないことや不思議に思うことを母に話していたような気がする。そうやって、なんとなくぼんやりと浮かび上がってくる言葉にならない感情を窘めていたのかもしれない。母に話をしながら、同時にそんなことも考えていた。
ある程度時間が過ぎた頃、母に体調が悪くて寝ていたことを告げられ
「電話を切っても良か?」
といわれたたのに対し、中途半端ではあったが
「ちゃんと病院へ行って。お母さんが今いなくなったら困る!」
と泣きじゃくりながら子どものように言い放ち電話を切った。
それからあわてて親戚の家に電話をし『母の様子を見に行って欲しい』とお願いをした。その後、親戚から折り返し『落ち着いているから大丈夫』という連絡がはいった。正直ほっとした。そして、久しぶりに親戚とも色々な話ができたことが良かったように思う。雑談は最強だ。
その件があったことで、自身が日々理不尽に感じていることが多少払拭されたようだ。良くわからないが胸のつかえがとれたように思う。それでも、完全に元気になれたワケではないが、なんとか持ち直したという感じ。
多少メンタルが持ち直した翌日、5月3・4日の2日間で開催された『博多どんたく』を観に行った。どんたくの時は天気に恵まれないことが多いとのことだったが、そんな話が嘘のように2日間とも晴天に恵まれた。珍しいことらしい。
人混みが苦手な私には〝お祭り〟のような不特定多数の人が、集う場所は敷居が高い。ただ、興味・関心が高ければ、人混みも気にならなくなる。そうした特性を活かして、博多ガイドの会主催のイベントに参加した。
2日間にわけて設定されたコースで『博多どんたく』を見学し、説明を聴きながら街ぶらをした。どうやら、応募者が多数だったそうで、今回参加できた人はラッキーだったよう。
人で混雑するお祭りは苦手だったが、心の底から楽しいと思えたくらい最高だった。しかも、一日で観られる光景を一度に見ることは、タイミング次第だとのことで、コンプリートし〝縁起物〟もお受けすることができた。何故だか〝天の計らい〟のようなことだけに関してはかなり運がいいのって何なんだww
お祭りの意味や福岡でよく耳にする固有名詞の意味がやっと理解できたこと、そして、笠鉾をくぐると無病息災をお受けすることができるお祭りだとわかったのが私にはたまらなかった。
また福岡が好きになってしまった。でも、もてなす側の地元の人たちは、大変だろうけれど。感謝しかない。ポイ活は苦手だが〝生きててよかったポイント〟がまた増えた。
20240504_晴天
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意味づけ
〝意味づけ〟せずとも生きやすい人柄だったら、私はサバイバルライフをせずとも良かったのかもしれない。そんな風に生きれたらきっと楽だっただろうなと心底思う。
白黒思考だからなのか、考えすぎてたからなのか…。知らず知らず物心ついた頃から一人問答していたことが〝哲学〟といわれるものであるなら〝哲学〟していただけだったのだと思う。
私一人の世界なら、自分のことだけを思い過ごせばいい。でも、そうじゃない。同じ地球に住む存在だからこそ、ミクロとかマクロとか…数値でも表せないみえない部分まで解像度をあげ、心をよせることが大切なのではないかと思うのだ。
だからこそ、私は私という〝イレモノ〟で現世を楽しむためにどうしたらいいのかを考え、ネガティブな思いを打ち消すというより、自分を窘めるために〝哲学〟していただけなのだろうとも思う。
別の言葉で言い換えるならば、どこかの地点でかけられた呪いを解くべく、呪文を自らで紡いでいたようなものだ。あーまた、なんか、腑に落ちた。と同時に…
『 日本の教育は〝概念〟から先に覚えさせやがるくせに
なんで生きる上で〝意味づけなんか関係ない〟とかいうんだ!
〝概念〟は意味づけのようなものじゃんよ!ぷんすか。』
といった〝怒り〟が泡となって浮かび上がり消滅した。はースッキリ。数年前に言われて刺さったままだった事がこれで一件落着。
20240509_雲一つない空な天気
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アーシング
私は野生児みたいに育ったので、時折、自分の心身に溜まっているだろうものを解き放つべく、自然に触れることにしている。
海へいったり、お花を愛でたり、森の中を歩いたり…。時折、近所の散歩をしている途中でワンコを触らせてもらったり、地域ネコを触ったりして、モフモフ活動でも癒されている。
私の地元は小さな海辺の町。〝ド〟とか〝THE〟がつくような田舎なので、子どもの頃から、海でも山でも遊んでいた私にとっては、当たり前のことだった。成長とともにそういった遊びは忘れてしまっていた。
大人になり、処方されたお薬の副作用をきちんと読んでいなかったことで、日光アレルギーにもなってしまった。だからなるだけ防備をしながら楽しんでいる。アレルギーになったからって太陽の日差しは嫌いではないから。
心身ともに参ってしまい、急性期から回復期に向かう時、お薬やカウンセリングなどでも浮上できない時があるので、そういう時は海に行く。
ただ目の前に広がる景色を〝ぼーっ〟と眺めるだけではなく、砂浜で裸足になり歩いたり海に足を浸したり、海の生物を見つけては子どもの頃のようにはしゃいでいる。
数時間ほど一人で遊んでいれば、憑き物がとれたように元気になる。不思議と。
このことに気がついたのは、知人や友だちの中にスピリチュアルカウンセラーがいたことや、その頃は整体などへ通院したり、指導を受けていた時期もあり、その時に教えていただいた。それらを元に自身の状態に応じ、カスタマイズしながら、自己治療の一貫で取り組んでいる。
余暇もかねた遠出は〝日帰り旅行〟になるのがいい。生保の私でも〝非日常〟な時間を楽しめるとすごく〝解放〟された気がするからだ。
あまりにも空が綺麗だった日、自宅にいるのが勿体なくて、久しぶりに公共交通機関を使い『虹の松原』へいった。
現地へついてすぐ、誰もいない海に向い、照れくさそうに
「ただいま」
といってみた。返事は波の音。でも悪くなかった。
20240510_今日も雲一つない空
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弱くもなければ強くもない
今日の題名はどこかで聴いたことのあるフレーズ。私が子どもの頃に放送されていたNHKのアニメ番組スプーンオバサンの主題歌「夢色のスプーン」の歌詞の一節をちょっと変えた題名。
嫌、ホント、私の今の心身の状況は〝A・R・E〟じゃなくて〝それ〟だ。
1度目のドロップアウト後から、本当に身体が弱くなった。嫌、違う。多分弱くなったわけではなく、自分で思っていた程、そこまで〝強かったわけではなかった〟というほうがあっているようにも思う。
子どもの頃、身体のアチコチを痛がったり、なんとなく〝具合が悪い〟と両親にいっても窘められたり、怒られたことを憶えている。明らかに具合が悪い時は、病院へ連れていってもらってはいたが、母は、私のことを〝鈍感な子〟だと思い込んでいたようで、わが子のメンタルはひ弱で、我慢強くない子だと思われていたんじゃないかと思われる。
今の時代で今の自分だからこそ、どこか体調が悪かったのは、自分が元々もっている〝感覚過敏〟や〝感情コントロールの不具合〟そして〝コミュニケーション障害(環境も含めた意味で)〟から巻き起こっていたメンタルの不具合とホルモンバランスのせいだったのではないかと思うに至っている。
何故なら、身体の不調を訴えはじめた学童期から現在までの心身の不調が起きる時が似ており、ホルモンバランスを疑い始めた頃から、どんな薬を飲もうが生理前後で起こりやすいことを体感しているからだ。
出産後断乳をしても、微量の乳汁分泌が続いていたことから婦人科で検査をしプロラクチン血症だとわかった。プロラクチンの値が標準よりも数値があがっていたことでMRIを撮り脳下垂体腫瘍が疑われたが、最終的に脳下垂体に4ミリの穴が開いているということだった。
大事にはいたらなかったが、脳下垂体の大きさは10ミリ程度。そんな場所に4ミリの穴が開いているらしいのだけど、とりあえず、栄養不足ではない限り生理が大幅に遅れたことがあまりないのだ。
いつからその穴が開いていたのかはわからないので、なんともいいようがないのだが、これが産まれた頃からで、もし、穴が開いていない脳下垂体だったなら、何か違ったのだろうか?
20240513_曇りのち晴れ
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私のこと
5000字を越えた今更になるが、やっと気がついたので…。私の自己紹介を。
今年の7月で51歳。〇イチ(バツイチともいう)。知的障害を伴う自閉スペクトラム症の子どもの保護者でもあり、私自身これまで様々な障害が疑われたが、現在の時点では発達障害(ADHD不注意優性)+心因性非てんかん性障害(PNES)。ただ〝人格障害〟に発展してしまうので厄介。
子どもの障害が判明したことから、自身も長年感じていた〝生きづらさの正体〟が〝発達障害〟ではないか?と疑問に感じたことから、精神科の扉を叩くこととなった。
離婚をし1年が経った頃、自身のキャパを越えてしまったようで、精神科閉鎖病棟へ緊急入院をすることになった。当時は34歳。入院中に35歳を迎えた。この時が大きな1度目の人生の〝転換期〟であったと思う。今から15年前のことになる。
まぁ、私の場合、発達障害の特性だけではなく、それとは別な〝精神症状〟が現れていたが、真正面から向き合えないまま長年過ごしてしまった。やっと向き合えるようになれたのは45歳くらいの頃。
精神科のカリスマといわれた仙人みたいな先生にも診ていただいた時期もあったし、一時期的に〝寛解した〟と思っても、住環境があっていなかったり、様々なストレスが重なりその日で解消されないと〝痙攣発作〟が起こるということを繰り返し現在に至っている。
ただ、福岡に移住してから〝心因性非てんかん性障害(PNES)〟の症状となる痙攣が起きる場面が増えてしまった。昔は特定の人の前だけでしか症状は出なかったのだが、最近は油断をすると抑えることが難しくなった。
そうなると、症状が重くなったと思われるかもしれないが、高校生の頃に発症し約30年くらい付き合っている私としては、症状が重くなったというより、人前で昼夜関係なく表に出せるようになったのは悪いことでもないように思っている。
何故なら、症状を出さないまま抑制することは、パンドラの箱にお札を貼ってしまうことのように思うからだ。どこかの時点でできた膿を吐き出さないことで、更に拗れてしまったように思うからだ。
とりあえず、今の所大きな痙攣発作は起きても、それから人格障害は起きていない。ただ、私の場合、人格障害が現れる時は〝健忘型〟ではない。ほぼ自身の状態も周囲の状況もなんとなく覚えている。
記憶があるからこそ〝演技〟と思われてしまうのかも…なんてことも思っている。もし、仮にそれが演技と同等なら、今更だけれど俳優になれないだろうか?
と、まぁ、『私のこと』はこんなとこ。そして、本日、福岡に在住して2度目の引っ越し。引越が一番負担になると精神科の先生に太鼓判をおされているけれど、制度上仕方がない。超絶苦手な役所等での住所変更手続きのてんこ盛りチャレンジも待っている…(涙)
20240515_今日もいい天気
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そろそろ1万字
なんだか、あっという間に5月中旬になっており、引っ越しも順調に着実に進んでいる。
で、今の所、先月末に不調に陥ったメンタルに関しては普通に戻った。ただ、身体は〝元気〟とはいえない感じ。寒暖差も激しいからか1日で完全には回復できてはいない状況だ。
私の場合、良い事・悪い事が同時多発的に起こってしまうことが多いのも、ストレスになっているのだろうと思う。何も考えずにいられる日がないに等しい。そんな日々がはじまったのはいつ頃だっただろうか?。
だからか、人様からみれば、私は生き急いでいるようにみえていたかもしれない。私は全くそんなつもりはなく、ちょっと先の未来を見据え日々を暮らしていたら、必然的にそうせざるを得なかっただけだ。
もしかしたら、自身の持つ発達障害の特性がそうさせているのかもなんてことを思ったこともあったが、私の場合はそれだけではないと思うにいたっている。
何かに突き動かされるように行動した結果、現状の私で暮せているのは、良かったことのほうが多い。私や周囲、全ての人が〝幸せ〟になったのか?と問われたら〝そうです〟とはとてもいえないが、自分だけのことを考えれば、今の状況は〝良好〟といえるように思う。
鬱々とした気持ちを最速で解消すべく、浮かび上がってくる言の葉を綴りはじめて、そろそろ1万字が見えてきた。あと少し。年に数度訪れるネガティブキャンペーンも一旦店じまい。
また、そういう日々が始まればネガティブキャンペーンのシーズン②として言語化しようと思う。
その時には、また〝新しい私〟で届けられたらいいな。
20240516_快晴だけど風強し
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〝おわり〟だけど〝おわり〟じゃない
4月の終わりにやってきた鬱襲来。鬱の波乗りを何度もしてきたけれど、その時々の状況によっては、上手く乗りきれないこともある。
ただ、波に飲み込まれ、底をみたことがあるからこそ、飲み込まれた時の自分なりの浮かび方もわかるワケで…。浮かべない時の方法だってあって、それ以上でも以下でもない場所で、ただ待つことも大事なことを知ったことが強味になっているのかもしれない。
自分のこれまでのことを1万字に納められるほど、短い情報量の中で書き留められるような文才はないので、ここ最近の状態から過去データを呼び起こしながら綴ってみた。
お陰で、過去データを書き換える作業からのアップデートも行えたのは良かった。頭の中で一人問答し、ぐるぐると考えあぐねるより、視覚化することが私にとってはとても必要なことだということを改めて体感できたことは本当によかったなと思う。
今回、鬱の引き金になった原因は、寒暖差が激しいことや引越しの準備があったからだけではない。
実は2件個人訴訟を抱えていた。3年前からどこに相談しても解決できなかったことを各相談機関へ知恵を借りながら、調査と手続き、訴訟に関する資料の作成を全部自分で行った。判決までに約半年かかった。棄却される前提で行ったが、問題を公に顕在化したことで、第3者へ問いかけることはできたように思う。
私は本来、負けず嫌いの体質で、幼い頃はやり通すことができない体質だった。それは、最近通院しはじめた病院へ提出した9冊の通知表の中に書かれている。通知表の保護者からの欄に
「最後までやり遂げられる人になって欲しい」
というようなことが書かれていた。私自身、最後までやり遂げられなかったことがこれまでたくさんあった。負けても大丈夫だった。ただ、自分の信念を曲げることなく、最後までやり遂げることはできた。完璧ではないけれど。
そして、この1万字のエッセイも…。
シーズン①オワリ②へ続く
20240517_
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アトガキ
このエッセイを綴っている最後の頃、昔、仕事で1万字を超える意見書みたいな書類を作成したことを旧Twitterで呟いたことを思い出した。
その当時、SNS上で仲良くしていた人たちが、その〝つぶやき〟をみてなのか〝1万字なんてなんじゃないよね〟って雑談していらしたのを目にしたことを思い出してしまった。至極、モヤモヤし、とても悲しかった感情までもがフラッシュバックした。
その当時は、思いつかなかったのだが、その方たちの1人は発達障害の当事者、もう1人は編集のプロな人だった。その2人が綴っているブログや書籍を読んだことがあるが、1万字以上綴ることができていても、私の中に良い意味で刺さり、今でも息づいている言葉もなければ、私を突き動かしたものは〝ないに等しい〟ことに気がついた。
現にその当時の私は、こうして自身の中で渦巻いていることを言語化することは得意ではなかったのだし。
だとするなら、私は十分頑張って1万字以上にもできたんだから、スゴイ!と昔の私を褒めてあげて良かったことに気がついた。そうしたことで、昔のネガティブな記憶が昇華されることとなった。言語化することで自分が解放される日が来るなんて…感無量
記憶のごく細部まで…とはいかないが、割と幼少期の頃から記憶していることは多く、それらが歪んだまま記憶されていることもある。その記憶が本当だったかどうかなんて今更検証しようもない。
だからこそ、トラウマを解消するために再度経験することの意味は、良くも悪くもダイレクトに作用する。だから、安易に思い出させてはいけないとも思う。私の場合は仕方がなくやってるだけだけど…。
そんな日々はまだまだ続く…の…?
2024年 風薫る皐月に 千晴
※最後まで読んでくださってありがとうございます
「#創作大賞2024」と「#エッセイ部門」
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