ギワンの行方
液晶画面の時刻と信号の赤色を交互に睨みつけた。気休めにと踏み出せない足を前後に小さく蹴り上げるも、はやる気持ちは変わらない。
『もう一本早い汽車で行くべきだった』
心の中で毒づくも時間は容赦なく刻まれる。SNSで紹介されていた好みの世界観の作品が遠のく気がした。なぜうちの地元はミニシアターの映画になると三ヶ月遅れになるんだ。さらに言えば放映期間も上映回数も短い。タイミングを逃せば観ることすら叶わない。最悪、上映より先にDⅤDのレンタルが早い時もある。それなら映画館よりレンタルで観た方が安いし、ええんちゃうんと家族から片手間で言われた時は急に手を振りほどかれたような疎外感を味わった。
『やっぱ、観たい映画はスクリーンで観たい』
文句ばかり浮かんだ地元事情ではあるが、宣伝で大々的に紹介される映画よりミニシアターの映画やいわゆるB級映画はタイミングによれば、貸し切り状態で鑑賞ができるという機会が多いというのが地元の良い所だと思っている。通ぶりたいわけではないが、自分とスクリーンに描かれていく作品だけしかいない空間というのは内緒で食べる洋菓子店のケーキの一切れに似た感覚に近い。特別な幸福感が頭の中で呼び起こされる。平日の今日ならば、運が良ければそれを享受できるかもしれないという期待とギリギリの駆け込みになるなら次回上映の映画の宣伝は諦めるかという無念さを交えながら、駆け出した時だ。
『なんだあれ』
橋の真ん中で数人が固まって口々に何かを話している。年齢や雰囲気もバラバラで、その場に居合わせたという様子だ。端に停めた車に、スマホのシャッター音。
「なんなんあれ」
「やばない?」
テスト帰りの学生がスマホ越しに川を見ている。その隣の青年もやべーと言いつつスマホに目を落とし、足を止めていた女性は交番へと駆け出していく。
「誰かのいたずらえ?」
「さあ?」
作業着の男性と花柄のエプロンをつけた近所の女性店員が難し気な顔をして首を傾げる。
「爆発するんちゃう?」
「怖いこと言うなや」
身を乗り出す者。早々とその場を立ち去る者。シャッター音を鳴らす者。遠巻きに眺める者。近くに呼びかけに行く者。
誰もが皆、川に目を向けていた。何があるというのか、自らの目も皆と同じ方向へと好奇心のままに引き寄せられる。
川の真ん中には縦に伸ばしたドームのようなものがいた。直径はちょうど2~3メートル、高さは橋の下スレスレぐらいであろうか。灰色で真ん中より上に信号機のランプほどの丸が横並びに二つ。表面もゴムと金属の間のようで、アザラシに似た謎の物体は愛嬌と不気味さが感じられた。
「なんなんあれは」
呼ばれてやって来た警察官は一瞬呆然とするも、顔つきを険しくして、何があるか分からんから離れて、と大きく手を振って小さな人混みを橋の欄干から散らしていった。後ろから誰かが呼んだであろうパトカーのサイレンが近づいてくる。
「とりあえず、色々聞かせてもらうけん。交番の方に来てもらいます」
自分を含めた目撃者達は誘導のまま連れて行かれ、いくつか質問を受けた後、一人、また一人と解放されていく。上映開始時間などとっくに過ぎ、映画への楽しみが衝撃に上塗りされたままでは忍びなく、映画のパンフレットだけ買ったことが自分なりの精一杯の抵抗だった。
謎の物体Xはすぐに夕刊、果ては全国区のニュースの一面を飾った。いたずらではないか、宇宙からのメッセージではないか、専門家、芸能人が眉を顰め、時にワクワクとした目で議論する光景が画面で、身近でも家族や職場でもその話題が度々浮上した。
「そういや、あん時、行ってました」
「え、じゃああれちょうど見えたん?」
白米へと向かっていた箸を止めて年上の同僚が目を見開いてこちらを見る。
「今、報道陣や人だかり多いし、あの周り幕されとんやろ」
なんか調査したり、危険があるとかでと向かいに座るもう一人の同僚が会話に入ってくる。普段、これほどまでに会話の中心になることなどないので、戸惑いながらも少し得意げに自分は見た時の話を続けた。
「なんか人だかりできてるなと思ったらそこにギワンがおったんですよ」
『ギワン』というのは謎の物体の愛称だ。由来は近くにある『水際公園』から来たもので、最初はS町川に現れたから『マーチン』だとか『シンマチン』になるのではと思ったが、予想は外れ、その愛称で呼ばれるようになった。思えば、自分の考えた犬の名前や友人のあだ名は採用されたことなかったなと、苦い思い出が蘇る。しかし、『ギワン』というのも何だか怪獣みたいで嫌いではない。
「おかげで観たかった映画観えんかったんですけどね」
「いや、映画よりそれ見えた方がすごいやろ」
笑い交じりに同僚がおかずの唐揚げをつまむ。まあ、そうですね、と相槌を打ち、ツナマヨおにぎりの封を切る。すごいのは目撃した自分ではなく、『ギワン』だ。それなのに注目されたことにわずかでも悦に浸った自分が途端に恥ずかしくなった。もうこの話題を自分から出すのはやめようと、拭い去るように三角の隅に残った海苔をかき出した。
ギワンの幕が外されたそうだ。研究者や調査員が放射能だの危険物質などを検査した結果、何も見つからなかったらしい。かといって何が起こるかも分からないので、監視員と調査員がそれぞれ一名ずつの一組交代制で水際公園にいることとなった。そしてもう一つ新たな発見があった。
「まばたき?」
そう、まばたき、と久しぶりに会った友人が動画を見せてきた。
「ちょうどさ、一般公開始まって三日目くらいにさ、見えたんだよね」
まさか整理券制になるとは思わんかったわという笑いにつられ、画面が揺れた。ひび割れたスマホ画面の中、ギワンの二つの丸がゆっくり半円から無、無から半円、そして丸へとまばたきに似た動きを見せる。その十五秒間、歓声が湧きあがり、予想以上の音量の大きさに友人は慌ててマナーモードに切り替えた。
「あれ、いきもんなん?」
「さあ、知らん」
向けていたスマホを自らの元へ寄せ、操作をしながら友人は首を傾げる。
「けど、あれ見たらラッキーになれるって噂もあるらしいで」
何かあったかと聞けば、ちょっと考えて、欲しかったCDが手に入ったと友人は口角を上げてみせた。
ギワンを観に、全国、あるいは海外から多くの人が訪れるようになった。休日は混雑するため、新たに観覧用の橋が設けられ、静かだった商店街の一角にできたチケット売り場はいつしか人通りを見せるようになった。それに比例し、駅前から近隣にかけて活気づくようになり、周囲は戸惑いつつも、新たな店ができたりと賑やかになる。一時期は『あれは何か危険なものかもしれない。破壊しなくては』『もしかしたら終末の合図ではないか。不吉な予感がする』というギワン撤去派と、『いや、専門家達が危険なものではないと言っていた』『もしかしたら遠い星からの贈り物ではないか』という保護派が衝突していた時期もあったが、今では少し落ち着いた。(時折、プラカードを掲げたり、ポスターを無断で貼ったりは見かけるが)それよりも行動が盛んになったのは清掃ボランティアだ。ギワンが現れるまで時折、ゴミが流れているのを見かけたが、人が多く来た分、ポイ捨てのゴミも増えたらしい。ギワンへの影響への配慮と景観保護も兼ね、発足されたそうだ。『ギワンのため、きれいな新町川を』のキャッチコピーとギワンが描かれた袋を持ったボランティアが清掃作業をしているのを見かけるようになった。夏から冬にかけては学生ボランティアが特に多い。
「これで学生時代に頑張ったことに書けることができたわ」
すれ違った一人がポツリと呟いた。
観覧用の橋で目隠しされる形になったギワンは観光資源だけでなく、学生の救いにもなったようだ。高齢の女性が橋の向こうでギワンに向けて手を合わせている。少し曲がった指は蕾のようにも見えた。
ギワンはもう地元の身近になった。ギワンクッキーに饅頭、マスコット。果ては歌までも誕生した。姪っ子は保育園で習ったとしばらく跳ねながら歌うものだから、歌が耳に残り、運転中に口ずさんでしまった時は恐ろしさすら感じた。
今や、ギワンが話題の中心になることは少なくなった。時折、テレビで紹介されて思い出したかのように話のタネになることはあっても、すぐ、人気俳優の結婚や政治家の不正事件の隅に追いやられる始末。
久しぶりの平日休みに観たかった映画のためS町川近くへ足を運ばせる。作品は予想通り、好みの作品で、期待以上に面白いものでパンフレットも購入した。近々出るDVDも買わなくてはと胸を膨らませていた時、ふと観覧用の橋が目に留まる。今では落ち着いた通りは平日ということで、見物に来る人はいないようだった。時間もあるし行ってみようかと懐かしさを傍らにチケットを買い、受付の窓口に通した。受付の男性は老眼鏡越しに眠そうな目で一瞥し、どうぞと呟いた。
長く白いコンテナのような橋を渡ると初めて目撃したギワンが変わらずそこにあった。最後に見に行ったのは三年前くらいだろうか。人混みが嫌で先端だけ見えればいいやと通り過ぎた。今では横に長いガラス窓の枠の中、真ん中にギワンが何物にも邪魔されずに佇んでいる。無機質な静寂は美術館や博物館にも似ていて、物体か、生物かまだ解明されていないそれを眺めていた。
「結局お前はなんだろうな」
斜め下に目をやると調査員と監視員らしき男性二人が手持ち無沙汰に談笑していた。まだ暑いですね、そうですねとでも話しているのかなと思い、目を戻せばギワンの二つの丸が消えていた。これがまばたきか。目の前で見たことがないせいか自分の中でギワンが物体から生物へと無自覚だった認識が変わる。確かに幸運だ。友人の得意げな表情を思い出した。
ギワンの二つの丸は目のように閉じられ、半円からまた丸へと戻っていく。ゆっくりとした動きでも興奮は冷めず、誰かと共有したいとスマホを取り出した時だ。
「え」
ギワンの二つの丸の中に一回り小さな黒丸が現れた。それはまさに『眼』だった。
『見られている』
心臓が縮み上がる感覚に落とされる。頬や背中の産毛が逆立ち、開いた唇が震えた。どこへ走ればいいのかわからなくなる。目を泳がせていると、金属板を金属板でひっかいたような音が橋に響き渡る。あまりの大きさと音への嫌悪感に耳を抑え、その場にしゃがみ込んだ。かすかに窓のひび割れる音も聞こえた。
どれくらいか経って音が止んだ。
ゆっくりと目を開けるとそこには斜めに傷の入ったガラス窓が一枚、向かいの橋を映していた。
「ギワンが、消えた?」
突然の出来事に目と口を見開く。思い出したようにもう一度橋の下へ目を向ければ、同じように腰を抜かしていたであろう二人組がおもむろに立ち上がり、慌てて駆け出していった。
脳裏に焼き付いた黒目に似た何かがまた再浮上する。今ここで駆け出さなければあの黒に吸い込まれ、出てこられないような気がした。這い出す思いでその場から駆け出す。思い出された『未知』が心をざわつかせる。出口まであと数メートルの一本道なのに遠く感じられた。全速力なんていつ以来だろうか。肺が痛い。やっと近づいてきた出口に安堵から歩みがゆっくりとしたものへと変わる。
出口の段差をよろけるようにして降りていく。大きく息をついた時同じくして、空いっぱいにサイレンの音が轟いた。
お盆はまだ先ですが、何ヶ月ぶりかに書いて投稿するも日の目を見なかった小説を供養しに来ました。怪獣は蒲田くんとガンQとヘドラが好きです。
(執筆者:すいか)