情報をデータ化して整理することへの危機感について考えた
データが消えたらどうするんだろう?
情報化社会・AI・クラウド等に対していつも考える。
例えば、災害や事故で電気供給が止まる。
パソコンもスマホも使えない。
データを開くことはできない。
電気の供給が再開されるまで待つしかない。
一体それはいつになるんだろう?
例えば、自分の誤操作で削除してしまう。
これについては、今日のNサロン「情報整理法」野口先生のお答えで回復できると知った。
(質問の滑舌が悪くて申し訳ありませんでした🙇♀️)
例えば、パソコンの故障。
データを取り出してくれる業者さんがいるようだけれど、私の知人はダメだったと落ち込んでいた。
これは確実ではなさそうだ。
例えば、ウイルスやハッキングでデータが壊される。
万全なウイルス対策をして「危うきには近寄らない」防衛策を取っていれば大丈夫だろうか?
でも、情報セキュリティ?の人たちは日々ハッカーと戦っているらしい。
ウイルスは日進月歩、じゃなくて秒の世界かもしれない。
これも確実なんてない。
水害の話
以前、水害に襲われた家屋から写真を生き返らせる人たちをテレビ番組で見た。
泥水や瓦礫の中から写真を取り出して、洗って、乾かして、再生させる。
家族を失い、形見も何も無く悲しんでいた人が、写真で家族に再開する。
もう本人はいないけど、存在はその写真に、確かに"ある"のだ。
とても素晴らしくて涙が出た。
データはそんな存在になれるのだろうか?
形あるものを捨てようとしている一方、形のないものに囚われている、私たち人間。
でも情報がなければ仕事も生活もできない。
たぶん、自分なりの価値観で、どの情報を、どの方法で整理するか
という選択をすることが大事なのかもしれない。
自分なら?
大事な写真は数枚、形あるまま残しておきたい。
写真を救済する取り組み、被害を受けた写真やアルバムへの対処法が紹介されています。
https://fujifilm.jp/support/fukkoshien/
「本能を捨てろ」
整理法は、どうやったら整理をしなくて済むか考えたことから生まれたそうだ。
整理=くだらないこと、価値を生まないこと、プロダクティブでないこと。
人間は知的に非常に高度で、分類せずにいられない。
だから考えずにルールを遂行する。
そうすることで、情報が行方不明になって一日中探し回るような無駄な時間はなくなる。
情報は、そこ(本棚やスペースの中)に確実にあるのだから。
と、野口先生はとても論理的におっしゃっていたけど。
ご自身にも整理できないものがあること。
質問者へのユーモアのある返し。
そして、たまおきさん(noteの方)からお水の蓋を開けて渡されたとき等、都度お礼をおっしゃっていて。
あたたかい、心配りの細やかな方故、本能を捨てる整理法が生まれたのかもしれない。
と、思った。
次回はデータのお話みたい。
第2回目が楽しみだ。
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