たくさんある人間の能力の中の『精神的/霊的(スピリチュアル)な知能』
「健常者」の創る常識の世界
世界で最も有名な車いす選手、タチアナ・マクファデンは言いました。
『地球上には何億人もの障害者がいますが、私たちは健常者の常識の世界の中に生きています。 その考え方を変えたいんです。』
『かつて、私たちにそなわっている知能は一種類だけであると信じられてきました。知能検査(IQテスト)によって測定できると考えられていたものです(ウィルバー2020)。』
学校の小学校入学前の就学相談や、学校教育で重視される能力は、やはりWISC,ビネーなどの知能検査を行い、認知発達の得手不得手と総合的な能力値を算出します。
専門家の判定や解釈にもよりますが、その得られた結果の数値の影響は、大きなものがあります。
特に保護者や担任、学校関係者は、無意識に出されるその発達検査結果の数値から将来を反射的に見据え、場合によっては大きく落ち込むこともあります。
まだまだ人生は始まったばかりの子どもなのに・・・。
これは人間の性なのでしょうがないのですが、その発達検査の結果は、今現在だけの数値で、発達が速い子どもは早ければ数か月後にも大きく変動してしまうことも多くあります。
しかしながら、「数値」という大きな影響力から人は物事を判断し、その子どもの可能性を無意識に切り取ってしまっている状況があります。
そうして、一般社会の常識というフレームが強固に形成され、常識を運営するものとされるものの共同作業で、その信念は強固に維持され続けます。
「学歴社会」や「勝ち組」、「負け組」といった社会的概念が形成される背景にはこのような状況が、要因の一つとして考えられると思います。
冒頭のマクファデンの言葉はそのことを、障碍者という特異な生の視点から発せられた言葉だと感じます。
私の息子も学習障害と注意欠陥型の発達障害です。IQ数値で言えば90代と平均域ですが、日常のパフォーマンスに能力の得手不得手の差がありすぎて、通常学級に在籍することは厳しいという判断で、5年生から知的障害学級に在籍するようになりました。
発達的にボーダーラインの子どもの「通常学級か、知的障害学級か」という選択は、現代の日本の社会では永遠のテーマのように毎日議論され続けています。
社会の狭まれた枠の中で、自身の発達の特性を理解し、長所を伸ばしていくことが生きていくうえで非常に大切です。
自身の発達特性を知るうえで、既存の発達検査も重要ですが、それ以上にもっと多くの発達知能の種類があるということを知っておくと、可能性の枠が広がります。
一般的な学校教育での発達障害者の居場所は、現時点で少なく、厳しいものがあるでしょう。発達的に境界域(グレーゾーンと呼ばれる)の子ども達は、通常学級か、知的障害学級かという一見0か100かの選択を強いられ苦しみます。
実際は0か100ではなく、数多くの発達知能の種類があり、同時に数多くの可能性があるということを知っておくことは、子育てをしている親だけではなく、大人こそ自分の可能性を再認識し、人生を充実させるうえで重要なことだと考えます。
数々の発達知能の種類と可能性
インテグラル理論を提唱するケン・ウィルバーは、著書『インテグラル理論を体感する』において、
しかしここ数十年で多くの研究者が理解するようになったのは、人間には10種類を超える知能が備わっているということです。 ―中略― すべての隠元が10種類を超える多様な知能を利用できるということは、これまで認知的知能の面で「平凡」あるいは「発達が遅い」と判断されていた(それゆえ、知能そのものが不足していると考えられていた)人が、他の知能(例えば対人的知能や美的知能や運動感覚的知能)の面では、たぐいまれな能力を持っているかもしれないということです。そしてこのことは、あなた自身にも当てはまるかもしれないのです!』
と述べています。
そしてどれだけ多くの発達のライン(知能の種類)を想定するかは、研究者によって意見はことなりますが、一般的に言えば少なくとも8つの発達ラインがが重要であると考えられています。
1.認知的知能:視点を取る能力。様々な視点を意識的に取得できる能力のこと。
2.感情的知能:自分の中にどんな感情が生じているかだけでなく、周りの人の中にどんな感情が生じているか気づく能力。
3.内省的知能:明晰に、効果的に自らの内側を見つめる能力。
4.身体的知能:自分の身体が伝えている智慧を読み取る能力、身体が今どんな状態にあるかに気づく能力、そして自分の身体を上手に活用する能力。
5.道徳的知能:道徳的に正しいことは何かを知ること。
6.精神的/霊的(スピリチュアル)な知能:私たちがどんなことを究極的な関心としているか、何を最も重要なことであるとみなしているか、究極のスピリットについてどう考えているかに関する知能
7.意志の力:物事を前に推し進めるための精神的な力。
8.自己のライン:私たちの総体的で、有限な自己に関わるライン。
他、重要な発達ラインとして
・「論理-数学的知能」、・「音楽的知能」、・「美に関する知能」、・「関係性に関する知能」、・「言語的知能」、・「視点に関する知能」、・「性-心理に関する知能」、・「価値に関する知能」、・「防衛作用に関する知能」、・「対人的知能」、・「欲求に関する知能」、・「世界観に関する知能」、・「博物的知能」、・「空間と時間に関する知能」、・「実存的知能」・「ジェンダーに関する知能」
などあげられるようです。
精神的/霊的(スピリチュアル)な知能
このnoteでは6.精神的/霊的(スピリチュアル)な知能にクローズアップした内容になっています。
どの知能の種類も言えることですが、スピリチュアルの知能とは、知識、技術的な構造的側面と意識状態の段階の二つが絡み合っています。
ウィルバーによると、現代西洋における精神的/霊的な知性が、今なお、アンバー段階(神話的-字義的な段階)に固着しているといいます。言い変えればそれは、スピリチュアリティのライン発達が、現代の進化そのものに対して2000年ほど遅れている、と言います。
<※アンバー段階(神話的-字義的な段階)とは> スパイラルダイナミクスを参考にすると、1万年前に出現し、基本概念として手段を選ばず、自分のなりたい者になり、したいことをする形式です。 ・世界は、威嚇と略奪に満ちたジャングルである。・自己の欲望を満たすため、いかなる支配と強制も自由に打ち破る。・背伸びし、注目を期待し、尊敬を要求し、采配を振るう。・後悔と罪の意識なく、今だけの自分を楽しむ。・他の攻撃的な人物を制し、出し抜き、支配する。
こうした見方においては、神話―例えば、「神はエジプト人の長男を皆殺しにした」「エリアは馬車に乗せられて生き多摩m天国へと昇った」「老師は生まれたときにはすでに900歳だった」などーは具体的に、字義的に受け取られ、全体的な真実だとみなされています。
こうした精神性/霊性の段階の教義が明治から日本に流れ、影響をうけ、今日のスピリチュアルや精神世界の書籍やヒーラーが生まれています。
ずいぶん日本のスピリチュアル領域も進化し成長している面もありますが、現状は例えると、同じ教室に幼稚園、小学生、中・高校生、大学生、そして、博士課程の人々が、一斉に介して授業を受けているような状況に見受けられます。
スピリチュアル界隈には、アセンション、宇宙人、前世、カルマ、輪廻転生、ヒーリング、非二元、引き寄せの法則、パラレル宇宙・・・など魅惑的なテーマが詰まっていますが、その解釈と運用方法にはそれぞれにおいて大きな差があり、実際はカオス的な様相を示しているように見受けられます。
そうなると、スピリチュアル界は
・「鎮痛剤的にその場は癒され楽になるが、同じ課題テーマをぐるぐると放ったサイクルに抜け出れない人々や」、
・「幼い幼稚な教義に十分に成熟した大人が妄信してしまっている状況」、
・「実施に価値のある技術と知識が逆に溝に捨てられていたり、怪しまれている」・・・
というような状況が生まれています。
そうなると、スピリチュアルの知性と能力は、一般の常識人にはいつものように、「怪しげ」で「幼い」「カルト的」というレッテルが張られたまま今日に至ります。
スピ系の人々は一般常識人を、「目覚めていない」、「波動が低い」、「カルマが・・・」という原始的反射を起こします。
両者には溝が出来、時間ばかりが過ぎ去ります。
重要な霊性(スピリチュアル)
今日の世論では、精神的/霊的(スピリチュアル)な知能は今後、特に重要な知能となると考えています。
お金や、ある特定の能力、肩書だけが評価される現状では、社会が運営されるのは困難ということを日々突き付けられます。東京オリンピックはその集大成のような状況です。
お金がなくとも、障害があって動けず、誰かの存在なしに生きられない状態でも、大きな病を抱えてただ呼吸をするだけで精一杯でも、知的能力が低く、社会において様々な能力を運用することがとても困難でも、
私たちはただ「在る」というだけで、評価できないほどの価値が実際にあるということを示してくれるのが精神的/霊的(スピリチュアル)な領域であり、そのことを理解し認識するのが精神的/霊的(スピリチュアル)な知能だと私は考えています。
実際にその「在る」という状態に人間が達すると、お金や障害、能力、病といった状態とは全く関係なく、自分を含めた周囲の関係ある人間に癒しが波及されるという経験と実験結果があります(今度記事にします)。
それは特別な選ばれた人間にのみ許された能力ではなく、ある一定の知識と技術の練習で比較的容易に可能です。
それは、私たちの可能性と価値を再評価し、再構築する機会を提供します。そして、一人一人の存在の価値に気づき、一人一人が十分に自己を認め、表現できるきっかけになります。