世界観(思い込み)が世界を創る
自身よりも高次の価値観を提示されると、人はまず否定するという生理様式がある
「思い込みが世界や人生をつくる」、「思考が現実化する」、という言葉は、多くの人が知っていることだと思います。
僕自身もそれは、よく知識としては理解していますが、自分の思い込みが客観的に明らかになったときには、常に驚きと戸惑いが生じるのは変わりありません。それが生きるということなのかもしれない、と思います。
何時までたっても、玉ねぎの皮をむくように、思い込み(世界観)の層というものもは、むいてもむいても現れてくるものです。そは知識として理解しているつもりでも、体感を以て味わうと、また別次元の世界転換になります。
例として、「地球は丸い(最近は『地球は平らである』という説が増えてきましたが…)」という概念は、教科書やTVで知る情報と、実際にロケットに乗って大気圏外から地球を見下ろすのでは、雲泥の差であることは想像に難くないと思います。
思い込み(世界観)は、その思いこみを壊すような事実や知識、経験に遭遇すると、それが客観的な真実や現実であろうとも最初は否定してしまうのが人間です。
これはその人間が未熟だから、というわけではなく、本能的に「まず慣れ親しんだ価値観を守り、自身より高次の価値観や見解を否定する」というという様式が、人間の脳と心に組み込まれている、ということのようです。
つまり、自身より高次の価値観について否定的に捉え、場合によっては攻撃的に反応するのは「暑い時には汗をかき、寒ければ震える」といった生理現象と同じであるということが言えます。
これを逆手にといると、自分が今感情的になって受け入れられない価値感や概念があった際には、このことを頭の片隅においておけば、自分自身が新たな世界観を手に入れるチャンスを逃さない可能性が高まるのと、無用な摩擦や争いが減少する可能性も高まるのではと思います。
生来の価値観が、事実をゆがめた例
こうして考えてみると、人間の歴史は短い間にも、思い込んでいた価値観を乗り越えて、新たな価値観を獲得してきた歴史とも言えます。
上記にあった地動説や神の概念、宇宙観、死生観なども歴史と共に変化していっています。
最初に古い価値観が脅かされそうになった時に、その価値観を守ろうとするのに大きく作用するのが「権威」でした。
例えば、ほんの200年ほど前の価値観について考えてみます。当時の人間と動植物の世界観は、以下図1のような価値観が絶対的でした。
つまり、人間を頂点とするヒエラルキーにおいて、次いで動物→植物・菌類という存在がそれに続いていくという世界観です。
このような強固な世界観の由来は、歴史的には旧約聖書から見ることが出来ると学者は言います。
その中のエピソードとして、著名な学者植物学者カール・フォン・リンネ(スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。「分類学の父」と称される。)のもとに、イギリスの植物学者ジョン・エリスが初めてハエトリグサの葉と茎の標本を、「この植物はハエを摂取する肉食植物です」という手紙と共に送ったことがありました。
ハエトリグサは、その葉の中にハエが入ると葉を閉じて虫を逃がさずに消化し、自身の養分に変換します。まさに肉食の植物として現在では当たり前の存在として知られています。
しかしリンネは当時、この植物を肉食植物とは考えずに、オジギソウのように「反射で葉を閉じている」と解釈します。植物が昆虫などの動物を食すという図1の世界観からずれる認識が許容できなかったのです。
そして、当時の学者達はリンネのこの考えを支持するために全くおかしな仮説を持ち出します。それは、
・ハエトリグサの葉が動いたのは反射運動のせいであった。(つまり、虫を殺そうという企てなしに葉は閉じた) ・虫は飛べば自由になれるはずだった。 ・虫が逃げ出さなかったのはそれは虫が年老いていたからだ。 ・虫が逃げ出さなかったのは、みずから死を選んだためだ。
などという、今では一笑に付される説ですが、当時の科学者たちはためらうことなくこの説を受け入れました。
つまり、動物を狩ることの出来る植物が実在するという説を否定できるのであれば、どんな説でも良かったのです。それは、新し価値観を認めず、上記の図1の世界観を強固に守ろうとするために、学者たちが事実を捻じ曲げてでも押し通そうとした説でした。
ちなみに現在の生態界の世界観は以下の図2のようなものが主流です。
他にもこのような例で、有名な話として、天動説から地動説を唱えたガリレオガリレイの話は有名すぎる話です。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、イタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイの唱える地動説を異端として撤回させた裁判が誤りであったことを認め、公式に謝罪したのは、つい歴史的にはつい最近の1983年のこと。それはガリレオの死から350年目のことでした。
ハエトリグサや地動説の例のように、今になって考えれば見たまんまを素直にただ、ありのままに評価すればハエトリグサはハエを食べるし、地球は丸いのですが、視覚で見た情報よりも人間は世界観や権威、そして同調圧力を優先する生き物であるということをまず認識するべきかと思います。
それは、先ほども書いたように、そのような人間が未熟で愚かで悪いわけではなく、人間はそのような生理機能を持っているのだと俯瞰して眺めることで無用な争いが減ります。
このような背景のもとで、これらの絵画を捉えると、どう解釈できるでしょうか。
思い込みや世界観を外して、ありのままに観てみる。
これらの古来の宗教画を評価する際に、ハエトリグサが肉食植物ではないと反射的に様々な説を唱えた学者は、A.「何らかの比喩的な表現」として描かれたと解釈するかもしれません。
そうではなく、B.「地球外生命体の操縦するUAPやUFO」と解釈する人や、「未来人のタイムマシン」と解釈する人もいるかもしれません。
この間AとBの間に大きな隔たりが生まれ、前者は常識的、知的な解釈で、後者は愚かでカルトじみた解釈であると決めつけて抑圧し、否定するという生理現象が人間の中で生起します。
この際に、AとBの葛藤を生み出す情動にとどまらず、その情動をありのままに俯瞰します。Aに対する「常識」、「当たり前」、「知的」というラベルやBへの「愚か」、「カルト」というものも単なる概念のラベルであると認識します。
そして、事実はAかもしれないし、Bかもしれない。そして新しい価値観Cとうい説の可能性も受け入れます。
そうすると、新しい世界開けてきます。新しい価値観や世界観は、過去から引き継がれてきた概念ではないので、脳では理解し、解釈不能な概念なので、「解らない」こととして認識されます。
事実、人間はほとんど多くのことが分かっていないし、知りません。それは謙虚な解釈というわけではなく、「事実」です。
人間への思い込みを外す良書
世界観は価値観を創り、人生を創造します。そしてそれがまた社会と人生を創るという相互作用のサイクルがあります。
人間自身への、あまり気づかれていないけれども染みわたっている思い込みとして、「人間は本来邪悪である」という価値観があります。そのため、冷笑的な人間観が社会に染みこんでいます。
人間不信が前提の社会なので、生活や将来への展望などが暗い味方に囚われ、そのような社会が創造されます。
素晴らしい書籍「ホモデウス」という大ベストセラーを生み出した、ユヴァル・ノア・ハラリもどちらかというと、このような世界観から考察をしているように見受けられます。
世界観とは人間の認識作用に依存し、認識作用は3つの視点から構成されます。
人間はきっと善でも悪でもないのでしょうが、偏った世界観が増えると世界は、実際に偏ってしまいます。そのような偏りを調整するために素晴らしい本があります。
ユヴァル・ノア・ハラリも推薦し、私も読んでみて自身の思い込みが多かったことに気づかされ、世界観が少し変わった感動を味わいました。
また、本書については今後詳しく取り上げたいと思いますが、
本書はこれまでの人間への「人間とは自己中心的で、過酷な環境下に置かれればほとんど多くは悪と呼ばれる状態に陥る」という世界観(思い込み)を見直すきっかけになりました。
それどころか、人間とはかくも素晴らしいものなのだ、という思いにも至ります。
そしてそんな人間は自分自身だという事実に気づき、当に希望を抱いて生きていくきっかけにもなります。
機会があれば、是非読んでいただきたい本です。
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