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発達障害への取り組み

(※発達障害という言葉は、一般的に普及されている言葉ですが、実際はこの何年かでその言葉は「神経発達障害」という言葉に変わっています。本記事では、発達障害という言葉のほうが、より広く認識されやすいと思い、神経発達障害ではなく、「発達障害」という言葉を用いています。)

前回の記事で、私達人間は①体→②心→③スピリットの順番に発達していくという記事を書きました。

①、②、③それぞれの段階で様々な発達課題があります。発達障害については、先天的な認知特性ゆえに、集団で求められる事柄を共有し、理解し、実行する機能が苦手です。

平易な言葉で言うと、よくあることでは、一般的な常識や場の空気に合わせた言動が分からないことに苦しみます。

また、そして「自分が集団の空気を分かっていないことが、分かっていない」ので独自の目線で理解し進んでいくので、周囲から浮きます。本人はそのことに気がついていないのですが、職場や交友関係、チーム、グループ、家族などで周りがとても扱いに困り疲弊する、ということが起こります。

双方にかみ合わないコミュニケーションが展開され、疲弊するという現状があるように思います。

この十数年で「発達障害」という言葉が広く認知され、多くの人に知れ渡っている世の中に急速に変わって行った背景は、

一昔前までの一つの価値観を優先する時代から、価値観の多様性を認める世論への変化が、より顕在化してきている時代になっていることが大きな要因として挙げられるのではないかと思います。

発達障害への取り組み

発達障害への取り組みとして、最も知られ扱われているのが、早期発見と療育です。

早期発見

早期発見とは、就学前ぐらいから保育者や保護者から発達的な特性が気になる場合、専門家の助けをかりて、行動観察や検査から発達の特性理解をするということです。就学前ということは、あくまでも理想で、実際は小学校、中学校に入ってから、発達障害の特性が顕著になったり、明らかになる場合が多いでしょう。

また、本人の適応能力やIQが高いと、発達的特性をカバーする能力も長けるので、発達障害の特性が濃ゆくない場合では、発見するのに時間がかかる場合もあります。

その場合は、高校生や大学生、成人した後に理解されることは少なくないです。

私が直接関わったケースとして、高校生の学習障害の生徒さんがいました。話を伺うと、「文字を読むこと」に関して、通常の生徒さんと比して、文字が歪んで見えたり、なかなか文章が頭に入らないという状態があることが分かりました。

明らかに学習障害の傾向があるのですが、周囲も本人もその可能性は全く理解していません。

しかしそのような状態でも、本人は学校では特別進学クラスで優秀な成績を収めていました。話を伺うと、問題文などで文字が歪んで理解できなくても、何となく前後の文脈で推測し、課題を解いてここまで来たということです。

しかしやはり国語の問題は苦手なようでした。

このようなことが出来るということは、推測能力に長けているなど、出来ない部分を他の認知機能の高さでカバーしていたことが推測されます。

しかし、受験という文字を膨大に読むことが要求される時期に入り、通常の生徒世よりも3倍も4倍もストレスがかかる状況から疲弊し、学校の相談室に繋がった、ということがありました。

結局その事例は、本人が発達障害という明らかな認知が無いまま無事に大学に合格し、事なきを得たということになりました。

成人した後に発達障害が分かったとしても、子どもの時のような療育が在ったり周囲への理解があるような環境を整えるということは、状況によっては困難です。

現状では自分自身でその特性と上手く付き合い、生活していく例が多いのだろうと感じます。

療育とは

療育(発達支援)とは、障害のある子どもやその可能性のある子どもに対し、個々の発達の状態や障害特性に応じて、今の困りごとの解決と、将来の自立と社会参加を目指し支援をすることです。

「療育」という言葉はもともと身体障害のある子どもへの治療と教育を合わせたアプローチを表す用語として使われていましたが、今は障害のある子どもの発達を支援する働きかけの総称として使われることが多いです。なお、「発達支援」という言葉もほぼ同じ意味として使われています。

このように、子どもに対してのアプローチがメインで、思春期、青年期や聖人以降の発達障害への療育的サポートは圧倒的に少ないでしょう。

成人以降の療育施設は、スポーツジムのように全国展開されればかなり需要があるのではないのかと思います。そこでは認知機能の訓練を特化するジムで、発達障害、認知症、神経症などの症状改善がメインですが、差別や偏見なく気軽に受け入れられるトレーナー付きのジムであれば、かなり効果を上げることが出来るのでしょうか。

私自身の障害受容について

私自身も公認心理士と臨床心理士の資格でもって、発達障害を含む様々な支援業を行っていましたが、40歳半ばで客観的にアスペルガーとADHDの傾向があると言われたのは大きな衝撃でした。

自分自身を発達障害に分類すると何となくアスペルガー的な傾向はあるかな・・・とは感じてはいました。しかしそれが専門的な視点から客観的に示唆されることによって、自身の障害特性をハッキリと受け入れられることが、こんなに視野が広がることなのか、と驚いています。

専門化として、障害受容を促す立場であり、障害受容をすると視野が開けるということは知識としてしか理解しているつもりでした。しかしながら実際に自分が体験すると、まったく別世界のことであると改めて感じた次第です。

私の場合は、はっきりとした発達障害の特徴があるわけではないので、いうなれば「隠れ発達障害」の領域にあるかと思います。

思い当たる傾向として、個人的には集団での関りが苦手なのですが、そのようなことが必要な場合は、いつの間にか集団に応じた適応的な人格を形成し、乗り切っていました。

いわば擬態のようなものです。擬態をするということは、潜在的に不安や恐怖が人一倍感じられているため、疲れやすく、体がだるい、ということが日常生活の中でよく感じられていたことでした。

自分の障害特性を知らない時は、みんなは楽しそうにはしゃいでいるが自分はどうしてもその輪の中に入りずらい傾向があり、そのことについて罪悪感や悲壮感を感じていたものでした。

しかし、それも自身の障害特性のためだと理解できると、心がすっきり晴れ渡りました。

性別、人種、肌の色、能力の違い、価値観や思想にも様々あるように、認知機能にも様々なバージョンがあります。

自分はアスペルガーという隠れた性質があるということで、それが劣ったり悪いことでもない単なる特性機能だと理解した時に、力がふっと抜けて楽になった気がします。

発達障害への理解と受容

療育だと、どうしても子どもへの取り組みばかりで大人への対応は殆ど見受けられない印象があります。

現在は子どもへの発達障害の支援システムが重きを置かれていますが、今後は思春期青年期、そして成人のの発達障害の支援システムが充実していくことが非常に重要になっています。

前回の記事にも書きましたが、病や障害へのアプローチは、基本的に「私とは何か?」という一言に集約されるでしょう。

それは、スピリチュアルな領域を含むすべての発達段階で同じです。

つまり、今の自分の身体や心、スピリット(意識の状態)とはどのような状況にあるのかということを自己観察したり、場合によっては専門家の見識や検査などを通し、知ることです。

そして必要に応じた支援や治療が見えてきます。

その際に、発達障害や精神障害についてはまだまだ社会的な偏見が足を引っ張って、支援や障害受容にまでつながるのに何年もかかってしまうということが珍しくありません。

その何年の間に、必要のなかった繰り返されるストレスや問題、障害が起こってしまう場合もあります。

障害受容について考えてみると、例えば、近視や乱視という現象は現在では「病や障害」とわざわざ認識しないでしょう。

しかし、適切に対応しなければ、車も運転できないし、映画館に行っても目がぼやけて映画が見えない、学校の板書が読めずに授業が受けれない、という障害が生まれてしまいます。

それは早く眼科に行って視力検査をしてメガネやコンタクトレンズをするなりすればいいだけです。

発達障害や精神障害も、将来的には近視や乱視などの障害レベルにメジャーで、かつ対応法が容易になればと感じます。

栄養面での取り組み

意外と専門領域でも殆ど扱っていないのが、栄養領域からのアプローチです。

私や息子、妻は発達障害だと分かったことと同様に、家族全員が小麦や麺類などに含まれる、グルテンアレルギーだということが分かりました。アレルギーが発達障害の症状を強めているということは知りませんでした。

特に妻や息子は乳製品のアレルギーも出たので、食べるものが少なくなり大変でした。

私はお好み焼きや、ラーメンが大好物で、妻はパンやクッキーが大好きだったので、これにはショックを受けました。

しかし繰り返される体調不良と、易疲労性の症状、背中の痛みなどの多くの不定愁訴が、日々の生活から小麦(グルテン)を抜くことによってかなり改善された実感があります。

息子の方も、グルテンを抜く生活をすることで、いつもぼーっとして意識が定まっていない状態から、はっきりとした意識の状態になったのは、目に見えて実感されました。

医師の話によると、グルテンアレルギーの子どもが小麦を食べていると、大人で言えば酔っぱらっているような状態で学校で勉強をしている状況だといいます。

息子も乳製品や小麦を除去した食生活を続けることで、意識の面での改善が見られました。

こういったことは、臨床心理士や公認心理士の養成期間ではまったく触れられてきていなかったので、大きな衝撃を受けました。

現在では、本屋の発達障害の支援コーナーでは栄養面でのアプローチを取り扱った書籍が多く出回るようになりました。

また、グルテンに関しての本についても書籍が増えてきました。

また、普段のケースで発達障害を抱えている家族の相談を受けていると、クライアントさんの方が栄養面でのアプローチを知り、すでに実践しているというケースにも多々出会います。

誰でも情報を容易に得られる時代なので、場合によっては専門家よりも当事者の方が様々な知識を持つということが普通になっているように思います。

有害金属

有害金属の除去についても、私が知ったのは、6年ほど前でそれまでは殆ど知りませんでした。

発達障害の体質は、有害金属が蓄積されやすい体質を持っているといいます。

私の息子も検査をすると、有害金属が残っているという検査結果であったので一定期間治療を開始していました。

一定期間サプリを飲んで、有害金属を排泄するという治療を行いました。

運動療法

発達障害は現在では「神経発達障害」という言葉に置き換わ手います。発達障害という言葉に「神経」という言葉がついたことで、それは「何らかの神経伝達に関する障害である」という推察が浮かびます。

私はこの「神経」という言葉がついたことは、発達支援業界での革命的な出来事のように感じます。

つまり、脳内の神経系のディスコミュニケーションから発達障害が現象化しているならば、運動療法やリハビリなどの取り組みでそれらの改善の可能性が開けることを暗に指し示しているのです。

そして、そのような関連書籍も沢山出版されるようになりました。

これらの書籍がすべて正しいとか、絶対効果がある、というわけではありませんが、発達障害に対しての固定観念や常識を打ち破り、新たな希望を見出すことのきっかけになりました。

他にも沢山文献はあるのですが、あまり紹介しても大変なので、とりあえずここまでの紹介にさせて頂きたいと思います。

発達障害への取り組みで、最も大切なこと

見もふたもないことですが、発達障害の支援に関しては、保険がきかない治療法を続けるとなるとかなりの金額と時間、そして労力がかかります。

サプリメントの治療や、運動発達について専門家の助言を受ける、それらを毎日毎月続けていくわけです。

そうなると家計もひっぱくしていきます。

子どもには最善のことを行ってあげたいという親の思いは自然な本能です。しかし、それを求めるあまり、家庭内の空気や経済状況が悪化してしまっては元も子もないわけです。

以前記事にも書きましたが、我が家では発達障害の取り組みを真剣に取り組みすぎるあまり、妻の疲弊がピークに達し、精神疾患を患って結果、子どもへの療育どころではないという長い時期が続きました。

私は子どもの発達障害を改善しようとする意識の中に、

「現状の子どもを受け入れずに、理想の子どもへ変えようとしすぎていなかったか!?」

ということを自問自答しました。

この思いが強すぎると、「今ここ」の子どもを意識せずに、社会や学校、親という私にとって都合のいい息子にしようとしていなかったか!?

ということを振り返りました。

それは、今ここにしかいない息子を否定することでもあるからです。

だからと言って何もしないというわけではないのですが、要はバランスが大切だということです。

療育や発達障害の改善は、要するに脳内環境を学習状況に適した環境に整えることです。

子どもにとって学習状況が最も整う状況とは、親や家庭が健康的で安定しているということです。

そのベースがあって、余力があれば様々な治療法を行えたら良いのではと思います。

金銭的な問題や、地理的な問題で療育が受けれない、家庭内の状況でなかなか療育や治療に手が回らない、コロナの状況で以前とは質が違う支援しか受けれない・・・

様々な問題や課題があるかと思いますが、

それらは全て理想である「何かより優れた治療法や、支援方法がある」という前提に基づいた発想です。

理想を追い続けると、「理想」とは必ず現状よりも良い状況を想定している、思考の中の空想なので、必ず不満が溜まります。

こういってしまうと宗教的に聞こえてしまうので嫌なのですが、

「未来も過去も、思考の幻想の中にしか存在せず、今起こっている現象は、宇宙が起こしている「これしかない」出来事である」、ということは

発達障害の保護者がよく落ちる過去への罪悪感や、未来への不安から離れるために必須な視点です。

今、家庭や経済的な状況で受けたい支援や治療が受けられていないということは、「それが良かった」「それが宇宙の采配であった」ということとしても捉えられます。

それは状況によっては受け入れがたい過酷な状況であるかもしれませんが、その受容は、自分が努力して受け入れようとするものではなく、単なる客観的な事実でもあるわけです。

そうして、現状を捉えて受け入れると、罪悪感や不安が霧消します。そうすると逆説的なのですが、視野狭窄の状況から力が抜けて視野が広がり、「次に何が必要か、何をするべきか」が分かります。

まずは笑顔で自分が、子どもや家族と過ごせることが最も療育や健康に重要なことです。そして、それはなかなか気づけなくて、人によっては最も難しく感じるかもしれませんが、

これは、全くお金がかからないものです。そして最も大切なことです。

私が見てきた改善事例の中では、いたずらに現状の問題や課題を探して解決しようとする場合よりも、状況が好転する時というものは現状を受けいれて、気持ちがおおらかになったときに状況が「いつの間にか改善している」ということが多いのです。

結局人間が出来ることは殆どわずかな微々たるものしかありません。

このことは、私自身が大切にし、忘れずにいることです。
















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