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人間の欲求の段階とサンサーラ(輪廻)からの脱却 ーコーチング理論を含めてー

人間の4つの欲求

視覚情報で、一般的な人間という存在をどのような判断で認識するかというと目、鼻、口、頭、手、足の有無で認識するかと思います。

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人間は、この肉体を維持するために、「物質的な欲求」が生じ水分を補給し、食事をとり、休息をとる、ということでこの物質的な肉体を維持します。

しかしこれは肉体的な面のみの側面にすぎません。

人間は他にも欲求があり物質的な欲求を含めると大別して4つの欲求が存在しています。

1.物質的な欲求:上記のような食物、休息に関する欲求

2.情動的な欲求:私たちが他の情動的存在とどのように関係しているか                   ここでは、情動的な温かさ、性的な親密性、気遣いなどを互いに交換することが重要になってきます。

3.心的な欲求:私たちが、他の心的存在とどのように関係しているか                    私たちは、言葉によるコミュニケーションで様々な記号を好感しています。「大丈夫」「ありがとう」「ごめんなさい」「愛してます」という言語メッセージと、「もういいです」「・・・(無視、沈黙)。」「やめてください!」という言語メッセージとでは、それぞれに役割や意味が全く異なります。

社会は言語的な記号で成立しています。例えば法律や契約書なども全て言語で表現し、それによって私たちは生活しています。

4.精神的/霊的な欲求:私たちが究極の源とどのように関係しているか                 人生についてのやりがいや意味、感謝の対象をどのようなものに向けているのか。自分の努力や能力で成功を修め、自分自身や家族までしかその意識の対象にしかなければ、ある種の視野狭窄に陥っています。

何故なら、自分の努力するという能力自体も、自分の才能も、遺伝的な特性や環境の状況のおかげで成り立っているという事実が抜け落ちると、人は失敗や不運を、自己責任でしょうがないものだと、独善的で排他的な傾向に陥ります。

一見それには何の問題もなさそうなのですが、社会全体としての格差社会を生み出し、巡り巡って自分自身や自分の一族の不利益に繋がるという、時空をこえた推論が出来ていません。

精神的/霊的という領域は、個人という自我を超えた、「おかげ様」の世界です。「個人」とは、先祖や周囲の奇跡的な連続性の上に初めて成り立っているということに気づけば、世界や宇宙と繋がり、その感謝を表現するという自然な欲求が生じます。それが精神的/霊的な欲求です。

(※ケンウィルバー:インテグラル心理学を参考に)

欲求の階層

この4つの欲求は「マズローの欲求階層説」にも対応します。

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低次の欲求が満たされたのちに、高次の欲求を満たす土壌が整います。例えば、「他者から認められたい」という強い承認欲求があっても、飢餓状態だったり(生理的欲求)、命を狙われている危険な状況(安全な欲求)であれば、承認欲求を意識する余裕は生じません。

「意識を向けた方向に人生は進んでいく」

運転教習所で初めて運転を習ったときに、運転教官の印象的な言葉があります。

それは、「運転している時、自分が見ている方向にハンドルは無意識にきられる」ということです。

私は運転をするのが苦手で、良く教官に怒鳴られていました。今時、怒鳴って生徒に教えるなんて、なんと原始的な、という怒りがこみあげてきていましたがそれはさておき・・・。

運転が下手な私は、車道を走っている時に、対向車線やガードレールの先の崖の方を危険を避けるために凝視していました。すると、いつの間にかそのつもりはないのに、危険な方向にハンドルが無意識にきられてしまうのです。

そのときに、運転最中は出来るだけ遠くを見て、細かな手前の運転操作は無意識に操作を任せるよう、何度も注意されました。

その様な注意を怒鳴ってするものだから、萎縮した私はますます身近な危険なところを眺めてしまい、危険な運転に再び舞い戻ってしまうという悪循環のループにはまってしまっていました。

(あの時は、別の教授の仕方があったろうにと、今でもぼやいてしまいますが・・・)

他の例として、自転車に乗るのがまだ上手くなかったとき、道路の溝や、電信柱など危ない方向から「避けよう避けよう」と意識を強く向けていると、その方向に自転車が進んでいくという経験はなかったでしょうか!?

自転車の操作は慣れてしまいと無意識に行ってしまうので気がつかないかもしれませんが、自転車の前方1メートルしか視野を保っていないと、逆に危険なことが分かるかと思います。

視野は遠方を眺め、手前の操作は無意識に行わせていた方が、自動車も辞t連射も運転はスムーズに進んでいきます。

ここで何が言いたいか、というと人間は肉体を自動車や自転車のような乗り物と例えると、「意識を向けた方向に人生は進んでいく」というように脳と心はデザインされているということです。

つまり、このことから言えるのは、高次の欲求の存在を知りもしなければ、低次の欲求が、人生や世界の全てだと思い込んで、その世界から抜け出ることはありません。

結果、何度も同じく理解しを個人や社会という集団はループし、繰り返すのです。

維持される輪廻

その人間の生命のサイクルを俯瞰した観たときに見える光景を、古代人はサンサーラと呼びました。

サンサーラ:輪回とも書き、〈輪廻転生〉ともいう。サンスクリットでサンサーラ。車輪が廻転してとどまることのないように,次の世にむけて無限に生死をくり返すこと。

自転車に乗りたての時は、今どきは交通公園で練習します。サンサーラにはまると、交通公園から出ないような状況になってしまいます。

人間は意識を向けた方向に、心身は進んでいくので高次の欲求の存在をまず認識すると、現状のサンサーラから抜け出すことになります。

しかし、人間の慣習と生理的機能として自身の生活する欲求段階よりも、高次の欲求段階は心理的盲点になって見えなくなっています。

そうなると、その高次の欲求の存在すらも集団から否定され、場合によっては攻撃さえもされて、抑圧されてしまいます。

そうして、全体と視点おサンサーラを維持しようと、個人個人が相互に見張って縛りあう監視社会が生まれます。

これが昔から「死後の世界」や、「霊的世界の探究者」が、「頭がおかしい者の戯言だ」とラベルを張られたり、馬鹿にされたり、弾圧されてきたことの背景です。

人間の5感をこえた認識領域

この記事の冒頭に、人間という存在をまず認識した時、どうしても5体がある身体を伴った人間の存在をイメージしてしまいます。視覚で捉えた存在をのみ人間と認識してしまう傾向が強いのです。

それだけ物質的な存在であるという慣習が強いのですが、それらは欲求の段階で言えば、情動的、心的、精神的/霊的な段階を完全に無視したものです。

実際、知性ということを考えると、脳が無い植物にも高度な知性が存在していることが昔から知られていたし、肉眼で捉えられる世界も、実際の光の周波数帯と、人間の可視領域を比較すると、わずかな領域しか人間は認識していません。

古来から科学は、目で見える範囲を世界の全て、人間の全て、というように認識し、科学はその説を強化する道具として働いてきましたが、

現代では、科学は皮肉にも、これまでの人間の狭い領域を取っ払う機会になっています。

そして、その進歩の時間目覚ましく早くなっています。

自身の認識(意識する)する方向に自分の人生が舵を切られるのであれば、これまでのように、見えている範囲ではなく、見えない範囲も視野に入れて自分のライフプランを立てると面白いのではないでしょうか。

サンサーラから抜けるためのゴール設定

実は、これは認知科学を応用した、コーチング理論のゴール設定のからくりだったりします。

ゴール設定は、出来るだけ大きく、達成の仕方も分からないくらい大きなものが良いとされます。

それは自分という枠を超え、社会、世界、生命圏に影響を及ぼすようなゴールであることが良いです。そして、何よりも、心から自分が成し遂げたいことです。

また、そのゴールは信頼できるコーチ以外の他者には言いません。その理由は、他者は、現状の世界しか見えていないため、他者や世界、社会は良かれと思って大きなゴールを持つ者の足を引っ張ろうとする生理状態にあるからです。





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