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「意識」について学ぶことの重要さ

意識とは気づく能力

著作「サピエンス全史」で有名なユヴァル・ノア・ハラリは著作「21Lessons(p102)」において、今後の人類の悲劇的な危機や破滅的結果を避けるには、「AIの改良に投入するのと同じだけの資金と時間を、人間の意識の向上に注ぎ込むのが賢明だろう。」と言います。

では「意識」といは何か、と言えば、同著によれば

「知能とは問題を解決する能力を指す。意識は痛みや喜び、愛、怒りといったものを感じる能力を指す。(同著p100)」と言います。

簡単に言えば、「意識とは、感情に気づく能力」と言い変えられるでしょう。

物語の中に生きる私たち

普段私たちは、家族関係や職場関係、交友関係、というその時その場の役割の中で生活しています。

それぞれの家庭・職場・友達などの「関係性」から情報(出来事)が生まれ、出来事が連続的に並ぶとストーリー(物語)が生まれます。

それはちょうど、少しづつ異なる「静止した絵」を連続的に提示することで、動きのある動画が出来る、パラパラ漫画や映画の現象と同じです。現実も全く同じように出来ています。

そして私たちは家族、職場、交友関係など様々な「関係性」を持っています。その関係性は「場」を創ります。そのそれぞれの「場」ではそれぞれの役割があります。

その場から生まれる役割が連続的に生じる出来事(情報)を生み出し、物語が生まれます。

家族ならば父親、母親、長男、長女、末っ子、という状況や役割から生じる物語。職場での上司と部下という役割が創る物語。交友関係での立ち位置が作り出す物語、というようにそれぞれの展開する物語の中に生きています。

物語には「始まりがあれば終わり」があります。そしてその物語には、状況に応じた喜怒哀楽といった様々な感情が生じます。

普段の私たちは自分か感じている感情よりも、その役割と物語の展開を優先したり、没頭することで自分にどんな感情が生じているのかに気づいていないことがほとんです。

自分の中から生じた感情よりも、その場で求められる役割や物語を優先してしまうのです。これがいわゆる「空気を読む」ということです

あまり空気を読みすぎると、実際に感じている感覚とその場の空気との差が激しくなります。そうなると何を自分が感じているのかが分からなくなり、自律神経が乱れ、病に陥ることもあります。

私たちは、家族、職場、交友関係をまとめ、包括するもっと大きな場の中で生きています。

それが社会であったり国家であったり、宗教であったり、資本主義、共産主義、民主主義といった「主義」であったり様々です。

生後間もなくして両親や祖父母を基本にして名前が付けられます。そこには様々な家系の思いや宗教的、文化的背景から生じる願いが名前には込められます。

そして、その生まれ育った環境から入力される情報群で、感情と思考が構成され、一定のパターンを持つ人格が形成されます。この人格は、様々な物語で構成されています。

こうした人格パターンを「私」そのものだと同一視します。

時には催眠やスピリチュアルな療法によって、前世や来世、最近だと地球外の惑星の自分といったものを本当の自分と認識することも増えていますが、このように考えると、そのような前世や地球外での生も全て、物語の一部です。

物語を自分自身と同一視すれば、物語の中で自動的に生じる喜怒哀楽を自分自身と定義することと同じです。

しかし意識とは、冒頭に述べたように「感情に気づく能力」のことで、感情そのものではありません。感情を俯瞰して眺める観察者です。

物語に同一視しすぎている状況。そこには「意識」はありません。

意識とは全ての土台で、全ての素

意識とは、その物語や感情を俯瞰して眺める「気づき」です。

物語とは、紙に描かれた文字や絵のような記号で構成されています。その記号が一定のパターンを持つことによって、「意味」が生まれ、物語が生まれます。

この例で言えば意識とは、物語を構成する文字や絵を描くための紙です。

つまり紙がなければ物語は描きようがないように、意識が無ければ物語は存在しませんし、存在しようがありません。

私たちはそれぞれの物語を生きていますが、ほとんど多くのそれは生後、親が期待した物語(願い)を土台にした名前を自分自身と錯覚してのことです。

そしてその名前が生じた家系的、文化的、宗教的、国家主義的背景という「私」が生じる前から存在する流れ(力)が生み出したものです。

言い変えると、誰か過去から続く権力者や影響力のあるものの願いや都合といった生命の流れから生じた現象を「自分自身」と錯覚しているわけです。

それは過去の先祖から連綿と続く流れで、無意識とも呼ばれるものです。宗教やスピリチュアル的な表現をするならば「カルマ」と呼ばれるものです。

私たちが意識的に生きるということは、自分の中に生じるイメージや感情、言葉を俯瞰して気づいている、ということです。そして、そこから選択的に意図して感情や思考を選び出すことを指します。

反対に無意識に生きるとは、自身が受けついた先祖からの反射的主観や、誰か影響力のある人からの情報を受け取った時、その時に生じる感情や思考といった感覚を無視して鵜呑みにして自分の意志や行動を決定してしまうことを言います。

そこには「意識」が「無い」ので無意識なのです。

そして、それは良いか悪いか別にして、他人を生きるということに他なりません。

情報爆発

10年ほど前は、指数関数的に増加し続ける現代人の1日の情報量は江戸時代の人々の10年分に匹敵すると言われていました。そして現在、現代人の1日の情報量は江戸時代の人の一生分の量に匹敵し、それが増加しているといいます。

SNSやスマホの普及を鑑みれば驚くことではないかもしれません。

つまり、私たちは何が正しく何が間違っているかを精査する暇が極端に無くなっています。

そして、その何が正しく何が間違っているかという判断をAIにゆだねています。

AIは、既にいくつもの分野で人間の問題解決能力をはるかに凌駕しているし、今後もその傾向に拍車がかかって行くからです。

こうして考えると、私たちは「気づく能力」がどんどん退化していく一方になっています。

それは、言葉を返せば他人の創った流れ、つまり他人が創った人生を生きている、ということになります。

それが何がいけないのかって!?

生きる実感がなく無気力、無感動の状態の人々の増加。

他人の都合で振り回され続けてきた時間が長いので、自分自身で夢を見たり、創造的に生きることがそもそも分からない。そのことによって、生の実感がわかない。

創造性、人生や生きる意味の喪失からの事件、事故の増加、しかしその問題その者にすら気がついていないといった現象が起こっています。

それが冒頭でユヴァル・ノア・ハラリが警告した

今後の人類の悲劇的な危機や破滅的結果を避けるには、「AIの改良に投入するのと同じだけの資金と時間を、人間の意識の向上に注ぎ込むのが賢明だろう。」』

に繋がります。

そして、

「意識にはそれ自体に治癒(癒し)の効果があります。K・ウィルバー(統合心理学2021)」

つまり無意識に生きるということは、そこに治癒や癒しがなく、崩壊と矛盾、衝突とカオスが展開することを指し示します。

この2年間の現象

この2年間の世界での現象を眺めると、多くの人々が、TVや新聞などの大手メディアから流れる大きな流れ(情報)に影響され、恐れなくても良いものを恐れ、真に恐れるべきものを恐れることが出来なくなっているように感じます。

他者からの影響で最も大きい者が「権威」です。

つまり医者、学者、大学教授、地位や名誉のある者、よくメディアに出てくる人々の意見や考えが自分の考えと同じになってしまいます。

しかしよくよく「気づいて」見ると、彼ら科学者や医師、大学教授と言えども、それぞれに矛盾する意見や主張、考えがあることに気がつきます。

当然と言えば当然です。

私が臨床心理学の大学院生の時に、印象深いことがありました。ケーズカンファレンスで、名だたる5人の医師や大御所の教授たちがそれぞれの見解を主張するのですが、5人とも全て意見や見解がそれぞれの立場で違う、ということがざらにありました。

それは当たり前で、当然と言えば当然なことです。意見や見解が違うことで、新しいイノベーションが生まれるからです。

そしてその在り方が健全なのです。

権威の意見に以下に効果的に従うかが学問や研究ではありません。

それは心理学という情報抽象度の高い事例だから、ということではなく、生物学などの分野でも同じことです。

ちょっと調べれば、まっとうな科学者たちが様々な意見が飛び交い、180度異なる見解を述べてもいます。

そして、さまざまな意見や見解が飛び交う中で、私たちはどれか一つの考えを採択しなければなりません。しかし、その時用いる基準は「多数決」や、権威ではありません。

意識についての研究

こういうわけで、昨年はますます意識の研究分野が進むことの重要性を実感したとともに、専門家、医師、教授、学者という肩書に遠慮して自分の感覚や思考、感情を抑圧することの個人と社会への危険性というものを実感しました。

そして、現代社会では「気づく」という能力である「意識」の研究分野は待てども誰かがやってくれるわけではありません。

学歴、肩書、専門性というものは意識という紙に描かれた対象物です。

意識そのものについての研究は3000年以上も前から連綿と続き、いつでもだれでも着手可能で、最も大切なものです。

今後も意識についての研究や考察を進め、この場で発表していきたいと思っています。

それは様々な偏見や差別、妄信という目隠しを外し、現象をありのままに「気づく」ことです。



































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































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