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「いじめ」という現象を生命現象という視点から考えてみる ―その2ー

この記事のシリーズでは、「いじめ」という現象について改めて、生命現象という本質的なレベルから考えてみようという記事です。

前回の記事を読んでいた方が、より全体像はつかめるかもしれませんが、読んでいなくても何となく楽しめるような記事ではないかと思います。

前回までの内容

生命とは何か

前回の記事は、そもそも「いじめ」という現象を、生命現象特有の現象であるという視点から考察してみることにしました。

では、生命現象とは何ぞや?という話になるのですが、「命とは何か?」という話になるので、物語は壮大なものになってしまいます。

ホログラフィー宇宙論

この記事では、ホログラフィー宇宙論という映画マトリクスの世界のようにこの宇宙が構成されているという立場から、生命現象を考えてみようということになりました。

これまでの主流の考え方である、ビッグバン(物質現象)から生命が誕生したという、時間軸の視点であれば、宇宙は物理的な次元で説明がつく現象であり、その最小構成単位は素粒子の構成によって、私たち人間や社会、世界が構成されているということです。

しかし、ホログラフィー宇宙論という立場で物事を考えると、ビッグバンという現象から生命が誕生した、というストーリーも情報的な現象として解析されます。それは、いくら長い映画であってもDVDディスクの中に情報として時間や物理的制約を抜きにして記録できるということです。

ホログラフィー宇宙を構成している「生命素粒子」

そういうわけで、ビッグバンストーリーは情報的次元で構成されているならば、その情報的な構成要素の最小単位とは、「生命素粒子」というものであろうということを書きました。

「生命素粒子」とは。気功や思考のもとである「気」のことであり、インド哲学におけるプラーナのことと考えていただければ大丈夫です。

そのため、「生命素粒子(気/プラーナ)」は時空を超えて作用するので、遠隔ヒーリングなどが出来るというわけです。

物質次元だと、時間か過去から未来という流れに制約されます。その視点だと、ビッグバン(物質)から生命が誕生したという従来のフレームから逃れられず、私たち人間は運命論や決定論の奴隷に成り下がります。

非手は生まれ、育ち、能力、学歴、人脈、といった過去の原因が現状を創っているという無意識の構造を強めます。これが近年流行っている言葉の、「勝ち組・負け組」、「親ガチャ」という概念のベースになっています。

つまりそれに派生して、弱肉強食(いじめの世界)がどうしても生じてしまいます。

しかし、生命素粒子という時空を超えた因果を考えると、生命素粒子の相互作用からビッグバン(物質)が誕生した、というフレームが誕生し、時間は一方向ではなく、観測者の自由な立ち位置から眺める一つの視点にすぎなくなります。

言いかけると、時間を過去から未来に流れる視点をとっても、未来から過去という流れにとっても、時間は存在しない、という視点をとっても自由ということです。

今回は、この流れから「いじめ」という現象が無くなる状況について考えてみたいと思います。

エントロピーの法則

時間の流れという話から、エントロピーの話をしたいともいます。

「エントロピー増大の法則」とは、すべての事物は、「それを自然のままにほっておくと、そのエントロピーは常に増大し続け、外から故意に仕事を加えてやらない限り、そのエントロピーを減らすことはできない」という法則です。

「エントロピー増大の法則」とは、簡単にいうと、「物事は放っておくと乱雑・無秩序・複雑な方向に向かい、自発的に元に戻ることはない」。

ということです。

エントロピーの法則は、物理次元の大前提の法則です。「水は高くから低きに至る」というわけで、この物理宇宙に存在する事象は、全て変化しますが、その変化の方向性はカオスに至り、バラバラに分解し、崩壊に向かうということです。

そして、この宇宙において、唯一エントロピー増大の法則に逆行する存在がいます。

それが「生命現象」です。生命現象は、自身の細胞壁から内側の現象を、秩序を保ち、維持しようと働きます。簡単に言うと、自分の皮膚の内側は、ホメオスタシス(恒常性維持)の原理で秩序を保ち続ける性質が、生命現象にはあるということです。

この維持と秩序のダイナミックを生命力とも言い変えられます。

老いや病という現象は死に向かうという、エントロピー増大の方向性の一種です。それに対して、健康的で、若さを保ち続けるということは、エントロピーに逆行しているということです。

自然現象は、物質次元におけるエントロピー増大の力と、生命現象のエントロピー縮小の間で上手くバランスを取っていることが見て取れます。

それが、地球上で汚染物質が垂れ流されても、自浄作用で地球全体としてのバランスを結果として取ろうとすることと同じです。

あまりにもその汚染物質量が多すぎると、地球も巨大な生命体ですから、地球のホメオスタシス作用、言い変えれば自浄作用で、根本の改善を余儀なくされる現象が起きます。(※この話はまた、巨大な話に脱線するのでここまでに。)

つまり、私たちの文明が発展している歴史的方向性を概観してみてみると、病の克服、戦争の現象、平均寿命の大幅の伸び・・・というこれまでの人類の経過してきた現象は、エントロピーにあらがう力の増大を意味しているとも言えます。

そして、そのエントロピーの逆向きの力の要素となるものが、生命素粒子ということになります。

エントロピーの二つの顔。「タナトスとエロス」

エントロピーが増大させるに任せると、すべては崩壊し、カオスに至り、無へと帰結します。これを死への方向性という「タナトス」の衝動としても考えられます。

タナトス:ギリシア神話の死神。また、フロイトの精神分析用語では、死への誘惑。

エントロピーの減少の方向性は、それとは逆で、秩序立ち、統合的で、融合的な現象が想定で起案す。これを生の衝動という「エロス」の働きとも言えます。

エロス:1.ギリシア神話の愛の神。2.愛。純な友情および真善美への努力の象徴。

私たちは、タナトスとエロスの狭間で存在しているとも言えます。これらはコインの表裏です。どちらか一方に偏りすぎると、もう片方にそのエネルギーが方向転換するように、出来ているようです。

こうして生と死はダンスするように、互いの現象を表しながら存在していますが、それは螺旋を描くように上昇し、進化しています。

例えば、人類史としての戦争や差別、いじめ、という現象は自分とそれ以外の他者を切り分け、他者を攻撃し続ける現象として考えられます。それは、調和していた家族や手段、社会や国家は、どんどん分離して、争いを生み、結果として個人レベルでは病や怪我、障害をもたらし、結果としてカオスと崩壊を招きました。

これは「タナトス」の働きでしょう。「タナトス」はエントロピー増大の法則について、文学的な命名としてあらわされていると考えられます。

そして、破壊と崩壊がある程度進むと、今度は戦争や差別のない世界や環境を構築しようとより進んだ社会システムを構築しようとします。それに比例して、科学や思想の進化も進み、人間の脳の使用領域も増え、発達が進みます。

レジリエンスの働きにより、災害や戦争、病があった状態の時よりもより柔軟性で効率的なシステムを生態系は獲得します。つまり、戦争や災害、病など同じような状況を繰り返さないよう、以前よりもより進化した状態に生物は移行するのです。

こうして人類という生命現象は進化を続け、文明社会を発展させてきました。これはエントロピーが縮小する方向性で、エロスとして表現されます。

基本的に生命は死や不快な状況を避けます。

科学的技術の普及により、個人の知識獲得量と質、時間の短縮が指数関数的に増加し、生命現象のエロスの力が勝って行くと、より融合、統合的な意識状態が優位になり、多くの人々がワンネスの意識を共有するようになります。

進化を続け、その意識の範囲を人類という種ではなく、動植物や鉱物にまで意識の範囲を広げることが、巨視的な視点から眺めると今後見込まれます。人類という種だけではなく、他の動植物、そして鉱物にも意識の範囲は広がり一つに溶け込みます。

スピリチュアルや神秘主義者の唱えるワンネスの意識状態を個人のレベルではなく、生命種という巨大な枠組みで到達します。

そうなると、またタナトスの働きから全く新しい、よりバージョンアップした宇宙が誕生するのでしょう。つまり新しいビッグバンのような現象が起きるということです。それはどれくらい先の未来なのかは分かりません。

話を現在に戻します。

時間軸を「過去から未来」という認識で宇宙を眺めてみる

時間は存在せず、存在するのは「今ここ」にしかない、という事実から世界を眺めると、時間は、A「過去から未来に流れている」という日常的に多く扱われている視点と、B「未来から過去に流れている」という流れの視点があります。

宇宙万物は時間も空間も存在せずただ在るがままです。その中で、私たち人間が自由に認識視点を選ぶことで、それに即した世界が立ち現れます。

Aの認識視点は、時間がたつとともに、物理的エントロピーは増大し、物質はカオスに向かい、崩壊に向かうという視点です。

逆に、Bの認識視点では、生命現象はエントロピーが縮小する、つまり時間がたつとともにより秩序的で調和的な方向に収束していくということになります。

このように現象を評価するときに、エントロピーで考えると新しい視点が望めるかもしれません。

つまり、いじめ、戦争、差別といった現象はエントロピーを増大させるAの認識視点(物理法則が宇宙の法則の主であるという認識)だけで物事を捉えると、避けようのない現象として、戦争や差別、いじめはなくなりません。

人間は、唯物論的な観点で見る癖がついてしまい、「生命を物質の一部として捉える癖」があります。その視点だと、生命はいずれカオスと死にむかい、いずれ滅びゆく無意味な存在という図式が成り立ちます。

ーその3に続くー












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