南堀端お榎さん
「次は、市役所前ッ、市役所前、お下りの方は、押しボタンを押してお知らせ下さい。なお、お下りの際はバスが停まってから、席をお立ち下さい」
毎朝のことではあるが、寿司詰めの通勤バスであろうと、ガラ空きになる真っ昼間のバスであろうと、味気のない、録音テープの車内放送に、矛盾を感じながら、他の乗客とともに吐き出されるようにされながら、バスのステップを降りる。
混み合った人肌のジットリした感触と汗臭さ、手入れのゆきとどいていない女性客の髪の臭いは、どうもいただけない。
金魚鉢の水面で、口をパクパクしている金魚同然に、新鮮な空気を得て「ホッ」とする。
時間帯が同じな為か、バス二台分くらいのスペースしかとられていない停留所に、4台、五台、六台、七台つぎつぎと通勤バスが、到着する。その都度、吐き出される人、人、人。
初老の域に達したのか、白いものが目につく勤め人、カラフルなスカートをなびかせているナウな女の子、ノッポ男にズングリ娘…。
何か疲れを漂わせている顔が、やたらと目につく。"自分の顔色も、他人からみれば、あのように見えるのかな"自問自答しながら陸橋東側南口の階段を登り左に折れる。バスから降りた大半の人達は一番町、二番町、三番町の官公庁、大手商事会社のビル街にか流れていき、立教を渡る人は、ごくわずかな人達である。
少し血圧気味のためか、陸橋独特の振れが大きく感じられる。陸橋西詰めから、お堀端の八股の榎を眺めながら階段をおりる。
市内電車のブレーキの鉄粉や、自動車からの埃のためか、榎の木の芽や小枝は、薄汚く汚れている。
ちょっと立ち止まり、腕を伸ばして小枝に手をかける。「ポキッ」と難なく小枝は手中におさまり、ザラザラした砂ぼこりと、葉ダニが付着しているような手ざわりがした。
自分が手折りながら、イヤなものを手にした時のように手を払い、あらためて見直してみる。
百余年もの樹齢を思わせる古色をしめし、
庶民的信仰から生じた数々の故事来歴に支えられ、親しまれて来た「お榎さん」の梢には直径一分余りの木の実をつけているが、何か樹勢そのものが失われつつあるような気がしてならない。
三十七年前のちょうど今日、松山空襲の戦火に焼けることもなく、自然の威容を誇りつづけ、松山っ子の目に郷愁を誘ってくれているが、神木的な存在から消毒や剪定などの手入れも思うにままならず、風雪の洗礼を受けるにまかしている。当然の結果であろう。
街中に残された戦前の松山の面影はいくばくもなく、つい先日からまで、指呼の間に望むことの出来た日本銀行松山支店も、多くの市民におしまれ反対されながら、取り壊されてしまっただけに、堀端のお榎さんは、昔を偲ぶ一区画として、いつまでもいまの姿で残ってもらいたいものだ。
市役所前の電光時計をみると八時を示している。
"よし今朝は、お榎さんに、お参りをして行こう。毎朝素通りするだけでは能もないワイ"
そう考えると、階段降り口西側にたてられている「松山電信発祥の地」の石碑の横につくられた小さな参道を通り抜け、数メートル下の斜面の祠に参拝した。
いつか「市役所前のお稲荷さん」と呼んでいた人があるが、本当にお稲荷さんと見違うほどはでな幟と、真赤な鳥居の⛩乱立には、いささかの抵抗を感じさせられた。
お榎さんの周囲は、コンクリートで固められた参道ができてしまっており、ズボンの尻を破りながら土手で滑りおりた少年時代からみると、相当の変化が見られ、歳月の流れをあらためて思い知らされる。
「アッ!」参拝をすませ数歩の坂を登りかけた私は無意識のうちに、驚きとも、喜びともわからぬ声を出していた。
そのには、茶色にさびついた街灯の「菊花台」があるではないか。
参拝のためにおりるときは、幟りや鳥居の方に気をとられ、まったく気づかなかったが、石碑の西側にある堀沿の白いコンクリート壁の南と北に、それぞれ位置しその間に四基のコンクリート制の柵受けが残っている。
急いで駆け寄り撫でてみる。
まさしく鉄製の街灯の基部にあたる「菊花台」である。この台座の上には、鉄パイプ製のポールが、立ち、戦前から戦中初期にかけ、市役所前から南堀端の御門前、さらに続いて西堀端、札の辻に至る一キロ余りのお堀に沿って電灯が灯され、お堀を照らしていた。
時は移り、戦時中の金属供出の浮き目にあって「菊花台」から上のポールと、パイプの鉄柵はとりのぞかれ、三寸角大の木製の柵にかわっていたが、現在は、お堀の美観をそこなうとかで、コンクリート製の擬木柵に変身してしまっている。
「戦前の松山」を、まつやまの名にふさわしい本来の松山としてしか認識していない小人的な思考しか持たない愚者が、観光温泉文化都市と呼ばれる現代の松山市にただの二個しかのこされてうない「菊花台」を、お榎さんの一隅で発見した喜びは、堀端を知っていてくれる松山っ子であれば、きっと、懐かしさを共感してくれるであろう。
「シーヤンやるか」「オーやるか」「百数えんといかんのぞ」
「ホリバタノイヌノクソ、ホリバタノイヌノクソ、ホリバタノイヌノクソ…」
夏休みに入った当日の街の夕暮れ時は、悪童ドモの格好のあそびばになり、数をかずえるにしても「堀端」をもじっていたのは、堀端周辺の悪童達だけにかぎられたものでもなかったであろう。
戦災で家を出る焼かれ三十七年。隣りの家は炭屋さん、そのお隣は、米屋さん、うどん屋さん、毛糸やさん、帽子屋さん、小道具屋さん、かまぼこ屋さん、風呂屋さん…。
人の温かみのある町、生活のために人のすむ街であり、横丁もあり、その街の隣りの堀端は、ことさら懐かしく思い出を誘うと古里である。昭和五十七年八月号 かがりび より。
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