三角屋の凧

初春、寿ぎのひとつ門松の小枝を門柱に飾り立て、玄関内には春の装ひに、一点の角凧を壁に掛けてみた。
 子供の頃の年の瀬や正月には、近くの田はたに積まれた藁ぐろに背もたせ、凍てつくような寒さの中で、冷たい風を、避けながら、思いおもいに凧を揚げ、強風に糸を切られた凧を追い求め田畑の畝を、飛び越え走った思い出が、蘇る。そのような子ども達の巣がたが、あろうかと、付近の田圃や畦道に目をこらしてみたが、凧一張、子供一人もみられない…
  「お父さん、凧買うてぇ…」
 「凧?買わいでもあろうが…」
  「あれは奴凧じゃのにっ…角凧買うてぇ」
   「阿保、奴凧で🪁上等じゃ、角凧なんかお前にはまだ早い。なんぼ奴がええもんぞ。風が強かろと弱かろと、どっちにしてもよう揚がろがぁ…。お前が、四年生になったら買うてやるけんの」
買ってくれなかった悔しさを、小さな体一杯に表わし、奴凧をひこずりながら表に飛び出す。
 当時松山市内の、南北に伸びる街並みの中で、最も長いとされていた萱町の南部、萱町一丁目のほぼ真ん中あたりを、伊予鉄高浜線が、二分して走る。
 電車道は、その踏切りから北西に向かって大きくカーブしている。
そのため西に下がる道路と電車道の間はちょっとした末広がりの広場となり、小学校に登校する生徒の集合場所や町内の子の遊び場ともなっていた。
 
電車の線路側には、軌道に使われていた枕木を縦に打ち込み、悪童の線路への立ち入りを
拒むように有刺鉄線を二条、三条と打ちつけ柵となっている。
ちょうどその広場の南側に、間口三間余りで、奥行一間ほどの角地を利用した店屋が、あった。
 店の主人は痩身で、さだかではないが、傷痍軍人で退院された人と聞かされており、丸刈り頭の精悍な風貌が、そんな噂を物語っていた。
 
 店は、主に子供相手の玩具屋で、パッチン、蠟石、ランコン、独楽、オハジキといった類の品々と鉛筆、半紙、筆など、細々とした文房具類が、置かれている。
 正月近くになると店頭に、凧や羽子板も飾られて子供心を執拗にくすぐる。
問屋から卸された出来合いの凧や、グライダーに子供達は見向きもしない。それというのも、その店の主人の手作りの玩具が、丈夫で、特に凧はよく揚がることを知っているからだ。
子供達の間では、その店を「三角屋(さんかくみせ)」と、呼んでいた。
角凧を買ってもらえず、家を飛び出した私の足も自然「三角屋」に向かっていた。
道路端に縁台がだされると、近所の子供達は
その縁台の周囲に集まる。
 
電車道の柵の足許に積まれていた丸竹を適当な寸法に切りとり、丸竹が、割竹に姿を変え、その割竹が、さらに細かく裂かれてゆく
 
あぐらをかいた片膝の上で、割竹は小気味よく鉈🪓と、切り出しで、剥がされ、紙凧の骨竹となってあらわれる。
 
「おいさん、パッチンおくれぇなっ」
子供の商いだけに、縁台での作業は、しばしば中断されるが、愛想よく子供の注文の品物を渡し再び縁台に座る。
 
縁台を取り囲んだまま待ち続けていた子供達の目は、再び主人の手許にむけられる。
 
骨竹が出来ると柵の上や、奥まった商品の上に拡げられ乾燥される。乾燥の終った竹は器用に組まれ、要所要所は凧糸で、きつく結ばれ、和紙が貼られ糸が通される。
 
「三角屋の凧」と、呼ばれ、親しまれるわけは、和紙に描かれた武者絵の良さと、通された凧糸の調整にあった。
 
表に張られた六本の糸を何回もしごき、しごいては放し、糸の振れ癖を直し、真を独特の武者絵が彩色も鮮やかに仕上がりをみせ、完成した角凧は、店の天井に張り巡らされている糸の上に並べられる。
胸の高さまであるような凧は、六年生の子供づれの大人が買って行く…。
 
これを眺めたとき、言い表しようのないさびしさを感じ、奴凧をさげたまま近くの田圃(現在の千舟町七丁目児童公園付近)へ足をのばした。
風が強い。藁ぐろは、風のため寝癖のついた頭のように、ささくれ荒らされており、手にしている奴凧をそのまま揚げたのでは、きり捻みとなって落ちてしまうことは、明らかだ。
かぢかんだ指先に息を吹きかけ暖をとり、奴凧の中心の真下に藁で作った足をつけ、後貼りの糸を奴凧の袖付けあたりで縛り合わせ、奴の胸を前に突き出すように大きく膨らませ、風の抵抗を少なくして冬空に放り上げる。
 
クルクル、クルクルと、とかれてゆく糸捲きの回転を止めると、奴凧はそのショックで、両袖が背中についてしまうほど痩せた形に変形し、バタバタと乾ききった忙しげな音を立てながら急上昇する。
 見様見真似での凧揚げだが、父の言葉どおりよく揚がる。
頭の真上の方まで、糸捲き一杯に揚がった凧を見ていると、いつもとなく、角凧をあげた上級生が、近寄って来た。
上級生は、他所の町内の子で名前も知らない。
"これが一番嫌なんじゃ、他所へ行ってくれ"
と、胸の中で叫びながら我慢する。
角凧の子は動こうとせず自慢げに凧糸をポケットに差し込んだまま揚げている。
 
悔しくてたまらないが、確かに角凧は、風格がある。
大空に舞う角凧からは、後の張り糸に貼り付けられた音紙の響きが、「ブォーン」という唸りを挙げて地上に伝わってくる。
音紙は、紙質を選ぶこともなく、新聞紙でも使えた。三センチ✖️四センチ角くらいの小さな紙の端に糊をつけ、張り糸に沿って横一連に貼り付けただけのもので、糊が乾燥するほどよく共鳴し低音のすばらしい唸りを響かせていた。
"一回だけ自分の背丈くらいのある角凧を揚げてみたい"
と、念じながら、威勢高に手にしていた奴凧の糸を、しゃくり揚げ、遊んだ記憶が、懐かしく脳裏をかすめる。
記憶は小学二、三年生。昭和十四、五年のことである。

還暦に手の届こうとするとしになりながら、
新春を迎えるといまだに角凧の夢が忘れ難くついに「三角屋」の消息を尋ねて歩く。
環境が急変してしまった街並みで、戦前から戦後にかけての居住者を探し尋ねるのはと案じたが、幸に、健在でおられることがわかり、千舟町に住まわれているM氏宅を訪問する「出渕町にいた紋屋の一色ですが…」
と、終戦後消え失せてしまった町名と、名前を告げる。年老いた三角屋のおいさん(よばせてもらう)は、戦後四十五年余りの長い空白を取り戻すように、しばらく瞑想したのち、白くなった眉毛のしたから、目をしょぼつかせ「お母さんは元気かなっ…」と、話はすすむ。
 
旧情を交わすなかで、子供からの凧の話をした挙句「三角屋の凧」の作成を依頼した。
平成二年十月二十一日には、第五回国民文化祭の野外イベントの一つとして、愛媛県の凧どころ、喜多郡五十崎町の小田川河川敷で、米、英、佛、豪などの九か国、国内からは、富山県の越中だるま凧、新潟県の六角凧、熊本県の連凧、北海道の立体凧が、それぞれ秋空に舞い、見物人を楽しませた記憶も新しいが、これに参加し、あるいは見物した人達の大半の子供や父親たちは、祭り騒ぎの中の凧というものだけしか知らない、いわば完成されたものだけしか知らない偏狭の喜びを、味わっているとしか思えない。
 
祭りのなかの一枚の凧。一日だけの凧ではあまりにもはかなすぎる。

 子供の願いというものを知り、それに触れ、そのものと対決することによって若返り完全に童心に帰る事ができる。
 
たった一張りの「三角屋の凧」との出会いは、私にとって忘れられない体験であった。
 地元あるいは他郷の子供の遊びの中に、根づき刻まれているものを、郷里の風俗文化の裏面史として大切に保存し、子供達にも味わせてみたいと、我が家の壁にかけた角凧に願っている。

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