蛇の目傘☂️番傘
真夏日のある日の午後のことである。
わたしは家内と連れ立ち、額に汗を滲ませながら"道後温泉"に下りたった。
今にも一雨来そうな雲行きで、灰色と黒色の絵の具を混ぜ合わせたような色合いを示している。
(どうしますか?…)といいたげに躊躇しながら私の顔色を伺っている家内の視線を感じる。
「車でいくほどでもなかろ。歩いて行くか」
そっけない私の言葉に「そうですネ」と、相槌を打つ。
家内に大きな西瓜を持たせていたので、それが本人にとってはなはだ迷惑であったかもしれないと思いはしたものの、別に手をかすでもなく、私はサッサと歩き始めた。
右手に西瓜、左手に日傘というありふれた夏の姿で家内も後についてくる。
私達が訪ねようとしている所は、温泉の町、道後でも古い由緒と高い風格を誇りとしている「ふなや」の近くの小さな洋服店で、道後駅🚉駅から、真東に、距離にして二百メートル、一本道の坂の上にある。
歩き始めて、ものの五十メートルも進まない間に、大粒の雨が私達の行く手を遮るように降り出した。
慌てた二人は、放生池の前では逃げ込む先もないままに、古美術商とおぼしき店先の形ばかりの軒下に身を寄せた。
「やられたのお…」苦笑いしながらハンカチを取り出し濡れた頭や顔を拭いてはみたものの、薄いハンカチ一枚ではそれほどの効果もなく、ずぶ濡れの姿は、あまりにも惨めなものである。
その上、私が来ていた半袖の開襟シャツは、家内が作ったご飯糊を、パリッときかせていたものであったが、雨にたたかれ腑抜けになっては様にもならず、さらにご飯糊の独特の臭いが漂いはじめ鼻につく。
人一倍鼻が利くのでよけいうんざりする。
家内も、当時としては流行りであったのであろう、子供がさしかけてもよいほどの直径五十センチ余りの小さな純白の木綿の日傘を差していたがこれとても篠つく雨には役立たず
憐れな姿をさらしていた。
夕立を思わせる大粒の雨も数分後にはほとんど止んでしまい、霧雨に変わっていた。
私はなす術もなく、ただ呆然とうなだれてズボンの裾に跳ねあがった雨飛沫を眺めて「仕方ない、行くぞ」
と声をかけ、再び歩き出した。
肌にまつわるズボンやシャツの着心地の悪さや、靴の👞感触はなんとも言えず、腹立たしいままに俯いたかっこうで、大股に緩やかな坂を登り始める。
御手洗い橋の四辻を左に曲がれば、本湯があるがその温泉にも当分遠のいている。いつから入ってないのかなッ等と考えるともなく歩みを進めていると、フト前から来る人の気配を感じた。
目をあげると、そこには薄いビビットブルーの長コートを羽織り、手には細骨の蛇の目傘を差した色白の、一見して枠筋の女性であることが伺える姿であった。
それにしても美しい、私は立ち止まっていた。
顔貌が美しいとか、器量が良いッと言った美醜の類のものを言っているのではない。
その情景である。
大正末期に出来たという、"みたらいばし"
は、雨に打たれ、長年の人の歩みによって磨かれたのであろう石肌の滑らかさは、一層歳月の流れというものを漂わせている。
その橋を背景とした上に、見た目にも涼しげさを感じさせる"高下駄"という小道具入り構図は、本当に絵になる美しさである。
濡れ鼠となった私達の横を通り抜ける女性は、別にこちらを意識することもなく、シャキッとした背すじと少しばかり小腰をかがめた下半身は心憎いほどの小粋さを演出し、爪先を突っ込んで行くような足どりで、通りを過ぎて行く。
また、その後ろ姿が艶やかである。襟髪は、左右からアップにし、後頭部正中線で髪の毛先を中心に組み込んだ髪型で、とにかく暑くるしさを感じさせる日本髪にしては、夏に合った髪型で、全体から醸し出す風合いは、その人の感性ですべてをみたされている。
その髪型はだいぶんあとから、"天神髷"と、呼ばれるものであることを知った。
一年を通じて雨が多い為であろうが、日本人は雨に対する独特の美意識を持っている。とかいわれているが、竹と和紙で作られた、繊細でしかも優美な蛇の目傘を手にした粋筋は坂道を下がってゆく。下がって行くほどに蛇の目が大きく残像化し、その中に後姿はかくれてしまった。
それにしても美しい。私は立ち止まったまま胸の中で繰り返しながら見とれ見送っていた。
蛇の目や唐傘については、嫌な思い出が残っている。
昔の商家には、店の屋号や、家紋を番傘に入れているのがほとんどであった。
私の家は、家業が「紋屋」であったことから、門前の小僧と同様に「紋」についての知識?は多少なりとも持ち合わせていた。
そのため、家紋は九ッ割三ッ引き(最近は丸に三ッ引と呼ばれているが両者は似て異なる紋)であるのに何故か、店の屋根に乗せられた看板や軒下の看板、その上に店の番傘にも大きく○に一と家紋と異なるものが、画かれていたのが、腑に落ちなかった。今にして思えば、姓の頭文字の一を○で、囲んだものではなかろうか等と推測したりもするが定かではない。
つづく
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