病んでる街 / kamui YC2.5
僕は仙台の骨董商。
僕は仙台生まれ仙台育ち。
ワルそうなヤツは大体ガチの他人。
仙台は病んではいない。
普通の街だ。
自ずを"普通=標準以上"だと思っている傲慢さが伺える、普通の街だ。
僕は仙台が好きではない。
帰属意識もあまりない。
仙台の経済データや人口や地代の増減で一喜一憂は、絶対にしない。
でもきっと仙台で死ぬ。
仙台以外で死ぬなら、死に際に「仙台で死にたかった」と思いながら生き絶える。
これは感情論ではなく決まっている、それが地元だ。
僕にとって大切な街だ。
病んでる街
僕には地元の他に大切な街がある。
2年弱過ごした東京の外れの小さな街。
そこで僕はkamuiと出会い、友人になった。
彼はまさにエキセントリックワンダーボウイ。
※当時はまだボウイだった。
彼のヘッズと同じく、彼にヤラれた。
冒頭から続く"病んでる街"は彼の1stアルバムから。
病んでる街・Yandel City は架空の都市だ。
僕らが過ごした"あの街"を揶揄っているわけではない。
現実を凌駕した、ハードコアにサイバーパンクな都市がYandel City
きっとクーロン城みたいに多層に連なる住居とダクトとで空が見えない、そんな街。
それは僕も分かってはいるが、どうしても聞いた時に"あの街"を想像せずにはいられなかった。
Yandel Cityの住人の資格
彼が描く世界の片隅には、僕の席はなさそうだ。
Yandel Cityを通して聴いた時は「僕はもう彼が描く世界の住人ではない」と悟ってしまった。
同時に勝手に想起して、"あの街"にも居場所はないとも思い知らされた。
それからはあまり彼の音楽は聞かないようにした。
傷つくから。
それでも彼の動向はチェックしていた。
今年のはじめ頃、久しぶりに本人から連絡があった。
プロジェクトが進行していて、うまく行きそうだったりどうだったり…
僕からもいろんな話をした。
いい機会だと思い久しぶりに彼の楽曲を聴いてみた。
特有の苛立った表現、生き急ぐゆえの疾走感、伝えたい感情の重み。
10年前(いや、きっともっと前から)変わらない彼の本質。
カムイの名を掲げるに値する、まるで人に非る者のような情熱。
YC2.5とは
「やっぱりお前ほどの情熱はねーわ」
率直な感想だ。
僕には彼ほど、自分の生き様と、思いを告げる熱意はなくなってしまった。
僕はYandel Cityの住人ではいられない。
でも、居場所がなくなったと捻くれた頃に比べると晴れやかな気分で聴けた。
住人ではなくとも、その街を楽しめる術を僕は知っている。
彼はまだまだ足掻いている。
"あの街"かYandel Cityのいずれかで。
俺もまだまだもがいてる。
仙台という、病んではいない、普通の街で。
"あの街"とは300km
Yandel City とは距離で測れない程遠い場所に僕はいる。
でもたまにkamuiが織りなす街へトリップさせてほしい。
それがきっと叶うのが明日発売のYC2.5
その中でも僕はもじもじと、所在なさげにいるであろう。
でもそれを心地よく思えるほどにはkamuiも、僕も大人になった。(なってしまった)
さあ、迎える8月4日。
僕を盛大に傷つけておくれ。
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