キャメラも芝居するんや 映画カメラマン 宮川一夫の世界
⭐宮川一夫プロフィール⭐
1908年2月25日、京都に生まれた宮川一夫は、1926年、18歳で日活京都に現像部の助手として入社した。現像の仕事を3年ほど続けた後、写真家の助手になったという。撮影監督としては、尾崎潤監督の「お千代傘」(1935年)でデビューした。稲垣浩監督の『無法松の一生』(1943年)で美しい映像が評価され、その後、溝口健二、黒澤明、小津安二郎、市川崑などの名監督の作品を撮影するようになった。黒澤明監督との初仕事となった「羅生門」(1950年)は、日本映画初となるヴェネチア国際映画祭金獅子賞、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した。溝口健二監督の「雨月物語」(1953年)は、イギリスのエジンバラ国際映画祭で最高賞を受賞した。黒澤明監督の「用心棒」(1961年)でNHK映画賞最優秀撮影賞、「おとうと」(1960年)、「はなれ瞽女おりん」(1977年)で毎日映画コンクール最優秀撮影賞を受賞するなど、受賞歴も多い。おとうと」の撮影では、物語の舞台である大正時代の雰囲気を出すために、カラー部分に銀を残すという独特の手法を生み出しました。1978年に紫綬褒章、1983年に旭日小綬章、1992年に山路ふみ子文化賞、川喜多賞を受賞しています。"監督と撮影監督は夫婦のような関係である "という持論のもと、60年以上にわたり40人以上の監督と仕事をしてきました。映画136本、テレビ映画8本を撮影し、1999年8月7日に91歳で逝去しました。
ナレーション:ファインダーに全神経を集中させて、被写体をフィルムに描いていきます。これまでに回したフィルムは実に35万フィート。日本が世界に誇る映画カメラマン、宮川一夫さんです。宮川さんは今年85歳になりました。これまでコンビを組んだ監督は黒澤明、溝口健二、市川崑をはじめ、日本を代表する映画監督ばかり その数は42人。撮影した劇映画は145本にものぼります。昭和25年に作られた映画『羅生門』のセットの額は今も宮川さんの自宅に大切に保存されています。『羅生門』は黒澤明監督が大映京都と一年の契約を結んで作られた作品。黒澤監督は初めてこの映画で宮川さんとコンビを組みました。
黒澤明:大映っていったら宮川さんですわね。当然、宮川君とも仕事をしたかったしね。『羅生門』を撮るひとつの楽しみは、宮川君と仕事をすることですよね。
宮川:黒澤さんと仕事をするなんて思いもしなかったですね。驚きました。
ナレーション:後にヴェネチア国際映画祭でグランプリを獲った『羅生門』。映画会社の違う二人が組んだこの作品は実験的な試みに溢れていました。『羅生門』のカット切りと書かれたフィルム缶です。宮川さんの自宅には134本のカット切りが全て残されています。カット切りとは撮影済みのネガフィルムの断片で、テストピースとも言います。カメラマンがフィルムの現像の具合を見るために残すもので、このテストピースを頼りに照明とレンズの絞りの具合を決めました。映画『羅生門』のテストピースを繋いだ映像です。テストピースは実際に映画で使われる映像の前後何コマかを切ったもので映像として映し出されることはありません。テストピースに映っていた黒澤監督、当時42歳。44歳の宮川さんとのコンビは情熱と情熱のぶつかり合いでした。
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