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映画『「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち』
あらすじ:2011年3月11日に起こった東日本大震災で、宮城県石巻市の大川小学校は津波にのまれ、全校児童の7割に相当する74人の児童(うち4人は未だ行方不明)と10人の教職員が亡くなった。地震発生から津波が学校に到達するまで約51分、ラジオや行政防災無線で津波情報は学校側にも伝わりスクールバスも待機していた。にもかかわらず、この震災で大川小学校は唯一多数の犠牲者を出した。この惨事を引き起こした事実・理由を知りたいという親たちの切なる願いに対し、行政の対応には誠意が感じられず、その説明に嘘や隠ぺいがあると感じた親たちは真実を求め、石巻市と宮城県を被告にして国家賠償請求の裁判を提起した。彼らは、震災直後から、そして裁判が始まってからも記録を撮り続け、のべ10年にわたる映像が貴重な記録となる。
当日の行動
14:46 地震発生
14:50頃 校庭に移動し、そのまま校庭に待機14:52大津波警報 防災行政無線(予想津波高6m)
15:10頃 大津波警報 防災行政無線(2回目)15:20頃消防車「高台避難」呼び掛け 大川小学校前を通過
15:28頃 石巻市広報車「追波湾の松林を津波が越えた」と「高台避難」を呼び掛け、大川小学校前を通過
15:35頃「三角地帯」への移動を開始
15:37頃 大川小に津波が到達
このドキュメンタリーは後世に残る映画です。見て、知るべき映画です。
寺田和弘監督の言葉
「裁判なんてしたくなかった」これは原告となった遺族の声です。
なぜ遺族は裁判に踏み切らざるを得なかったのか。画期的と言われる仙台高裁判決を社会はどう生かしていくのか。こうした思いから、「生きる」大川小学校津波裁判を闘った人たちを制作しました。
映画は、津波が大川小学校を襲った後、わが子を見つけるために保護者が必死になって学校に駆けつけた、その日から始まります。「あの日何があったのか」「なぜわが子が学校で最期を迎えたのか」、ただそれだけを知りたくて、親たちは石巻市教育委員会の説明会や事故検証委員会などに出席し、その様子を記録し続けました。この映画は、遺族が撮影してきたその映像記録を軸に描いています。
私は遺族が記録した映像を何度も何度も繰り返し見続けました。しかし遺族の求めた答えを、そこから探し出すことはできませんでした。その一方で、説明会を開催するたびに遺族と行政側の溝が広がり、深まっていくように感じました。そして私は、この様子を映画を見てくださる方々に追体験してもらいたいと考えるようになりました。遺族の立場になって、自分事として、この映画を見ていただければと思っています。
映画の中でも触れていますが、裁判を起こした遺族は約3分の1です。原告遺族の中でも、考えや思いはそれぞれ違います。私もまだ一度も話したことがない方もいます。まだまだ分からないことが多い、いや、それどころか遺族が求め続けている「あの日何があったのか」や「なぜわが子が学校で最期を迎えたのか」ということすら、未だに明らかにされてはいません。
映画を制作しませんかと原告団会議で初めて提案したとき、出席した遺族らの多くは反対しました。私が何をしたいのか具体的に提示できなかったこともありますが、一緒に闘った仲間がまた殺害予告されるのではないか、それを防ぐためにはもう表に出ない方がいいのはないかと考えたと映画完成後にある遺族がその時の思いを話してくれました。
この映画を通じて、裁判で闘わざるを得なかった遺族の苦悩、子どもが生きるはずであった人生を生きなければと葛藤し続け、前を向き始めた遺族らの姿を知っていただきたいと思っています。共感しやすい感動的な奮闘ストーリーがある映画ではありません。起きた事実を記録しているため、見ていて、苦しく、つらい場面があるかも知れません。それでも「誰にも同じ思いを二度としてほしくない」と闘った親たちの生き様を、劇場で多くの方々と一緒に観ていただければ嬉しく思います。
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