ETV特集 「新型コロナ こぼれ落ちた命 ~訪問看護師たちが見た“自宅療養”」:後編
自宅で入院待機となった新型コロナウイルス陽性者。第4波の神戸で彼らを訪問した看護師たちがいた。当初は介護サービスが止まった高齢者などへの生活支援が中心だったが、次第に命にかかわる重い症状の人への対応が増えた。血中酸素飽和度が低下してもなかなか医療に繋がれない。家庭内感染で自身も発熱しながら衰弱する親を看護…。訪問看護師たちと本人や家族が当時の経験と今も残る傷痕について証言する。
【初回放送日: 2021年10月16日】
ナレーション:神戸市内の病床使用率が連日9割を超える中、医療機関も病床を増やす努力を続けていましたが限界がありました。
山崎初美(神戸市健康局保険企画担当局長):症状が悪い人から病院にいくのでそこからなかなか改善が難しくなるし、病床も(患者の出入りが動かず)固まってしまってなかなか他に入る人がいなくなって・・・そして患者はどんどん増えていく中で家にいる軽症の人とかまだ中等症で治療したらいい人がしばらく治療が受けられなくて悪くなってしまうこともあったので。本当に負のサイクル、まさしくそうだったと思います。
ナレーション:病床があかない中、龍田さんは葛藤していました。龍田さんは16歳のとき交通事故にあい、車椅子の生活となりました。訪問看護ステーションを立ち上げたのはより厳しい立場にある障害者や高齢者を支えたいから。しかしそういう人ほど入院が難しくなっていると感じていました。龍田さんが訪問した90代の青木喜久美(仮名)さんは発熱し、受診した病院で陽性と判明。家族は高齢の喜久美さんには入院が必要だと訴えましたが、医師から意外な言葉がかえってきたといいます。
孫:入院したいって先生にお願いしましたけど、一番陽性者が増えていた時期だったので「30代、40代の方が死んでいるのに高齢者を受け入れることはできない」と言われて・・・「もしあなたがコロナに感染した場合、今ならあなたみたいな若い人を病院は助けます」って言われました。
私が幼いとき、おばあちゃんが育ててくれたようなものだったので・・・母が仕事で忙しくて家にいなかったので。おばあちゃんは大事な家族にかわりないので若者だとか高齢者だからという年齢で分けて命の選択をされるというのは凄く不快だったし・・・「じゃぁ、連れて帰って大丈夫なんですか?」ってきいたら「それはわからない。急変するかもしれない」って言われたので、病院に入れないんだったら自宅でなんとかできることをしようという思いでした。
ナレーション:もうひとり龍田さんが訪問した20代で知的障害のある辻愛美さん(仮名)。入院先が決まらず、母親がつきっきりで看護をしていました。
龍田:無口な方ではあったので、しんどい?とかきくと「うん。」とか・・・ご飯食べてる?とか今熱あるけど体はしんどくない?って話しやすいように工夫はさせてもらいました。
ナレーション:訪問を開始した時、パルスオキシメーターの数値は90%前後。日に日に悪化し、訪問5日目 ついに81%にまで低下します。龍田さんは今すぐ搬送が必要と強く訴えました。
龍田:脱水もきてましたし、3分間に一回の無呼吸が1分間続いたりとか もうこのままでは命は助からない。やっぱり病院での医療を受けさせてあげたい。家族さんもそこを最後の綱として持っておられたので。
ナレーション:なんとか入院が決まりましたが、人工呼吸器が使える重症病棟ではありませんでした。救急車を待つ間 龍田さんは母と娘がふたりで過ごせるようにしました。
龍田:病院に行って良くなろうね、って話はしましたけどこれが本当に最期になるかもしれない。後悔がないように刻んでほしいなと。救急車の後ろのドアが閉まったときにそこで(母親が)泣き崩れていたのが見てて凄く辛かったですね。
ナレーション:その後、愛美さんは病院で息をひきとりました。
龍田:ひとりの空間になると、全部思い返すんですよね。搬送した時の状態とか泣き崩れるお母さんとか・・・全部が重なってきたりしていたので、それから自分たちの心を落ち着かせるか。それを常に考えるようになりました。やっぱり自分の身を守らないと精神的にもたない。自分たちが潰れると訪問する人がいない。倒れるわけにはいかないというのがあったので・・・
ナレーション:受け入れがたいことが毎日起こる中、また最悪な事態がおきました。龍田さんが訪問していた佐藤さん一家。共に視覚障害がある80代の夫婦。ふたりでディサービスに通うことを楽しみにしていました。そんなふたりと次女が同居し、長女もすぐ近くに暮らしていました。始まりは父親がベッドから転落し、骨折したこと。長女・景子さんが病院に連れて行ったところ骨折が複数個所あり入院が必要といわれました。ところが入院の際のPCR検査で父親の陽性が判明。自宅に帰るように言われたのです。
長女・景子(仮名):家でみれないと言われた状態の人を感染症をもったまま連れて帰る・・・どうしたらいいのかなって。ちょっと一瞬パニックになった。医療から切り離されてしまったあと家でどうするかという感じはありましたね。
ナレーション:目が見えず、骨折している父親を連れて帰りました。なんとか二階の部屋まで運びましたが、夜中にふたたびベッドから転落。長女の景子さんはそのまま泊まり込んで次女とふたりで父親を看病することになりました。
長女・景子(仮名):体重が70キロ近くありましたので全然持ち上げられないからということで床の下に敷布団だけ置いてそこで寝た状態で・・・父は床の上で療養になってしまった。
ナレーション:保健所からの依頼で龍田さんたちが訪問することになりました。
龍田:お父さんは動けない状態だったので・・・このままだと床ずれになるなということは目にみえてたので、エアマットを入れてもらったりしました。
長女・景子(仮名):相談する人が看護師さんしかいらっしゃらなかったので、水を飲むときにトロミ剤を入れたほうがいいのかとか様々な事を龍田さんに相談しました。
ナレーション:その後、母親と次女の感染が発覚します。しかし骨折して動けない父親を長女のみでみるのは困難でした。
長女・景子(仮名):妹も熱が早くから出ていて寝かしてあげないといけないんですけど、父の体が大きいので1人で抱え上げられない。例えばオムツ交換や排便の処理とか・・・便をしてもそっとしておいたらいいんだけど父親が自分で処理しようとして手をドロドロにしたのを私と妹で汚物が付いた手をふいたりとか・・・オムツ替えだけで30分くらいかかって。疲れてしばらく動けない。
ナレーション:姉妹が必死に父を世話する中、龍田さんは母親の異変に気が付きます。母親には糖尿病がありました。
龍田:お母さんはしんどくない、苦しくないとずっと言ってたんですよね。だけどパルスオキシメーターの数値が下がりだしたので、そこは注意してみるようにはなりましたね。
ナレーション:酸素投与したくても医師がいない。入院もできない。やれることは限られていました。これは姉妹がつけていた両親の体温とパルスオキシメーターの数値です。母親の数値はどんどん下降していきました。
龍田:これはただごとではないし、このままだと数時間に亡くなると思っていたので・・・。
長女・景子(仮名):そこまで母親が悪くなっているのかと・・・お薬もいただけなかったし、訪問看護師さんがきていただけましたけど見守りだけで点滴もしていただけない状態で・・・その間に襖一枚へだてて父親も何か察したみたいで「お母さん悪いんか?」っていいだして。目が見えないのに父親が必死に起き上がろうとして母の方へ行こうとしてたんですけれども・・・
龍田:ただその時はお父さんにかまっている余裕はなかった。お母さんの呼吸をどうしていくか、パルスオキシメーターの数値が80%の段階で夜間だったんですけど保健センターに連絡を入れて、もう死なせたくなかったんですよね。助けたい。ほしいものは酸素。
ナレーション:搬送先が決まらない中、救急車の酸素で一時しのぎをすることになりました。一台の救急車が現場にいられるのは二時間程度。母親は3台の救急車に乗り換えて酸素吸入を続けました。その最中に長女の景子さんはある決断を迫られます。保健所から重症病床での治療を希望しないと表明すれば搬送先がみつかるかもしれないと言われたのです。
長女・景子(仮名):延命措置は希望しないと言ってもらったら病院を探せるということで・・・延命措置をしてもらえないっていうと何もしてもらえないのかなって・・・結局救命処置をしてもらえないのかなって、頭によぎってなかなかそれでお願いしますって言えなかったんです。今の令和の日本で点滴一本、酸素も全然入れてもらえない。それで母を看取るというのは・・・せめて注射の一本してもらって少しでも楽にしてやりたい。私はとにかくどこか病院に入れてもらえるんだったら高度な治療ができなくても病院に運んでもらえるのかなと思ってお願いしてようやく入れてもらえたんですけど・・・
ナレーション:母親をのせた救急車がなかなか出発しない様子に父親の不安も募っていました。
長女・景子(仮名):私も妹も事務連絡でバタバタしていたんですね。そうしたら二階から「助けてくれ!助けてくれ!!」って大きな声がするのでどうしたのかなと思ったら、父は父なりに起き上がるなりなんなりしようと思ってがんばっていたみたいなんですけれども、目が見えないのに眼鏡をかけようとして。ディサービスとかも夫婦二人で仲良く行ったりしてたものですから、救急車がやっと出発して父親にそう伝えたらやっとゆっくり休めたんですけど。
ナレーション:救急要請からおよそ7時間。ようやく病院に向けて出発しました。その翌日、ひとりだけ陰性だった景子さんも発熱。感染が確認されました。寝込む景子さんの元に病院から連絡が入ります。
長女・景子(仮名):朝の3時頃かな。病院から母が息ができない感じになっているのでモルヒネを入れてもいいですか?っていう電話がありました。そうですか、お願いしますって言ったんですけど、私も朦朧としていて自分もダメかなと思っていて・・・私も糖尿病があるので母と同じような酸素濃度の下がり方で自分も死ぬんだな・・・ていう感じがあって。ちょっと熱でぼぉっとなってたので、夢だか現実なのかちょっとわからなくて。わからないまま返事をしていたのかな・・・
ナレーション:翌朝、母親は病院で息をひきとりました。父親も衰弱がはげしく、今はリハビリのため施設にいます。
長女・景子(仮名):妹とふたりで母を看なきゃいけないんだけど、父を優先してしまって母を後回しにしてたのね。父の方が早く悪くなってたので・・・そんなに母が悪くなってるなんて気づかなかった。母が亡くなってしまったので、今になっては母にもっと食べさせてやって、あれが最期になるんだったらもっと何かしてあげたかった。未だに凄く引きずってます。それが自宅療養の一番辛いところですね。母を失って、それが自分のせいじゃないかと・・・もっとしてあげられたんじゃないかと考えてしまいますね。
ナレーション:経験した人たちにしかわからない、それぞれが抱える自宅療養の末の苦しみ。
藤田さんのFacebookより
こんなこと誰が知っているのか、
どう発信すればいいのか。
部屋の扉を閉じると
いつもと変わらぬ町の風景が広がる。
今見たものは現実じゃなかったかもと
うずく心がとぼけ始める。
ずっと二つの世界を行き来している。
コロナはまるで魔法だ、
見たものにしか見えない。
そこにいるのに足音が聞こえない。
ナレーション:4月24日、兵庫県に緊急事態宣言が出されました。5月中旬から藤田さんと龍田さんたちは205人の家を延べ1818回訪問。少しずつ感染者は減少し、6月までに神戸の第4波は収束しました。この間に神戸市の死者は374人。第3波までの合計の二倍近くになりました。
6月、藤田さんは息つく暇もなく沖縄県へ向かっていました。沖縄では5月の連休以降、感染が大幅に拡大。県は自宅に療養する人たちを見守る在宅医療や訪問看護の仕組みを作り始めていました。藤田さんにも神戸の経験を伝えてほしいと依頼したのです。この日は知的障害があり、入院を見合わせていた32歳の男性の自宅へ沖縄の訪問看護師と共に向かいました。前日に医師の指示で酸素を運び込み、この日はその効果を確認。入院の必要性を判断します。夏樹さん(仮名)はすぐに酸素をはずしてしまい、酸素飽和度は78%まで低下。藤田さんは自宅での療養は限界だと判断しました。入院の了承が得られ、病床が確保されました。夏樹さんはその日のうちに緊急入院することができました。入院から3日後、夏樹さんは搬送されたときには既に人工呼吸器が必要なほど症状が悪化しており、集中治療室で治療を続けていました。
椎木創一(感染症内科医師):あの日、夏樹さんが来なかったら命に関わっていたと思う。本当にあれより遅れていたら、呼吸がもたない状態でしたのでギリギリのタイミングだったと思います。
ナレーション:1週間後、無事に夏樹さんは自宅に帰ることができました。
母親:生き返った。生き返ったね。
藤田:よくなったときに本当に心から良かったと思う気持ちと、良かったと言えなかった第4波の色んな人の悲しみを自然とポケットから出てきて自然に重なるんだなと。いつまで続くのかな・・・自分の中の残念さとか悲しさとか。やっぱり第4波は終わらない。ずっとこれからも自分の中の第4波は終わらない。
ナレーション:その後も藤田さんは全国各地で経験を伝えてまわりました。これから感染者の自宅へ向かおうとする医療従事者たちの背中を押したのです。神戸市はその後、病床数の確保や自宅療養者向けの医療の仕組みを整備しました。しかし第4波で大切な家族を失った人たちは時間が止まったままです。
8月末、藤田さんは第4波で犠牲になった優也さんの家を訪問しました。
優也さんの母:携帯もそのまま。ずっと毎月充電してお金払ってます。息子の携帯にLINEしてるんです。あとから本当に色々考えて、もう後悔することばっかりなんでね。いつまでも子どもは子どもなんでね。親からしたらもっと何かできることがあったんじゃないかなって。もっと私が気を付ければよかったかなってそのことばかり考えてしまう。毎日、息子に謝ってる。申し訳なかったと思って・・・
ナレーション:自宅で家族全員が感染し、母親が死亡。父親が未だ施設にいる佐藤さん一家。家族が苦しんだ記憶が残る家で次女がひとり暮らしています。
長女・景子(仮名):妹は残像がある部屋で今、たったひとりそこで暮らしているのでそれが自宅療養の一番辛いところ。家族が背負うものが、看てた家族が背負うものを私が死ぬまで思い続けるから。この環境の中で背負わなきゃならなくなったっていうのがうちの家におこったことの中の大きな悲劇かなって思いますね。