あの夏 60年目の恋文【後編】
ハイビジョン特集 あの夏―60年目の恋文―(初回放送:2006年)
ナレーション:教生先生が少年の心をとらえたのは何故か?岩佐さんとの文通が進むにつれて祖母の意外な一面を私は知った 今はおっとりおしとやかな祖母の大胆行動。舞台は昭和19年にできたばかりの水練場 つまりプール
【教生日記より】
奈良の夏は夜も蒸し暑い プールと我々は閃いたのです。宿直の先生がふと目を覚ますと、かすかな水音 そして囁きは女性のそれ。どうしたことだとカーテンからそっと覗くと、月明かりの中に3人の教生が泳いでいるではありませんか 人魚みたいだったとは申しませんがともあれ宿直の先生をギョッとさせたようです。昭和19年の夏にはこんなこともあったのでした 懐かしい懐かしい水練場
ナレーション:若く奔放な教生先生 少年たちを巻き込んで寄宿舎でもひと騒動
【昭和19年7月21日 教生日記より】
子どもたちが寄宿舎へぞろぞろついてきた まぁ、きたきた 10人やってきて私の部屋で大騒ぎ。腕相撲したりアルバムを引っ張り出したり ちょっと、シー!と下級生が言ってくれたときにはもう先生入ってらして、子どもたちはパァ~っと散る。私が「すみませんでした もう入れません」と言うと、「違います!雪山先生、悪いことありません 僕たちが勝手に来たんです」 あ~、私はホロホロ泣けてしまった なんて素敵な子どもたち 帰る道忘れたというので、岩佐君をおんぶして連れて帰る
おそらくあの寮というのは僕たちにとって特別なものだったのでしょう 薄い塀を越せば、お姉さんたちが住まう全て違った世界 それは学校という日常から突如の異空間への侵入です。しかも僕たち国民学校の生徒には立ち入りが禁じられた場所だったように思います そんな僕たちを迎え入れてくれたのですから先生を絶対に擁護しなければならないという気持ちが働いていたように思います。それにしても人の記憶というのはどのようにして取捨選択して留まるのでしょうか・・・このおそらく僕の頂点と成すこの場面が記憶されていないとは・・・
【昭和19年7月7日 教生日記より】
7月7日 子どもたちと行軍 登り坂は少し疲れながら水音をしたに聞いていく ただただ輝かしい日。今も頬の火照りは快く、身体も心もすっかり満ちている (子どもたちの)歌声 こんなつぶらな歌声あるかしら?一緒に歌いながらこんなコーラスは私の一生にはもう決してふたたびありはしないだらうと思ふとたまらない
川口汐子さん:ピチピチチャプチャプってお天気いいのにね ピチピチチャプチャプって(一緒に)歌ってましたよ ピチピチチャプチャプランランランって・・・ 健やかな気持ちで健やかな時間を子どもたちにもたせてあげたいなって思いましたね。そういうのが先々・・・戦時中ですからこの子どもたちに幸福な未来が与えられるかわからない それなら今一緒に 私も一緒にできるだけ楽しい時間をもちたいなって
子どもたち俳句を作る
よくみれば
ゆきやませんせ
でこながい
よく見なくてもでこだよ
ナレーション:歳月と記憶 人は誰でも過去を呼び戻して生き直すことができる
【岩佐寿弥の手紙より】
教生日記の抜粋を読んでいると私たちが出会ったほんの僅かな時間がどれほど大きな意味を持っていたかうかがえます 自分だけにしまっていたあの輝く昭和19年夏のイメージは実はみんなのものであったということが解き明かされていきます あの時代にあんなにも明るく心ときめいた教室があったのですね・・・
ナレーション:祖母は教育実習を終えてまもない昭和19年9月 戦時下の非常措置で半年繰り上げて師範学校を卒業する。10月には念願の教師となり、京都の女学校に着任 しかし、わずか二か月で退職し、12月には海軍航空隊の川口大尉と結婚する 恋愛結婚だった。祖母の昭和19年は目まぐるしく動いた 翌昭和20年 戦局はさらに悪化し、川口大尉に特攻隊の一員として飛び立つ日が迫る。祖母は夫の任地が変わるたびに泊まる宿のあてもないままその後を追った
君が機影
ひたとわが上にさしたれば
息もつまりて
たちつくしたり
川口汐子
ナレーション:少しでも夫のそばにいたい 嫁さんと(子どもたちに)はやしられたあの日も夫を追って転任先へ向かう道中のことだった
かの機体
あるひは君が柩(ひつぎ)かと
わが思ふとき
たちも居もならぬ
川口汐子
ナレーション:川口大尉の出撃日は8月22日と決められていた その一週間前に戦争は終わった 戦後、祖父は故郷姫路で材木店を営み、3人の娘を育てた。そして私が生まれる7年前に亡くなった 以来、祖母は短歌や文章を綴りながらひとり姫路で暮らし続けた。手紙のやりとりを重ねて暫くして、祖母は岩佐さんに一冊の本を贈る 祖母の童話『二つのハーモニカ』 戦後30年近くも時を経て、祖母が戦争を題材にして書いた童話だ。物語の主人公は国民学校4年生の少年 そして特攻隊の飛行兵 少年と飛行兵がハーモニカを通して友情を深め、やがて出撃命令が出て別れの日を迎えるまでを描いている。祖母の頭の中にあったのは愛おしいヨンダンの少年たちと死と向い合せにいた夫 川口大尉に違いない。祖母はあの夏の日々を想い出だけにすますことができずにいたのだ
【2003年10月22日 岩佐寿弥の手紙】
『二つのハーモニカ』読み終えて色々なことが頭を巡り、最後にはただ茫然としておりました 私たちの世代は辛うじて子どもの頃に戦争が終わったのです。あの戦争の時代に大人として組み込まれてしまった川口様たちの受けられた傷の大きさ・・・ それについて発言し始めるまでにかなりの年月を要するものであったことは今の私にはよくわかります
川口汐子さん:失うはずの命を救われた そして戦後の生活を何十年っていただくことができた 本当に戦後の生活をいただくことができたとそう思います。その戦後のことを思い出しても本当に命を拾ったんだなと思います そして今 こうしてゆったりと生きているのがまた不思議な気がしたり 色んな思いで自分の人生を顧みたり・・・している近ごろの気持ちなんです
ナレーション:文通を始めて4か月ほど経ったころ 岩佐さんは次第に祖母に会いたいと思うようになる
【2004年1月25日 岩佐寿弥の手紙】
1月、3~4日 関西に行っておりました そのうち一日、おのまちの浄土寺に阿弥陀三尊を拝観にいってきました。そのとき、あぁ、姫路はすぐそこなんだと気づき、お元気に暮らしてらっしゃるのだと想像しつつたった一両で運行している加古川線に乗り込みました。初めて訪れた冬の境内はなんだか殺風景でしたがお堂の中は見事で三尊と天竺用の天井にしばらく見とれていた次第です 4月から6月頃にはお会いして何でもかんでも話したい そして先生のお話もききたい・・・ そんな気持ちがつのります。ここまで続けることができた手紙のやりとり それだけでも私には奇跡のようなことですがこの奇跡をさらに拡大してみたいのです
ナレーション:祖母はすぐに返事を書かなかった 書けなかったのかもしれない ひと月近く経ってようやく書いた祖母の手紙に再会について触れた言葉はなかった。ことの成り行きを明かしてしまうようだが祖母と岩佐さんは60年ぶりの再会を果たすこととなる でもそれよりもずっと前に岩佐さんと会ったのはなにをかくそう私と私の母だったのだ。岩佐さんが作った映画の上映会を訪ねたのだ チベットを追われネパールに暮らす老女をおった記録映画『モゥモ チェンガ』 祖母からこの映画のことをきかされていた母が私を誘い、私は気軽に応じた
金高順子さん(母):川口汐子の娘です、そして孫ですってご挨拶したわね(笑顔)そしたら「え?!どういうこと?どういうこと?」って岩佐さんがおっしゃったわね。私が母とそっくりだったら良かったかもしれないですけどね(笑)なんかわかりやすかったかもしれないですけど
ナレーション:上映会に行くことは祖母に内緒だった 岩佐さんと再会することを躊躇っていることを母は知っていた
金高順子さん:母は岩佐さんと手紙だけのやりとりで・・・ 岩佐さんのおもちのイメージは若い頃や「昭和萬葉集」の時のテレビの映像だけで・・・ 杖をついて目も悪くなって皺もできてそういう姿をみせることをそのときには決断してなかったと思うんです。弱って老いていっている姿を嘆いていましたからね あの頃、もう少し足が動けば良いなとか もっと物がはっきり見えたら良いなとかそういうことを色々言ってましたんでね・・・
【2004年2月20日 岩佐寿弥の手紙】
上映会が終わってロビーに娘さんとお孫さんがみえたときは、今までに経験のない不思議な感動に襲われました 何か非現実のような思いでお二人に対面しておりました。娘さまによろしくお伝えください お会いできて本当に嬉しいでした それにユキさんがそばにいらっしゃったのにも感動しました
ナレーション:岩佐さんは私と母と会ったことでますます祖母に会いたいという思いをつのらせた
【2004年3月30日 岩佐寿弥の手紙】
桜が満開です 昨日は千鳥ヶ淵を散歩しました 奈良公園の桜も満開のことでしょう 5月早々に関西に行く予定です。そちらの都合がよろしければお会いしたいと思っています
ナレーション:その後も手紙のやりとりは続き、祖母は少しずつ少しずつ岩佐さんに会ってみようと思い始める 岩佐さんが最初に会いたいと書いてからすでに3ヶ月以上経っている。もう、じれったい・・・ これが60年の歳月の重みなのかな?そして5月
【2004年5月4日 川口汐子の手紙】
歳月と記憶 その悪戯にも似た、また感動をもよぶいとの混乱ぶりを私はこのところずっと実感しております 不思議とよりいいとく術を知りません。駅までお迎えに出ますからお出会いして60年ぶりの初めましてのようなお久しぶりのようなご挨拶をいたしましょう。目がかすみ、杖にすがった80おびなは大変シャイになっております では、5月14日 JR姫路駅改札を出て階段をおりてくださったところに立っています 黒い杖が目印。合言葉はヨンダン
ヨンダンの合言葉。
ギネスブックに載るようなランデ・ブー。
何者かが悪戯に書いた筋書きを忠実に演ずる二人の老優。
それにしてもお迎えいただくとは恐縮です。
岩佐寿弥
ナレーション:こうして私の祖母と岩佐さんは文通を始めてから9ヶ月目に再会を果たすこととなった 2004年5月14日 午前10時15分 60年を経て巡ってきたかつての教生先生と生徒との再会 それは約束とは違う思いがけないやりとりで始まった
川口汐子さん:あの~、なんかマゴマゴして あの、申し上げてお約束していた通りの合言葉みたいなものをど忘れしてしまって・・・ よく忘れるんですね、私・・・ ヨンダンの合言葉を忘れてしまいまして(笑顔)
岩佐寿弥さん:先生がね、その~・・・おそらくヨンダンという合言葉で約束だったですから おっしゃるのだと思ったらですね『白井先生の下の名は?』と最初の言葉はそれだったんです。僕はそれはすかさず『勇(いさむ)』とそれだけ答えたんですね
川口汐子さん:岩佐さんはこれは話が違うじゃないか・・・と思われたと思います(笑)
岩佐寿弥さん:そしてグッとひといきあってですね・・・ 「不思議ねぇ・・・」と先生はおっしゃり、僕はその言葉に重なるようにですね「不思議ですねぇ・・・」と言ったのがほとんど同時に最初の言葉だったんです。で、そこでグッとひといき置いてため息つくように「おもしろかったぁ・・・」ってつまり往復書簡の間のことを言われているわけですけれども 僕も「おもしろかったですねぇ」ってお互いため息つくように
ナレーション:記憶の迷宮を彷徨い辿り着いた60年ぶりの開口 二人は喫茶店に入り、祖母が携えた教生日記を前に向かい合った
岩佐寿弥さん:懐かしいとかそういう感覚じゃなかったな・・・ とにかく大変高揚した気分というか それは嬉しいといえば嬉しかったし、あの先生とここでこうやって会っているというのはなんだろうっていう・・・
川口汐子さん:不思議なのはお話をしているうちに向こうは9歳になっちゃうんですね 私は19歳になっちゃうんですね 不思議な感覚ですね・・・ 年齢がフワッと移動する こんな妙な感覚わたし初めて感じるなって思いました。自分の19歳なんて返ってこない日ですけれども、その日々を元気で生き生き楽しく過ごしていた少女の私がちゃんと記憶の中に存在しているというそういう人と話をしているのだから・・・ なんか奇妙な奇妙な喜びですね だから過去はもういっぺん引き返ってきてそして生き直すことができる。そんな感じがしてきました
ナレーション:食事の後、車をひろって祖母の家へ 60年の空白を埋めるかのように会話は途切れることなく続いた
【2004年5月19日 岩佐寿弥の手紙】
奇跡の会合を終えて車に乗ったとき、私はめいじょうし難い至福感に覆われました それは御宅に着くまで続きました。あれは何線ですか?山陽新幹線ですよ、と一言交わしたとき一瞬みた空向きのどこにでもある高架線のイメージを除いて姫路のまちの風景は何も残っていません。意表を突いた合言葉の応酬から始まり、玄関先でお別れするまでの6時間このわずかな時間に先生が実生活の中で描いてきた80年の命の軌跡を私はみました 人生の最終盤にさしかかったある日、こんな大きなドラマをみるときがやってこようとは誰が予測できたでしょうか?昭和19年 先生に出会えた少年の幸せ 60年後、忘却の彼方から突如呼び戻された奇跡 この二つの時点をつないだものは何者だったのでしょうか?いつまでも元気でいてください ゆるやかにゆるやかに足を鍛えてください お迎え、そしてお昼のごちそうありがとうございました
【2004年5月21日 川口汐子の手紙】
いいお出会いでございました 60年って大変な年月なのだと思いつつまたあっけない年月なのだと胸痛いような気がします 思いのこもった数時間を過ごさせていただきありがとう存じました。まるで昨日のように60年が蘇るのだということを知って本当に嬉しかったのです。命あればこそお出会いできましたのね・・・ 実は想像よりお若いのでドギマギしましたことを書き添えておきます いっぱいお礼申し上げます。どうぞお元気で
ナレーション:2006年5月 祖母が東京にやってきた 私のオーケストラサークルの演奏会をききにきてくれたのだ。岩佐さんも一緒だ 二人の再会への道程は二人が60年をどう生きてきたのか確認しあう作業だったのだと私には思える。祖母と岩佐さんを見て私は思う 年をとるって結構素敵なことなんだと・・・
その後も私は汐子先生を姫路に訪ね、幾度かお会いしています あるとき私たちは白鷺城の全景がよく見えるレストランで食事をしていました。そのとき、あの京都の家はそのままあるのですか?あればあの家の前に一度立ってみたいので、住所を教えてくださいと私は尋ねました。あの夏のある日、ひとり訪ねて門前で立ち止まったあの雪山邸です 家はそのままあるわ 今は兄嫁がひとりですんでいるのよ 汐子先生はこうお答えになり、続いて住所も言われたので手帳に書き留めはじめました。そのとき、ねぇ、今から一緒に行きましょうという声がかかったのです 出た!雪山先生はこんな奔放な調子で子どもたちを魅了していたのだ 咄嗟にあの夏の日々が蘇りました。京都駅に着くと日は少し陰り始めていました タクシーは汐子先生の育ったあの家めがけて鴨川を北上していきます 汐子先生の指示で私たちはタクシーを降り、家を探し始めました。人影がいない静かな住宅街にその日が暮れるのを惜しむかのように数人の少年がサッカーボールで遊んでいました 汐子先生の素振りからもう家が近いのだと分かります。私は少年のひとりに君幾つ?とききました 8歳! 家は目の前でした 60年前のあの夏の日、叔母の家を抜け出しついに探し出したあの家と門がそのままあったのです。80帯びなと70翁は門前に立ち並びました あのときのままではないかと思われる黒ずんだ雪山という表札があります。少年のとき仰ぎ見た表札は今よりもっと高く見えたな・・・ と思ったそのとき 汐子先生は杖を取り落とし、うつふして泣いていました その後、門を背景に私たち二人はサッカーボールで遊ぶ少年に写真を撮ってもらいました。
少年:『じゃぁ、いいですか?はい、チーズ』
少年も少女も齢(よわい)重ねたり
ふつふつと 粥煮ゆるときのま
川口汐子
⭐⭐⭐
現在、川口汐子さんと岩佐寿弥さんは亡くなっている。そのお二人が死してもこの尊い時間は生き生きと輝くことの素晴らしさ