実写化された実録事件
『Mishima: A Life in Four Chapters』
解説:三島由紀夫の生涯とその文学作品を題材にした伝記風の芸術映画。「美(beauty)」「芸術(art)」「行動(action)」「文武両道(harmony of pen and sword)」の4つのチャプター(4幕)から成る。
【三島事件とは】
1970年11月25日、三島由紀夫が隊長である「楯の会(たてのかい)」が自衛隊の市ヶ谷駐屯地を訪れ、東部方面総監を監禁、集まった自衛隊員に向けて憲法改正のための決起を呼びかけるアジ演説を行った事件です。演説の後、総監室に戻った三島は早稲田大学の学生だった森田必勝(まさかつ)と切腹を遂げる。
『実録連合赤軍 あさま山荘への道程』
あらすじ:ベトナム戦争や文化大革命など世界が革命にうねりを上げていた1960年代。日本国内でも学生運動が活発化し、先鋭化した若者たちによって連合赤軍が結成される。1972年2月、革命のために全てを懸けた彼らは「あさま山荘事件」を引き起こす。
【あさま山荘事件とは】
群馬県の妙義山中に潜んだ過激派集団・連合赤軍捜索のため3000人の警察官を動員した群馬県警察本部と栃木、長野など関東各県警は1972(昭和47)年2月19日午後3時すぎ、長野県北佐久郡軽井沢町地蔵ケ原の別荘地で、連合赤軍と見られる男5人を発見、銃撃戦になった。男たちはいったん逃げ、軽井沢駅から約7キロ離れた河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、同施設の管理人の妻を人質にしてたてこもった。20日、たてこもった連合赤軍はバルコニーに畳などでバリケードをつくり、朝から断続的に猟銃を発射するなどして、ろう城を続けた。1972(昭和47)年2月28日、事件発生から10日目の午前10時、長野県警は人質の強行救出作戦を敢行、同日午後1時までに3階「いちょうの間」とホールを残し、1、2階と3階の半分は警官隊が制圧した。犯人は「いちょうの間」に強固なバリケードを築いて頑強に抵抗した。ライフルや猟銃などで武装した連合赤軍の5人は、警察官らに発砲する銃撃戦となり、容疑者5人全員が殺人などの容疑で現行犯逮捕された。警察官2人と民間人1人が死亡、27人が負傷。連合赤軍は、71年に銀行などの金融機関から現金を強奪をした「赤軍派」と、同年2月に栃木県の銃砲店を襲撃して猟銃や散弾を奪った「革命左派」が合流して結成された。群馬県内のアジトなどで、リンチ殺人によって29人のうち12人が死んでいることが、浅間山荘事件後、明らかになった。
『権力側の視点に立って、映画を撮ってはいけない』
赤軍というのは、かつてのファシスト国家にしかないのですよ。国家のいいなりになっていた親の世代への拒否反応から生まれたのです。しかし、連合赤軍は、ドイツ赤軍とイタリアの「赤い旅団」とは違い、権力に対してではなく、自分の仲間たちに銃口を向けてしまった。それを僕は、断じて許すことができません。
今回の作品で、僕は彼らを批判するつもりはありません。中立的な視点から赤軍を描いたつもりです。それをどう受け止めるかは、観客が決めてくれればいい。僕が撮るというと、皆、また革命映画だろうと思うでしょうが、今回は違う。そういうものは、まただれか他の人が撮ってくれればいい。
原田眞人監督の「突入せよ!あさま山荘事件」(2002)を観て、これは許せないと思いました。権力者側の視点に立って映画を撮ってはいけない、というのが僕の持論です。そこで、なんとか事実に近い映画を撮りたいと思った。中で何が起きたのか、世界で何が起こっていたのか、なぜあそこまでいったのかを徹底的に描くために、どうしても60年安保まで遡り、自分でもきっちり理解する必要があった。
昔から撮影のスタイルはまったく変わっていません。例のごとく密室劇なので、経済的でしたし、カメラ3人、照明二人、助監督4人という小さいチームで撮りました。役者はオーディションで選びました。皆最初は“イケメン”でしたよ。怒鳴りつけて、繰り返させて、どんどん追い込んでいった末に、ああいう役柄に近い顔立ちになっていったのです。当時の学生たち特有の話し方を教えるのは大変でしたね。赤軍のように合宿をして、撮影をしました。
制作上の制約がなかったので、楽しみながら作れました。自分は絶対にこれを残さなければならないと決めて、自分で資金を集めて、自分ですべてをやりました。全財産を担保に入れました。名古屋に自分の映画館を持っているので、日本ではそこで先行上映をしています。
元赤軍派メンバーたちはこれを見て、「ようやく自分たちのことが認められた」と喜んでくれました。肩身が狭かったが、これでやっと面を上げることができると。20年の懲役を終えた植垣康博も見てくれました。東京拘置所にいる重信房子はシナリオに朱筆を入れてくれた。鑑賞後、一般の観客たちはほとんど泣いて出てきます。あまりの衝撃で椅子から立ち上がれないという人もいました。
オウム事件についての記録映画を撮った森達也監督と、3度ほど対談しました。赤軍とオウム、どちらのケースでも、優秀で生活に困らない若者たちがテロ事件を引き起こしている。しかし、麻原彰晃が自分の欲望を満たすために組織を利用したことに対し、森恒夫は、本気で革命を起こそうとしたと思うんです。
今度の作品にもエロティシズムを期待した観客がいるかもしれませんが、これは実録ですからね。実際、少しでも変なことを考えたら、それこそ「粛正」ですよ。殺されてしまうんです。植垣は「俺は適当にやってたよ」とか言うけれど、その事実は残っていない。昨今のいじめと同じで、閉塞情況のはけ口が、暴力や他者の排除に行ってしまったのでしょう。
僕はパレスチナ難民キャンプ、サブラ・シャティーラの大虐殺(レバノンのベイルート市内で1982年に起きた虐殺事件)の後を訪ねたことがありますが、恨みを持って死んだ人の顔は凄まじいものです。リンチ死した赤軍メンバーの死顔はそれとは違う。彼らは粛正されても恨んではいなかったのではないのでしょうか。永田洋子に「総括」を強要され、遠山美枝子が自分の顔を打つシーンだけは、特殊メイクを雇いました。鏡に映る遠山の腫れ上がった顔が、永田の顔と並ぶところで、永田に「この醜い顔は、あなたの内面そのものですよ」と言ってやりたかった。
僕は映画の中で警官をたくさん殺してやろうと思って、監督を志しました。僕ほどたくさん権力者を殺した人間はいないんじゃないですか?皆僕に騙されて、お色気目当てで映画館に来て、バサッと刀で切られるような目に遭って帰っていく。僕は人に気に入られたくて映画を作っているわけじゃない。作品は、手をかけなくても自然に育っていくものです。いまの日本は難病や犬猫の映画、マンガの映画化、リメイクばかり。程度の低いものを作って、宣伝にお金をかけている。皆バカですよ。
僕が影響を受けたのはJean-Luc Godardだけです。彼に「映画には文法がない」ということを教わって以来、自由に作るようになりました。きちんとした考えさえあれば、どんなに無茶苦茶に撮ってもちゃんと繋がります。日本の映画から学ぶことなんて一つもありません。向こうは僕から学んでいるかもしれませんがね。それでも大島渚には共鳴しますし、北野武は好きです。いちばん好きなのは「あの夏、いちばん静かな海」かな。あれと同じで、「実録・連合赤軍」も青春映画なのです。青春はなんでもありです。そして苦しいです。僕の映画はどれも苦しいんですよ。
【若松孝二】
1936年4月1日 宮城県生まれ、2012年10月17日 逝去。高校中退後上京し、さまざまな職を経て映画監督に。1963年にピンク映画「甘い罠」で監督デビュー。“ピンク映画の黒澤明”と称され、次々とヒット作を世に送り出した。65年に若松プロダクションを立ち上げる。主な作品に「胎児が密猟するとき」(1966)、「腹貸し女」(1968)、「寝盗られ宗介」(1992)など。また、「女学生ゲリラ」(足立正生監督、1969)、「愛のコリーダ」(大島渚監督、1976)をプロデュースするなど、プロデューサーとしても高名である。
『226』
あらすじ:昭和11年2月26日。昭和維新を掲げた陸軍の青年将校たちは、1500人にも及ぶ決起部隊を率いてクーデターを起こした。彼らは雪の降る中、岡田首相、高橋蔵相、斎藤内大臣、鈴木侍従長などを襲撃。翌27日に戒厳令が施行され、決起部隊は原隊への復帰命令を受ける。
【226事件とは】
大日本帝国陸軍内で一大勢力を誇った皇道派(天皇親政の下での国家改造”昭和維新”を目指した)の影響を受けた一部の陸軍青年将校らが1483名の下士官・兵を率いて決起。当時の日本は1932(昭和7)年の五・一五事件など軍による一連のテロ行為やクーデター未遂が頻発した時期で、1933(昭和8)年には満州への武力進出が問題とされ国際連盟を脱退するなど国際社会で孤立していった。経済不況と農村恐慌で国民の不満は極限にまで高まっていた。そんな中、陸軍の青年将校たちは「窮状を打開するためには天皇を取り巻く元老や重臣を排除し、天皇陛下の大御心を直接国政に反映させるしかない」という考えに基づき“昭和維新”を計画。雪の降る昭和11年2月26日未明、野中四郎大尉ら8人は計画を実行に移す。22名の青年将校に率いられた約1500人もの決起隊は、それぞれ連隊の営門を出発したのであった。
栗原安秀中尉、対馬勝雄中尉らの栗原隊は第31代内閣総理大臣・岡田啓介を殺害するため首相官邸を襲撃、目的を果たしたかに思えたが、実は射殺されたのは義弟である松尾伝蔵秘書で、押入れに隠れていた岡田は翌日に脱出した。
坂井直中尉率いる坂井隊は斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監を、中橋基明中尉率いる中橋隊は高橋是清蔵相を射殺。
安藤輝三大尉率いる安藤隊は鈴木貫太郎侍従長を襲ったが結果的に命はとりとめた。
丹生誠忠中尉率いる丹生隊は陸相官邸を、野中四郎大尉率いる隊は警視庁を占拠。
河野壽大尉率いる河野隊は湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊中だった前内大臣の牧野伸顕伯爵を襲うも逃し、逆に河野は警備の警官に銃で撃たれ被弾して陸軍病院に収容される。
陸相官邸では決起趣旨が述べられ、この行動について天皇陛下の聖断を要求する。皇居では軍事参謀会議が開かれ、決起を認めるかのような陸軍大臣告示が発表されたが、宮中においては会合の結果、戒厳令の御裁可が参謀本部次長に下されて、決起部隊も戒厳部隊に編入される。そして翌27日には奉勅命令が発表、決起部隊に対し原隊への復帰が勧告されて、皇道派青年将校たちの思いとは逆の方向に事態は推移して行くことになる。
【二・二六事件のその後~青年将校たちはどうなったのか】
昭和11年(1936)2月29日、二・二六事件は鎮定された。その時、青年将校たちはどんな行動をし、どうなったのであろうか。事件最終日の2月29日午後2時、将校たちは下士官兵を帰したうえで陸相官邸に集い、その後の方針を話し合った。その結果、陸軍上層部が自分たちを自決させようとしているのを察し、法廷の場で、思うところを訴えようと考える。
武装解除され、憲兵に拘束された将校たちは、29日午後6時頃、陸軍東京衛戍刑務所に送られた。しかし、その思いとは裏腹に、待っていたのは厳しい裁判であった。青年将校たちは、東京陸軍軍法会議と称される、弁護人なし、非公開、上告なし(一審制)という制度で裁判を受けることになる。これは、急いで厳罰を下そうとする、陸軍の思惑が反映されたものだった。こうした裁判のあり方には、青年将校たちも憤懣やるかたなかったという。
第1回公判は4月28日に行なわれ、判決は7月5日に出される。将校と襲撃に加わった民間人、計17名が死刑となった。そのうち15名は、7月12日に銃殺刑が執行され、磯部浅一と村中孝次は、北一輝と西田税の裁判のために執行が延期された。一方、北は2月28日に逮捕され、西田は3月4日に検挙されていた。2人に対する第1回公判は10月1日に行なわれ、2人を極刑にしようとする陸軍上層部と、公平な裁判を求める裁判官が対立した末、昭和12年(1937)8月14日、2人に死刑判決が下される。
その5日後の8月19日、北と西田は、磯部と村中とともに銃殺された。
青年将校と近しい関係と見られていた真崎甚三郎は、昭和11年4月に憲兵の取り調べを受ける。翌12年6月には第1回公判が行なわれるものの、同年9月、無罪判決が出された。これ以外にも、事件は様々な余波を残した。
事件終結後の3月、岡田啓介内閣は総辞職し、広田弘毅内閣が成立する。その組閣の際、陸軍統制派の武藤章は、寺内寿一を陸相に推し、さらに寺内とともに、吉田茂らの入閣を拒否するなど、広田に様々な圧力をかけた。また組閣後、陸軍では寺内陸相のもと、粛軍が行なわれる。皇道派は主要メンバーの多くが予備役に編入され、事実上、陸軍中央から一掃された。
こうした事件後の処置により、統制派は陸軍内だけでなく政治面でも強い影響力を持ち、それは太平洋戦争まで、続くこととなる。事件は、多くの人を巻き込み、また多くの思惑と絡みながら、日本の歴史を大きく変えていったのである。
参考文献‥北博昭『二・二六事件 全検証』、筒井清忠『二・二六事件と青年将校』ほか