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第114回 前田利常 MOOKSTUDY日本の歴史を聴いて

前田利常(1594~1658年)加賀藩の第2代藩主。加賀前田家3代。

戦国武将、豊臣政権の五大老「前田利家」の4男。利家56歳の時に誕生
加賀藩第3代藩主 加賀百万石の地盤を固めた名君。
傾奇者といわれた父と、当時将軍の豊臣秀吉に天下御免の傾奇者認定をもらった「前田慶次」を親族にもち彼自身は、その歴代の傾奇者の功績を巧みに利用し加賀を大きく発展させた

利常9歳で3歳のお嫁さんをもらう

利常9歳の時に政略結婚
徳川家2代将軍秀忠の次女
珠姫(3歳)をお嫁さんにもらう

徳川家と姻族関係を築く

「関ヶ原の戦い」から徳川側についた前田家は外様大名の中で
最大の領地120万石を保有していた
徳川家に次ぐ石高を持っていたため
当時の徳川家が最も警戒する大名家であった
江戸時代初期の徳川家は権力も強く、にらまれると
すぐに領地没収 お家取り潰し など頻繁にあった
徳川家との関係改善の為
2代将軍秀忠の娘 珠姫と政略結婚する
以後、徳川家との関係を深め外様大名で
ありながら準親藩にまでなる

利常と珠姫
政略結婚にも関わらず二人は非常に仲の良い夫婦で
珠姫が24歳までに3男5女の子供に恵まれました

24歳の若さで亡くなった珠姫
あまりに仲の良い夫婦仲を、珠姫の徳川方の乳母は
徳川家の情報が漏れることを恐れて
珠姫を隔離してしまいます
利常が会いにきても「病気でねている」「体調がすぐれない」と追い返します
珠姫は夫が会いに来てくれない寂しさや不安から衰弱してしまい24歳の若さで亡くなってしまいました

亡くなる直前、珠姫から事情を聞いた利常は
すべては乳母がたくらんだ事だと知って
激怒し乳母を「蛇攻め」によって処刑してしまいます

蛇攻めとは
【グロテスクな表現があります】

手足を縛って丸裸の状態で大量の蛇が入っている壺や桶の中に放り込み
蓋をし外から人々が棒でたたき蛇を刺激します。
刺激された蛇は習性でまわりにあるものに噛みつきます。人間も自分以外の蛇も見境ありません
さらに蛇は穴に入り込む習性があります。
壺や桶に閉じ込められ、逃げ場のない蛇は、人間の口や、局部、肛門に潜り込んでいきます。
しかも体内に入った蛇の鱗がストッパーとなるため、安易に抜け出す事が出来ず
息がくるしくなった蛇はなんとか外にでようとして内臓などに噛みつき食い破っていき
非常に苦しみながら死んでいく処刑方法

24歳で亡くなった珠姫は加賀の人からも敬愛され大変親しまれており
「珠姫てまり」というお菓子が今でも販売されています。

珠姫てまり(百万石まつり期間限定の季節の和菓子)

珠姫てまりは加賀百万石三代藩主前田利常公にお輿入れされた珠姫様をイメージして創作した金沢の和菓子です。

金箔の華やかさと、手まり麩の可愛らしさを折り合わせ、珠姫が優雅に手まりと遊ぶところを表しています。

越山甘清堂本店HPより

劇場的な面を持つ利常ですが内政は非常に優秀として語り継がれています
「政治は一加賀、二土佐」という言葉が残っているほどです

利常が行った主な政策

・金沢の城下町整備
天守閣の建設や石垣、堀の開削
城を囲むように二重の惣構
(そうがまえ:城を守るための堀や土塁)を造り、
惣構の内側を上級藩士と中級藩士の屋敷、
惣構の外側に下級武士、寺社を配置。
塩を専売制にし、年貢として納めさせた
稲作に向かない土地の年貢を塩や海産物での徴収にした
塩が自国で確保できない国(藩)に販売し税収を大きくふやした
農村支配に「十村制」をとりいれた
(役人による税の徴収から地元の有力農民による管理にかえた)
織田信長時代に前田利家が加賀の一向一揆をおさめる為に大量の人を虐殺した過去があり、恨みをかって徴税をごまかしたり逃げたりする農民が多かったため、昔からの有力農民に支配させた
辰巳用水をつくった
12キロにわたる用水。新田開発や城の防衛・防火のため。
今なお1日に1400トンの水を兼六園や金沢市内に運んでいる
キリシタン弾圧を体内的には厳しく行わなかった
他の藩では拷問による改宗、踏み絵、皆殺しなどがあった
「加賀ルネサンス」とよばれる金沢文化を開花させた
藩の
税収を蓄財していると徳川家に有らぬ疑いをかけられる為か
利常は芸術や文化の保護に積極的に取り組んだ

隠忍韜晦ーいんにんとうかい

加賀藩是(藩の政治方針)
意味ーじっと心の内に隠して
才能、学問などを包みくらますこと

私はこの難しい4文字熟語を【能ある鷹は爪隠す】と勝手に理解しました
この藩是に沿った利常の行動が見て取れたのが「うつけを演じた」事と
「隠しキリシタン」だと思った

うつけを演じ徳川の警戒を解く

利常の有名なうつけ話

鼻毛大名といわれるくらい鼻毛を伸ばし
家臣に注意されても
「この鼻毛のおかげで加賀100万石がたもたれてる
から鼻毛をありがたくおもうように」
下の病気かも?
江戸にいるとき病気になってしまい江戸城に出向くことが
出来なかったため、謀反の疑いをかけられる
すると綱吉は
「あそこがかゆくてたまらん」と言って
大勢のまえで下半身を丸出しにした
立小便禁止!
立小便したものは罰金!の立て札のまえで立小便をし
「金がおしくて小便をがまんするのは武士ではない」と
罰金を払った 武士としての豪快さもある逸話

前田家とキリシタン

キリシタン大名 高山右近

人生のほぼすべてを、キリスト教に捧げた戦国武将で
「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいますが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、高山右近ただひとり。
また、茶人としても知られており千利休の優秀な弟子7人「利休七哲」にも
名を連ねている

「高山右近人物像」刀剣ワールドより
栄光の聖母マリア/大阪・玉造教会 両脇に、高山右近と細川ガラシャが描かれている

高山右近が金沢に26年間も住んでいた事はあまり有名ではないかと思います

加賀藩にきた経緯
豊臣秀吉の「バテレン追放令」により領地没収されて各地を流浪していた
高山右近を利常の父「前田利家」は加賀藩に招き入れ
政治面や軍事面の相談役として活躍してた
金沢では「南坊」みなみぼう(南蛮坊主のこと)と名乗り
布教活動を行っていた、前田利家も洗礼名「オーギャスチン」をもっていた

2代藩主「利長」が庇護し、加賀ではキリスト教の普及は
保護されていました。加賀藩の多くの武士がキリシタンとなります。
利長との関係は非常に親しかったとされている
関ヶ原の戦いでは共に戦い、また築城の名人でもあった高山右近は
利長が引退後に居城した高岡城の築城を行った

3代目「利常」の時代
1613年家康の「バテレン追放令」が出されます
秀吉の時代より厳しく弾圧され、火あぶり、斬首による処刑が
おこなわれ、バテレン大名で有名な高山右近は
1614年マニラに追放されます。
キリスト教信者を強制的に改宗させるために様々な拷問が行われました

加賀藩の多くの武士たちは表向きには棄教しました。
加賀藩は他の藩より厳しい禁教の高札を出したとされており
幕府からはよくやっていると思われていた
これが表向きの棄教した武士の隠れ蓑となっていたともされています
他の藩では殉教が相次いだのにも関わらず
加賀藩は藩ぐるみでの「隠しキリシタン」により
殉教の記録はほとんど残っていません。

岐阜でのキリシタン禁令の高札

高山右近がマニラに追放された後でおこった戦い

大阪冬の陣・夏の陣

冬の陣では多数の死者を出し敗北しますが
夏の陣では前田軍勢が活躍し兜首3200という戦功を得ます
利常はこの時、命がけで戦ってくれる家臣たちがいる事を実感しました
戦功をあげた家臣のほとんどがキリシタン藩士たちでした

伝世品古九谷平鉢「洗礼盤」

洗礼盤とは

洗礼が行われる時に使用されます
「洗礼」とはキリシタンが信者になるための重要な儀式であって
頭頂に聖水が注がれます。また、「洗礼」は亡くなる前にこれを受け、
地上での罪をなくしてあの世に旅立つための儀式でもあります

古九谷の暗号より

利常は、大阪冬の陣・夏の陣で自分の為に命を懸けて戦ってくれた
多くのキリシタン藩士へ表向きながら棄教を強要した償いと感謝の思いを古九谷平鉢の洗礼盤を恩賞として送ることにします。
その人数312名に立派な色絵の平鉢「伝世品古九谷平鉢」
が送られました。巧妙に描かれたキリシタンマークや血を連想
させる赤色があまり使われていないのが特徴です。

青手松竹梅文平鉢 古九谷


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