見出し画像

イタリアのパン

パルマのパンには硬いものが多い。
意外だった。

フォカッチャのような水分や油分ををたくさん含むパンもあるけれど、いわゆる「お通し」として出てくる食卓用のパンは、バターや塩が入っていないような、よく言えば小麦粉の風味が味わえるような素朴なものがほとんどだ。
きっとそれにはいろんな歴史的な理由があるのだろう。昔この地域では塩やオリーブオイルが高価だったとか、盆地で湿気が多いためカビやすい作り方を避けた、とか。もしくは名物の生ハムやチーズと合わせて食べるにはなるべくシンプルな方がいいから、かもしれない。

イタリアの隣のフランスは違った。
以前パリを旅行したときに食べた、あのバター香るフランスパンが忘れられない。夕方に仕事帰りのサラリーマンがスーツ姿のままフランスパンを齧りながら歩いていたのを見て、真似して歩いてみたりもした。

ドイツでもパンは美味しかった。
ドイツのパンというと硬そうなイメージがあったが、プレッツェルは焼き立てでなくてもしっとりとしていて驚いたし、リンゴ入りのパンはバターをふんだんに使っているようで外はパリッと、中はモチっとしてコーヒーとの相性が抜群だった。
ヨーロッパは外食が日本と比べて高いけれど、美味しいパンとコーヒーがあれば満足だ。

イタリアにも忘れてはならない、美味しい「ブリオッシュ」がある。名前からするとフランス生まれなのかもしれないが、イタリアの南では同じパンを「コルネット」とも呼ぶらしい。日本人のイメージでいうとクロワッサンのようなパンで、中にクリームやヌテラ(イタリアで普及しているヘーゼルナッツとチョコのクリーム)、ピスタチオクリームを入れることもある。
このブリオッシュが2ユーロで、コーヒーは1.5ユーロ。イタリアは朝ごはん先進国と言っても過言ではないだろう。カフェで過ごす優雅な朝の時間はその日の充実度を底上げしてくれる。

しかし、イタリアのパンのほとんどは硬い。硬いというか、味気がない。素朴にも限度がある。温めればすこーし柔らかくなるが、そのような気の利いたことをしてくれるトラットリアは多くはない。パンの写真を見ればイメージしやすいのだろうが、ここはnoteなのであくまで文章でイメージしていただきたい。とにかく、見た目も中身もシンプルなパンである。

一方、日本のパンは柔らかいモノが多い。
最近のオシャレなパン屋さんには、クリームチーズとサーモンを乗せてワインと一緒に楽しむような発酵の風味が強い硬いパンも置いているが、昔ながらのパン屋さんはどうだろうか。食パンだって、最近よく見る変な店名の高級食パンはフワフワ、モチモチが売りではないだろうか?

私は生粋の日本人なので、とにかく柔らかいパンが食べたくて仕方ない。それも、毎朝だ。
朝ごはんには柔らかい食パンを表面だけうっすら焼いて、何もつけないで甘いカフェラテと一緒に食べるのが好きだ。

そして関西人だからか、菓子パンも大好きだ。メロンパン、あんぱん、クリームパン、ジャムパン、きなこ揚げパン、チョココロネ…どれも日本ではよく見るパンだが、イタリアには売っていない。

とにかく柔らかいパンが食べたい。

そんなとき、スーパーの焼きたてパンコーナーに「soffice(柔らかい)」と書いているパンを見つけた。トングで挟むと、たしかにフワフワしていた。過去にスーパーで2回ほど「見た目は柔らかそうなのに柔らかくないパン」に当たってから避けるように歩いていたパンコーナーで、この1年全く見つけられなかった柔らかいパンだ。あまりに嬉しくて中学の同級生に会ったときのように話しかけてしまいそうだった。
見た目はいわゆるテーブルロールで、10個で2.5ユーロとお値段も優しい。
すぐに買って、次の日朝ごはんにした。

あの食べ慣れた「テーブルロール」だった。
イタリアの人も柔らかいパンを食べるんだ、と感心してしまった。ちょっと甘くて、モチモチで、日本のパン屋さんで買うテーブルロールとそっくりだった。

その日から私の朝ごはんが潤った。10個買ってきたものはすぐ冷凍し、1日2つ、ちょっとチンしたあと、トースターで5分焼く。まさにあのテーブルロールの味なのだ。どんなに異国を愛しても、母国の慣れた味による安心感や心の充実感は変わらないのが常だろう。

ただ、そんな喜びは一瞬だった。
次の週、同じスーパー、同じパンを10個買って、同じように冷凍した。
1日2つ、見た目は前回と同じロールパンだ。

味が違うのだ。全然甘さがない。
チェーン店のスーパーの、小さなパンコーナーである。同じおばちゃんが毎日パンを焼いている(たまに大声で友達と電話している)
一体、何を変えたのだろうか?

同じ形の同じ味のパンを作り、安定した味をお届けするのが彼らの仕事だ。レシピを決めて分量を測ればいいだけならおばちゃんも楽じゃないか。同じものを作る方が手間も少なく、効率がいい。

日本では、そうだろう。
でもここはイタリアである。

イタリアは非効率を愛している。
彼らはそんなことない!と言うかもしれないが、効率重視の国から来た者にはそう見える。

例えばバスの乗り方。
切符はたばこ屋さんで買う。買ったらそのまま持っていればいいのかと思いきや、バスの車内にある機械に通し「使用済み」にしないといけない。
でもそんなこと、そのへんには書いていない。 または、乗らないとわからないことが多い。初見の人や、外国人、障がいのある方などには不便で仕方がないと私には感じる。しかもそんなルールもまた、州や県が変わればころっと変わる。

でもイタリア人は言うのだ。
書いてなければ、近くの人に聞けばわかるじゃないか、と。いちいち人に聞くなんて効率が悪いなんてこと、彼らは言わない。「ググれ」みたいなことも絶対に言わない。

わからなかったら助けを求めればいい。
わかる人に聞けばいい。
知りたい人たちがみんなで調べたらいい。
誰もわからないなら、バスの運転手に聞けばいい。(だからバスはいつも遅れる)

非効率だが、優しいと私は思う。
わからなくても、絶対に答えてくれる。必ず親身になってくれる。無視されたり嫌なことを言われたことは一度もない。
もちろん周りの誰もわからないこともある。間違った情報を教えられることもある。でも、たとえバスが別方向に向かったとしても嫌な気持ちにはならない。だって彼は私のために一生懸命力になろうとしてくれたのだから。
正論が時に人を傷つけるように、効率の良さを追求した結果優しくない世界になってはダメなのだ。

イタリアに住んでから、そんな「非効率」がもどかしく、しかしどこか愛くるしいと感じるようになった。わからなければ聞けばいい。その場にいる人が助けたらいい。確かにその通りじゃないか。私たちはいつから自分で調べ、聞かなくてもわかるように「自立」していることが美徳だと感じるようになったのか?

きっとパンもそうなのだ。
効率より大事なのは、おばちゃんだ。おばちゃんの気持ちや体調によって塩加減や焼き加減が変わってもいい。そもそも味は日によって違うのがある意味自然なのかもしれない。

歌や楽器もそうだ。人間が奏でているのだから、その日のコンディションによってテンポが速くなったり遅くなったりしてもいい。喉の調子によって装飾部分を変えてもいい。
そもそも音楽なんて非効率の極みだ。4分の曲であれば、演奏する方も聴く方も4分必要である。時短の概念はない。しかも必ず会場に足を運ばなければ生演奏は聴けない。
でも、それも音楽の魅力の一つなのだ。
演奏家がこの非効率を愛さずして、どうお客さまに音楽の魅力を伝えられるだろう?

非効率を愛そう。
わからないなら聞けばいい。日によって違っていい。時間に余裕を持って、違いを楽しんで、生きることを楽しめばいい。なかなかこの現代社会での日本人にはハードルが高いことだが、効率だけではない部分にも良さを感じ、心に余白を持って生きていきたい。

私は明日も柔らかいパンを買いに行く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?