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物語られる松本家で -1-

一軒の家があります。福島県は浜通りの西の端に位置する葛尾村の、そのまた北の端の方に建つ二階建ての木造住宅。花崗岩質の裏山(この地方の地質は基本的に花崗岩質ですが)を背にし、玄関前にはなだらかな斜面が眼下の県道まで伸びています。裏山ではスギ、ヒノキやクヌギ、コナラの木立が枝を伸ばし、家の前の斜面には季節ごとの草花が茂ります。一階の内縁からは日々の季節のすべてを見ることができるはずです。その家が松本家、この物語の主人公です。この物語は松本家を中心に、そこに出入りする人たちの思考や対話の断片によって編まれていくことになります。ある時は葛尾村で、またある時は別の時間の別の場所で語られるお話のひとつひとつが松本家を物語っていくことになるでしょう。いくつもの小さな話が積み上がった先に、松本家やそれを取り巻く色々なものたちが最後には一つの物語として浮かび上がることがこのお話を始めるにあたっての願いです。

ここで二人の人物に登場してもらいましょう。一人は余田大輝(Yoda Hiroki)、経済学を学ぶ学生です。もう一人は筏千丸(Ikada Chimaru)、建築学を専攻しています。ひとまずはこの二人の対話から松本家をめぐる物語を始めることにいたしましょう。

2021年3月26日夜 島根県津和野町
余田
:松本家で何をしたいんだろうと考えたときに、松本家が自分の拠点になればいいなと思ったんだ。そこはサードプレイスで、みんなで遊んだり食べたり話したりする。そんな場所があればそこで畑をやってもいい。大きく言うなら、土地と人間のあり方に興味があるんだ。当事者としての思い入れと学問的な考察を両立させて、自分がどう暮らして生きたいかを考えたいんだよね。

:土地と人間ってどういうこと?

余田:自分たちを取り巻く環境への思い入れは合理性とは違う考え方だなって思う時があるんだけど。例えば、快適じゃないけど居心地がいいって感じることがあるでしょ。そんな感じで、松本家には今どんな人がどんな動機で来ているのか、過去の人はどんな思いで暮らしていたのか、他所から来た人がそこがいいと思うのはどんな感情なのか。そういう人の心理とか行動とかを土地と合わせて考えてみたいんだよ。

:なるほどね。自分は松本家を題材にして、建築を表現手段の一つとして捉えてみたい。絵を描いたり写真を撮ったり、あるいは楽器を演奏したり歌ったり、そう言う表現手段の一つに建築をできないかな。もっと色んな人が好き勝手に空間をイメージしてもいいんじゃないかなと思うんだ。いつも言っているように建築が専門家だけの仕事じゃなくて一般が思い描いたり手を加えたりできるようになってほしい。それは建築が越境することでもあると言えるかな。建築自身が建築という分野を飛び出すんだよ。そして、越境は松本家の一つのキーワードでもあると思うんだ。アウトサイダーとしてやってくる自分たち学生がいて、その前には原発事故と村に帰れなくなるという時期があって、それ以前には松本家の移住があって、さらに時間を遡れば移民によって作られてきた葛尾村の歴史がある。そんな越境者の系譜の先に今の自分たちを位置付けられないかな。

余田:うん、越境は境界についての話だけど、その話を進めると領域の話になると思う。経済学の立場から見ると合理的かどうかというのは大きな領域分けなんだ。価値があるかどうかということが合理的かどうかで判断される。でもさ、合理性の圏外にハブられたものたちはなくなってもいいのかな。たぶん、「日本に対する葛尾村」と「葛尾村に対する松本家」は同じ構造にあって、乱暴に言えば、松本家を捨ててしまう葛尾村は葛尾村を捨ててしまう日本なんだよ。規模を縮小すれば生き残れるとしたら周縁部は切り捨ててもいいの?棚田用の稲刈り機を作っていた高校生の時、ビジネスで会う人とか全国の棚田で活動している人とかと話す時に棚田を守ることが環境保全や伝統文化保護になると言っていた。でも僕の棚田に対する気持ちはそれとは違うんだなっていうのが最近分かったんだ。本当は価値があるかどうかは関係なくてただ単に一見意味のないものを手放せないというだけなんだ。そういう人間臭さなんだよ。交通の便が悪くて生活するには電波とか上下水道とかいろんなものが足りていない松本家に居たいと思うのもなんだか人間臭いなと思ったからだよ。それは名前を持った固有のものとして大切にするということなんだ。だから松本家は「空き家」ではなくあくまで「松本家」であって、属性の領域に入りきらないところに愛着を感じるんだ。

:たしかに、あの時あの人たちとあの場所で過ごしたみたいな固有性が愛おしく感じさせることはあるね。松本家について言えばどのレイヤーを見ても境界が見えがくれするように思う。そういう意味で松本家は境界の象徴的な場所なんだ。レイヤーというのは、歴史的射程から見れば縄文期に人の居住が始まって中世期に村に多くの人が入ってきて、それとは別に松本家の人が移住して。震災があった直後には全村避難して村に住めなくなって、今は元々村に関係なかった学生たちとか若い人たちが入ってきてるみたいなことで。他に地理的射程で見ればそもそもが松本家のあたりは村の中心部から外れた周辺地域であったのが今は帰宅困難区域との境界が目の前にある場所になっていたり。一方で機能的とか意味的に見れば普通の住居であったのが震災後に人が住まなくなって、今は時々松本家の人が掃除しにきたり学生が多い時期には宿泊場所になったりで人がいたりいなかったりしている。そういう色んな文脈に境界が登場しているように思うんだ。だから松本家について考えるときはどうしても境界を意識しちゃう。

余田:そのことで一言足せば、境界を意識するのはその存在が揺らいだ時なんじゃないだろうか。それまで普通にあったものが失くなるかもしれないということに気づいたときに、それが失くなったらどうなるだろうかと想像してある状態とない状態の境界を急に意識するようになるんだ。あるいは失くなるまで行かなくても状態が変化するときにはそこにあるボーダーに目を向けるんだよ。そうやって失くなるかもしれないという存在の揺らぎを目の当たりにした時、失くなりそうなものに固有な意味を持たせたがるんだ。失くなっていくものが代替しがたい大切なものだと思えてくるんだ。存在のフチのフチにある、いるから大切な場所だと思うし思い入れも強くなる。僕はだから、変わりゆくものの変え難い何かを大事にしたいし形にしたいと思うんだろうな。

:松本家を考えるというのは、境界・越境を抽象的・俯瞰的に捉えつつ、松本家に感じる人間臭さとか自分たちの感情、当事者であることの感情を立脚点にしないといけないよ。松本家に境界を見つけたり固有な意味を見出したりするのはやっぱり自分たちの感情が根っこにあるし、そういう個人的な愛着で松本家を眺めつつメタ的に見て作品化することが大切だと思うんだ。

余田:ここまでの話を整理するとテーマは「境界と固有性」ということになりそうだね。境界は千丸から出た言葉で固有性は僕が言った言葉だけどそこにはそれぞれのスタンスがよく出てる。僕は村に溶け込もうとしているし千丸はたまに来る立場で村に関わっていてそこに違いがあることがいいと思うんだ。自分たちは何を思ってここにいて、松本家は歴史的・社会的にどんな状態か。境界に位置することで初めて意識される固有性とは何か。そんなことをそれぞれがそれぞれの立場で考えていくことにしよう。自分たちは当事者であるわけだけど、失くなっていくことの最前線を見せることは自分たちが直接知らない人とか葛尾村に関係がない人にも何かしらの助けになるんじゃないかな。失くなっていくものへの接し方の一つを提示できるんじゃないかな。その上で、千丸が言ったみたいに松本家で遊びたいという自分たちの感情を忘れちゃいけないね。もともとカレーを作ったりラーメン作ったり焚き火したり大富豪したり、そういう遊びの空間に松本家をできればいいねと話してたわけだし、リサーチしたり文章にしたり家の改修をしたりするモチベーションは自分たちがプレイヤーだという意識だから。他にもいろんな関わり方の人が出てきてくれたらいいけど、まずはこれが自分たちの関わり方だね。だから遊びながらテーマを掘っていくことにしよう。


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