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松本家/りんご/宇宙

8月27日から3日間、「第1回松本家展 -現在地-」を開催した。まずは一緒に松本家に行って展示制作にも参加してくれたみんな、展示会の開催に尽力してくださったすべての人に感謝したい。実際に会うこともままならないなか、zoomやLINEで相談を重ね展示会の開催にまで漕ぎ着けたことは多くの人の協力なしにはできなかった。短い準備期間でも展示会を開催できて本当に良かったと思う。第2回を開催したいと思えたことが今回の大きな収穫だ。とはいえ、形になったからこそ自分たちの至らなさに気づいた点も多々あった。

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「物語る」ことについてである。松本家展を計画するにあたって、テーマを「記録する、物語る。」とし、何を記録するのかどのように物語るのかはそれぞれに委ねられるとした。それによって色々な表現形式の松本家がそろい、いくつもの切り口で松本家を展示することができた。松本家がそれだけ豊かな表現の土壌になれると実感できたことが何より嬉しかった。一軒の家にこだわり続けることには確かに価値があると思えた。だが、並べられた作品はたしかに物語だったのだろうか。各作品は松本家について何を物語っていたのだろうか。模型と冊子を展示室中央の机に配置し、その周りを写真パネルや動画を流すディスプレイで囲むレイアウトをとった。作品を運び込みそうして配置してみると、バラバラの作品が並んでいるという印象が強かった。いずれも松本家を制作の題材にしていることはわかる。ではそれぞれの作品は松本家のどんな顔を切り取っていたのか。そこから浮かび上がる松本家の姿が何かあったか。もっといえば、バラバラの作品が集まって想起される集合的な松本家のイメージがあるのだろうか。あるいは、各作品はバラバラのままで松本家のイメージを伝えるのだろうか。「物語る」ことに対して捉えどころのない漠とした印象を抱えて、それでも展示会を開催できたことには自信を持って、僕は青森に数日の旅行へ出かけた。

第1回松本家展レイアウト1のコピー


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青森県弘前市に昨年「弘前れんが倉庫美術館」が開館した。大正期に建てられたシードル工場としても使われていたレンガ倉庫に耐震補強を施し改修した美術館である。その建築についての詳しい話はここではおく。「りんご宇宙 - Apple Cycle / Cosmic Seed」と題された展覧会を見て周り、松本家展の考えが整理されたように思った。りんごは言わずと知れた弘前の名産品だ。展示された各作品はもれなくりんごをテーマにしている。美術館のパンフレットにはサイトスペシフィックとまで書かれている。なるほど、弘前特産のりんごを前面に押し出して地域活性化を狙っているのか。だが、りんごの後にはすぐに宇宙が被さる。そこで思考が完全に二分される。一方は弘前に根ざしたりんご産業とその地域の風俗に、一方は人類が探求できる最果ての領域へ。両者はどう考えてもアンバランスだ。強いて言えばニュートンの万有引力発見の話によってりんごと宇宙の法則がつながっていると言えなくもないが。それが展示では見事にシンクロしていた。美術館を出るとすべてがリンゴに見えて仕方なかったくらいだ。赤色を見てりんごの肌つやを思い浮かべるのはもちろんのこと、黄色や金色には切られたりんごの断面やシードルの色が脳内で勝手に重なる。曲線を見ればりんごの優雅なカーブを思う。りんごりんごりんご。これほどまでに展示が印象深かったのはりんごに宇宙が被せられていたからだ。そうして展示作品がりんごと宇宙が結びつくことを鮮烈なイメージで確かに伝えていたからだ。作家が弘前に滞在しながら制作された作品もあり、弘前とりんごとシードル工場としての美術館の歴史が複雑に絡み合った展示が展開される。壁面には古今東西のリンゴにまつわるリファレンスが貼り出される。全然ニュートンだけじゃなかった。白眉は倉庫の吹き抜けに展示されたネオン管の巨大な彫刻作品だ。惑星運行の軌跡にシードル加工の工程が重ねられているのだという。言葉で言われてもよくわからない。正直キャプションも流し読みしただけだ。それでいい。実物を見ればイメージが宇宙まで飛ばされる。ネオンの曲線が正確に何を表しているのかはわからないがそれが自分のスケールをはるかに超えたものの運動を描いていることは認識できる。同時にそれまでの展示で見てきたりんごのイメージもネオン管の曲線に沿って現れる。ものの力が確かにあると思える。ギャラリー空間もまた秀逸だった。吹き抜けから来た方向を振り返ると鉄骨柱に支えられた床が倉庫の中ほどまで張り出している。2階床の下の天井の低い(それでも3mを超えているが)ギャラリーを通って吹き抜けに出たわけだ。2層の床と吹き抜けはさしずめ劇場を思わせる。吹き抜けに立てばまるで劇場の舞台から客席を望む構図である。劇場であることが重要だ。その時間その場限りの上演で人類の文化の深みを見せてくれるのが劇場のパフォーマンスだから。いまここの舞台が深遠な芸術世界の一端に連なっていることを感じさせてくれるのが芝居だから。これこそがりんご宇宙だ。「りんご宇宙」展はリンゴのイメージを弘前から宇宙まで拡張できることを鮮やかに示してくれた。

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かなり筆数をさいた。話を松本家に戻そう。弘前で受けた一番の感慨は松本家もりんごになれるのではないかということだ。第1回松本家展の準備を通してずっと松本家が自分たちのスケールを離れないように気を使ってきた。自分たちの目から見える松本家を表現しようと思うがゆえに、まだわからない松本家と自分たちの側面にはわからないと蓋をしてひとまず置いておくことにした。手元の体験を松本家と絡めて作品にすることに終始した。それが松本家を葛尾村の一軒家に留めておくことになりはしなかったか。実は松本家のイメージは宇宙まで拡張できるはずなのにと思うのだ。自分たちが松本家計画(特に松本家展)について決めたことは2つだけ、松本家にこだわり続けること、物語ること。ふたつ目の物語ることについて自分たちはまだその意味を十分に解していない。これまではそれでもよかったかもしれない。でもこれから第2回第3回と続けていこうと思うなら等身大の松本家を表現するのでは不十分だ。自分たちはもう現在地から離れようとしているのだから。おそらく、自分たちが掲げた2つのテーマは松本家をりんごのように拡張できるポテンシャルを持っている。ベンヤミンも言うように物語ることが人がずっと続けてきた営為だからだ。そのためには自分たちの表現がたしかに松本家の物語だと示さないといけない。今回の展示では模型なら建築模型の、パネルなら写真作品の、マインクラフトならゲーム実況のスタンダードに寄せて制作した。それぞれの表現手法のスタンダードな方法をあえて引用することで、誰も題材にしなかった地方の一軒家を作品にすることとの逆転を図った。それがかえって物語としての側面を見えにくくしたこともあったろう。今度は物語の形式を援用して制作しようか。物語形式についての考察も進めたい。

言葉を変える。松本家にただ遊びに行くのでもBBQを楽しむのでもいい。松本家をどんな使い方するのでもいい。それでも、松本家でそういった活動があったことをなにかしらの機会に記録していかないと、そのことすら忘れられてしまう。戦争と原発に翻弄されて松本家がたどった歴史もまた忘れられてしまう。それなら松本家とは直接関係のない他のこともきっと些末なこととレッテルを貼って安心して忘れていくだろう。ベンヤミンがパウル・クレーの天使の絵に寄せた想いに共感する。松本家は象徴的にはそうして忘れられてきてこれからも忘れられていくであろう小さなものたちを代表している。だから松本家を田舎の一軒家の位置に留めておくことはできない。自分たちは松本家を物語らなくてはいけない。松本家を題材に表現を続けることで松本家のことを、いままで多くのことを忘れてきたということを、忘れないでいられる。それには多くの人の協力が必要だ。ぜひ松本家の語り部の列に加わってほしい。

これからは松本家の歴史を見ていこうとしている。それもただ事実を年表にするのではなく松本家に生きた人の歴史を見ていこうとしている。例えば、トシヤさんの曾祖母は夫の出征後葛尾村の松本家の土地に疎開し女手ひとつで子供を育てたという。トシヤさんの祖母も炭を運んで家計を助けたと聞く。戦争を挟んで葛尾村に移り住み戦前から戦後の100年を生きた、まだ名前も知らないふたりの女性の人生を思い出したい。女性たちとともにあった松本家の100年を作品にすることで追体験したい。現在において語り部の語り方は口承だけにとどまらない。第1回松本家展で試みたように自分たちはいくつもの表現手段を持っている。それらをよりよく使って松本家の歴史を表現しなおそう。

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