電影朝聖Garyからインタビューを受けました『來自日本的香港達人Sophie』
電影朝聖Garyがやってくれたインタビューが記事になりました。4時間ぐらい喋りまくったかな。Garyが全てきっちり再現してくれてます。日本語訳を付けておきます。Gary ありがと!
【專訪】來自日本的香港達人 上川智子SOPHIE/文:王冠豪GARY(電影朝聖)
冒頭の一句「君は香港映画の為ならどこまでやれるか?」
「為了xxx,你/妳可以去到幾盡?」これは『狂舞派』(2013)が放った經典對白。Gary にこれを使ってもらえるとは栄誉の極み。さて、ではこれより拙訳をば。
『日本からやってきた香港の達人 Sophie』
君は香港映画の為ならどこまでやれるか?香港地元民として、今回のインタビューではちょっと気後れしてしまった。このインタビュイーは香港で生まれ育ったわけではないが、多くの香港人より香港を愛している。神戸からやってきた Sophie。李小龍のファンとなり、彼が育った街へ単身やって来て暮らし、ひょんな縁から香港電影界の中の人となる。
< まずは李小龍から >
当初Sophie と知り合った時の印象は李小龍迷だということ。とある映画上映会で『緣路山旮旯 Far Far Away』の黃浩然 Amos Wong 導演から紹介してもらった。
「男のような性格」だと自認する Sophie。子供の頃からアクションものが好きで、初恋の相手は龍哥ではなく手塚治虫原作で実写の「マグマ大使」。次に恋したのが「仮面の忍者 赤影」(坂口佑三郎)。「めっちゃイケメンだったのよ!姜大衛 David Chiang よりイケメンなんだから!」
アクションもの好きの Sophie からすれば、龍哥に惚れるのは当然のこと。しかし彼女の年齢からすると、当時の香港アクション映画は成龍 Jackie Chan や洪金寶 Sammo Hung が人気絶頂だったはずなのに、なぜに龍哥?
「成龍、洪金寶のアクションは見せる為のもの。龍哥が言った。Simple なものほど美しく、正確なものほど Simple だと。」
Sophie が李小龍作品の中で一番好きなのは『龍爭虎鬥 Enter The Dragon』だそう。この作品の龍哥の身体が最もパーフェクトだと思うし、更に重要なことは吹き替えではなく龍哥本人の声を使っていること。更に、セリフには龍哥の思想が込められている。何度観ても観る度に新しい発見があるという。
今のようにインタネットが発達した時代なら様々な資料を探すのはとても簡単なこと。スマートフォンさえあれば世界で何が起きているか知ることができる。しかし、以前は外国映画の情報を取るのは簡単なことではなかった。Sophie はどうやって香港映画に関する情報を得たのか?『Screen』と『Roadshow』という雑誌が役に立ったという。
「日本語で「洋画」というのだけれど、外国映画の情報発信については『Screen』の方が読者が多かった。もともと天邪鬼で流行りものを敢えて避ける私は読者が比較的少ない方の『Roadshow』を買っていた。とはいえ後には『Screen』のバックナンバーを買い集めたけどね。当時、映画雑誌ではファン投票があって、一位は大体アラン・ドロン、二位が龍哥、時々一位と二位がひっくり返ることがある、と言う感じだったけれど、とにかく毎週そんな感じだった。」
初めて龍哥の作品を観たのがいつでどの作品だったのか覚えていないけれど、本人主演作品を初めて劇場で観たのは『唐山大兄 The Big Boss』『精武門 Fist of Fury』のリバイバル上映だったという。配給会社はまずこの2本を上映して、その後に『猛龍過江 The Way of The Dragon』『死亡遊戲 Game of Death』の上映を画策していた。『龍爭虎鬥 Enter The Dragon』の版権はワーナー・ブラザーズが持っていたので上映候補には入っていなかった。『唐山大兄 The Big Boss』『精武門 Fist of Fury』のリバイバル上映の成績が思うほど上がらなかったので引き続きの2作品の上映は無くなったと聞いたらしい。
「『唐山大兄 The Big Boss』『精武門 Fist of Fury』のリバイバル上映時、劇場上映は一日6回。当時は(指定席制でもなく)チケットを買って入場すれば好きなだけ観られる時代だったので、おにぎり持参で朝一チケットを買って入場して、各作品3回ずつ、合計6回一日中劇場で観てた。」
< 龍哥から香港 >
龍哥に魅せられ、香港映画、特にアクションものを更に理解したくなったという。
Sophie が中高生だった時代は、成龍が香港アクション映画の代表だった。李小龍迷だった Sophie は成龍に対して少し嫉妬する気持ちがあったという。
「当時は成龍が大人気の時代で、かなり複雑な心境だった。成龍ファンからは龍哥のアクションには華が無いと言われたりして悔しかった。それに成龍はまだまだいくらでも映画を撮れるけれど、龍哥はもう新作を出せない人だった。だから正直、嫉妬していたところはある。」
成龍作品は好きとまではいかないけれど、李連杰の『少林寺』や、錢小豪や林正英といったアクション俳優や香港アクション映画に対する興味は沸くばかりだった。特に Andy Lau 劉德華については、『夏日福星 Twinkle, Twinkle Lucky Starts』(邦題:七福星)を観てイケメンでアクションできる俳優だと知ってファンになったという。また、『Screen』『Roadshow』で絶賛していた侯孝賢監督作品『悲情城市 A City of Sadness』を観て視野が広がったという。この作品のおかげで台湾映画も大好きになり、聾唖者設定でセリフ無しの中で渾身の演技を見せた梁朝偉 Tony Leung の大ファンになる。
李小龍が Sophie の香港への尽きぬ興味を引き出した。龍哥が育った場所への理解を深めたいと、最も直接的ではあるがなかなかに難しい方法を採る。広東語を学ぶと決めたのだ。
「旅行で知り合った香港人から譚詠麟 Alan Tam を聴くといいと紹介されたので譚詠麟の歌を聴きながら学んだ。歌詞を全部書き出して、そこへ発音(拼音)を書き入れる。覚えた歌詞は塗りつぶして消していき、歌詞と
発音と意味を全部覚えた。当時の歌謡曲はメロディが比較的簡単だったし、日本の曲のカバーも多かったので覚えやすかった。このおかげで、香港の流行文化についても認識が広がった。電影(の俳優)だけでなく四天王や校長(譚詠麟)などを知るようになった。」
< 香港移住を決める >
Sophie は大学生の時に初めて香港に足を踏み入れた。飛行機を降りた途端、香港の街と人に魅了される。凄く面白くてパワーに満ち溢れた場所だというのが第一印象。
「当時は広東語の響きが喧嘩しているみたいだと感じる日本人が多かった。でも私は表情を見たら怒っているとか喧嘩しているとは思わなかった。考えたことを率直に言うので、香港人はとても軽やかだと思った。それに、自分と違う意見を受け入れることができる人たちで、ここが大好きになった。」
当初は龍哥が暮らした場所を見てみたいというだけで、これといって縁の場所巡りをしたいと思っていたわけでもなかった Sophie。しかし実際に来てみると、香港の魅力に嵌ってしまう。旅行から戻って母親に、香港に移住する宣言をする。香港で暮らすからには当地言語の習得は必須だと考えるが、広東語を学べる学校は少なく、あっても学費が非常に高額だったので、お金も時間も節約できる大学の図書館で学習用のテキストを探すことにする。
「それまで香港映画を観ていても広東語にそれほど注意を払っていなかったけれど、実際に香港に降り立って広東語の中にどっぷり浸かると、とても面白い言葉だと思うようになった。特に、香港人が語尾を「呀」とか「啦」とか伸ばして話すのが音として面白いと思った。」
香港に移住すると決意した Sophie は準備に勤しむ。お金を貯めつつ、何度も旅行に来て、香港が本当に自分に合う場所なのか確認する。毎年2、3度香港へ来ては香港での生活を体験し、香港人の友達を作った。当時新填地街 Reclamation Street にあった學聯旅舍 STB Hostel を定宿とした。清潔で安いうえに(男女の居住区が分けられていたので)とても快適だった。
「小巴では登打士街で下車していた。当初は「有落」の声を上げるのに勇気が出ず、誰かが下りるときに一緒に降りるようにしていた。ある時勇気を振り絞って「登打士街有落」と言えた時には大きな達成感があった。」
香港に移住すると決めた Sophie ではあったが、実際に背中を押してくれたのは學聯旅舍 STB Hostel で知り合った日本人女子だった。当初は Sophie が香港の達人よろしく彼女をあちこち遊びに連れていってあげ、おかげで彼女も香港が大好きになった。数年後、彼女からの葉書が届いた。なんと彼女は香港に移住していたのだった。
「最初は、ちょっと待ってよ!なんで私より先に移住すんのよ!と思った。けれど、よくよく考えるとそれは私にとって良いことだった。彼女は既に香港での生活を始めているので、物価などを教えてもらえて具体的な計画を立てやすくなったの。どれぐらい貯めてから香港に行けば大丈夫かって聞いたら、彼女は30万円と。当時のレートでいうと数万ドルかな。でもそう簡単に仕事が見つからないかもしれないと思って、50万円貯めてから香港に来た。結局それだけ貯めるのに7年かかったけど。」
先に移り住んだ友人がいたことと、香港で仕事が見つかったことで Sophie は安心して香港での生活を始める。
日本で大学卒業後、エア・カーゴの会社で数年働き、その後神戸で広州から移り住んだ華僑の貿易会社へ転職した。香港との貿易をしている会社で、取引先のうちの一社は日本で中古タクシーを買ってそれを香港へ輸入する会社だった。
「輸入税率が違ったらしく、日本で車体をぶった斬ってゴミとして申告して香港へ輸入し、香港へ到着したらそれを溶接して売るという商売だった。香港に住み始めた当初は(一度ぶった斬った車体を溶接したものはいつそれが外れるかわからないという心配があって)怖くてタクシーに乗るのは避けていた。」
神戸の貿易会社の別の取引先で、モーターとオルゴールを香港へ輸入している会社があった。その会社が廣東省東莞市にモーターの工場を立ち上げることになり、Sophie が香港に移住するということで、うちの会社へこないかと声を掛けてくれた。運命が香港へ移住して暮らしたいという Sophie の目標を後押ししてくれたのだ。
「当時の私の給与は $15,000。1993年の水準で言うとかなり良い方だったと思う。香港人は$10,000以下の人がまだまだ沢山いたから。給与の1/3程度で賄える部屋を借りようと思った。最終的に太子の鴨寮街にちょうど良い物件を見つけた。約200尺だけど新築物件で$5,500、予算より$500多かったけれど良しとした。ずっと日本で育った私は、夜は必ず湯舟に浸かる習慣があったので、部屋探しの必要最低条件はフローリングの床(リノリウム床は冷たいので)と湯舟があることだった。リビングの床が少し傾いていたのだけれど、とにかく湯舟があるから、ま、いっか、とそこに決めた。」
< 杜琪峯 Johnny To がきっかけで大阪アジアン映画祭に自薦 >
Sophie は1993年10月に香港へ移住してきたが、その時にはまだ香港電影界との繋がりは無かった。2004年1月に一旦日本へ戻り、2019年5月に香港へ再度戻ってきた。日本に戻っていた間に大阪アジアン映画祭の仕事を受けるようになったことで映画関連の仕事をするようになる。きっかけは杜琪峯 Johnny To だった。
「2010年の大阪アジアン映画祭が杜Sirをゲストに招いた。友人がその時のQ&Aを観に行っていたの。当時の杜Sirの國語(普通話)は「有限公司(=有限、つまりペラペラではなかった)」で、映画祭側が手配できたのは広東語をわからない上海人の通訳だったらしい。日本の観客からの質問を杜Sirに伝えきれないばかりか、杜Sirの回答を「聽不懂」だと言ったそう。私の友人は広東語も國語もまあまあわかる人だったので、杜Sirの言うことはほぼわかったけれど、広東語や國語を解さない観客にはQ&Aにならなかったらしい。」
この喜ばしくない経験をした友人は Sophie に映画祭の通訳に応募しろと強く勧める。ダメ元で自薦応募してみたところ映画祭から採用されたという。
「映画祭事務局は肝が据わっていたと思う。突然、広東語ができますという人物が現れて、それが本当なのかどうかテストする術も無かったのに採用してくれて。私としては、最も重要なことは、香港映画制作人が披露してくれる内容を港產片迷に明確かつ正確に伝えることだと思っていた。」
自身も港產片迷である Sophie からすれば、そんなクオリティの通訳に対しては納得できるものではないという。映画祭に参加してくれる電影人は、有名であろうがなかろうがリスペクトすべきであると思っているからだ。
「大阪アジアン映画祭のプログラミング・ディレクターは、映画祭というのは監督の為のものであると仰る。監督の作品をリスペクトし、それを日本の観客や配給会社に紹介するのが映画祭の最大の意義だと考えておられる。」
2011年の映画祭が Sophie にとって初めての映画関連の仕事であり、香港電影人と接する機会になる。その年の映画祭に出品した香港電影は彭浩翔 Pang Ho Cheung 監督作『維多利亞壹號 Dream Home』、曾國祥 Derek Tsang と尹志文 Jimmy Wan 共同監督作『戀人絮語 Lover's Discourse』。当時、広東語を解するスタッフは Sophie だけだったのでアテンドも担当した。港產片迷からすればアテンドも願ったり叶ったりの役得業務である。
「あの日、私は空港へ彭浩翔Pang Ho Cheung 監督を迎えに行って、電車でホテルへ向かった。私自身が港產片迷なので、監督と一緒にいる間にいろいろお喋りをして様々な質問をしたの。映画上映後のQ&Aで観客から出た質問は私が監督に直接聞いたものと同じようなものだったので、監督にとってはウォーミング・アップ代わりになったかも。」
「その頃映画祭に参加してくれた香港電影人は、まだ有名でない人もいた。例えば Derek なんかはそうで、偉そうにしないのですぐに友達になっちゃった。彭浩翔導演はその後、東京で仕事があると私を呼んでくれたりもしたのよ。」
その年の映画祭で忘れられない事件があった。311である。
「その時、私は Derek と Jimmy の買い物に付き合って心斎橋にいたの。突然眩暈がしたので、寝不足かなと思った。その後、映画祭の Welcome Party に行ったのだけれど、その間も私たち3人には、Derek のお父さん(曾志偉 Eric Tsang)やら私の友人から「大丈夫か」との電話がひっきりなしに掛ってきた。その時私たちは何が起きたのか全く知らず、後になって地震が起きていたことを知ったの。なんと、心斎橋で私が眩暈を感じていたのは地震のせいだったのよ。しかも Derek と Jimmy もその時眩暈を感じていたらしいのだけれど、二人とも「昨日の夜、飲み過ぎたかな」と思っていたそう。彭浩翔導演はその時、大阪より揺れた東京にいたそうで、あまりの揺れに驚いてテーブルの下に潜り込んだって言ってた。」
<『追捕 Man Hunt』のクルーとして参加 >
Sophie は大阪アジアン映画祭で香港観光局大阪事務所(当時)の人と知り合う。その人物を通して、かつて香港観光局アジア地区ディレクターをしていた大阪観光局局長に紹介される。そして Sophie は大阪観光局でインバウンド部門の香港担当として2年働く。大阪観光局傘下に大阪フィルム・コミッションがあり、そこの職員と仲良くなり、彼女のおかげで他の地方のフィルム・コミッションの人や東京の制作会社の人と知り合う。大阪観光局との契約がちょうど満期になった時、その仲良しの同僚から『追捕 Man Hunt』の制作チームに入らないかと誘われる。
当初 Sophie は日本側の制作部付きだった。後に香港側クルーの人手が足りないということで香港側制作部に移る。監督や制作部とのロケハンに始まり、港產片迷としての好奇心から撮影現場にも入る。(註:制作部は基本的に撮影現場にはあまり入らない)
現場付きの通訳はすでに二人いたのよ。一人は日本に長く住んでいる上海出身の女性で撮影部付き。もう一人は台湾男性で撮影現場で役者と監督の間のコミュニケーションを手伝う。香港側の副導演は現場の通訳がこれでは足りないと感じ、私に現場に入って欲しいと言ってきた。最初は福山雅治付きで、マネジャーや助手も私のことをとても信頼してくれた。」
撮影現場では、日本語ネイティブが脚本の翻訳をする必要があり、日本語ネイティブの通訳は Sophie 一人だけだったのでいわずもがなその仕事は Sophie が担当することになる。当時の状況はかなりハードなものだった。監督は自分で脚本を書きたいのに、制作会社側は別途脚本チームを用意する。毎日撮影後に食事をしながら脚本について話し合い、それぞれがそれぞれ翌日撮影分の脚本を書いては Sophie に送る。翻訳した脚本を日本のプロの脚本家に送ってチェックしてもらい、それを Sophie に送り返してもらって再度チェック、それを副導演に送る、というのが毎晩続いた。
「撮影現場では、Rolling! Action! があって、Cut! の声が掛ると監督が翌日の脚本を書く。(カットごとにこれを繰り返した。)いわゆる「飛紙仔(香港独特の台本無しの撮影方法)」なのだけれど、このやり方に日本の俳優が慣れなくて不満や文句が出た。私はこの作品が映画の制作現場に関わった初めての作品で、朝から晩まで監督の傍に付きっ切り。自分のアイデアを突然完全否定されたりといったことがあったりして、監督の困難が手に取るようにわかった。なので、できる限り監督の考えややり方の角度から監督を手伝えるようにと思ってやっていた。」
< 吳宇森 John Woo 作品で撃たれて死ぬのは光栄なこと >
作品中の後半パートになる真由美(戚薇)の家は阿蘇山の牧場で撮影することになっていた。ところが阿蘇で地震が起き、岡山の牧場へとロケーション変更を迫られる。クルー全員で岡山へ出発する前夜、Sophie は副導演からのメッセージを受け取る。監督が突然、とある役を Sophie にやって欲しいと言い出したが、やる?との問いだった。
心では当然即答でOKだったけれど、あまりに即答するのもなんだよねと思ってちょっと時間を置いてみた・・・30秒だけどね(爆笑)」
Sophie の役は真由美の家の家政婦。役柄の設定が日本で育った華人というものなので、どうやら Sophie の「ちょっと訛った國語」が良かったのではないかという。出演シーンの中でも最大の期待は銃撃戦。そう、吳宇森作品のシグネチャーである銃撃戦に参加するのである。
「ある日、副導演が言ったの。「撃たれて死ぬことになったよ」と。やったー!吳宇森だよ?当然銃撃戦あるよね?そこで撃たれて死ぬって?Yeah!ってなったよ。そのシーンは、リビング・ルームに殺し屋が入ってきて私は撃たれて死ぬと。撮影の時は、カメラ位置を決めたら、クルー全員が自分のスマートフォンで私の歴史的瞬間を撮ってた。副導演はモニターで私の演技を撮ってくれたし。」
吳宇森作品で撃たれて死ぬのは最高の光栄だと Sophie は言う。
<『コンフィデンスマンJP プリンセス編』と『小Q』>
『追捕』への参加はとてもチャレンジングで、しかも辛く苦しい日々だったけれど、実に多くのものを得たと Sophie は言う。
「『追捕』の制作ではプリ・プロダクションからポスト・プロダクションまでの全過程に参加させてもらった。撮影後は私も吹き替えの録音をしつつ、他の役者の録音にも通訳として付き合わなければならなかった。というのも日本語ネイティブが私一人だけ。編集スタッフは香港人、(セリフの途中といった)変なところで切っていないかという心配もあったので、私は録音、ミキシング、カラーリングと全工程に参加したの。」
Sophie は後に『コンフィデンスマンJP プリンセス編』に美術部付きとして参加する。美術部の仕事をしたことは無かったけれど、『追捕』で映画制作の全工程を経験したので、これも上手くこなせるはずという自信はあったという。『コンフィデンスマンJP プリンセス編』と『追捕』は全く違う撮影文化の作品で、前者は周到に準備をし手順に従って進めていくスタイル、後者は非常にフレキシブルで常に変化するスタイルである。
Sophie はこの作品でも役をもらう。オープニング・シーンでの悲しく辛い状況で、『追捕』と同じく身を犠牲にする役である。
「この役はもともとマレーシアの役者を使うことになっていたのだけれど、キャスティング・ディレクターが役の年齢的に私がちょうどいいんじゃない?と言い出し、私の写真を他の候補の女優と共に監督に見せたの。監督が「あれ?これ Sophie?じゃあ Sophie にしちゃえ!」ってことになって。」
また、羅永昌 Lo Wing Cheung 監督の『小Q』(『盲導犬クイール』のリメイク)に参加、北海道での撮影時に任達華 Simon Yam の通訳をやる傍ら、書店でインタビューをする番組のMC役をもらって出演。
忘られぬ香港
Sophie は1993年10月に香港に移住してきて2004年1月に一旦日本に戻った。日本にいる間も香港電影との関連は絶えなかった。それどころか更に密になったと言っていい。2019年5月にいよいよまた香港で頑張ろうと戻ってきたが、Covid のせいで多くの国が国境を閉じた。毎年3月には大阪アジアン映画祭に参加していたので、2020年2月、全日空の香港関空最終便で日本へ戻った。その後一時カナダに居住、2023年に香港でまたやり直そうと再度戻ってきた。骨の髄まで香港と香港電影を愛しているから。
「香港電影が心から大好き。今の私は香港電影の中の人と言って良いと思うのだけれど、このままずっと死ぬまで中の人であり続けたい。香港電影の力になりたい。どんな役目でもいい。通訳・翻訳でもいい。制作部でも役者でもいい。参加して力になりたい。これまでの経験でいうと、日本との合作に機会が多かったけれど、自分の能力やキャパシティをもっと広げて、もっと様々な役目を受けられるようになりたい。もっと香港電影のお手伝いをしたい。」
Salute!
多謝 Gary !!!