私がどうやって広東語通訳者になれたのかを紐解いてみる(27)- 『智取威虎山』@京都ヒストリカ映画祭 -
京都ヒストリカ映画祭の時の話をもう1本
この京都ヒストリカ映画祭って面白い趣向の映画祭なので宣伝しておく。1925年以前を舞台に設定した映画のみを招聘するというニッチなこだわり映画祭。国や地域にはこだわらないとはいえ、そんなに昔の話を舞台にした映画が毎年わんさか出てくるわけではないだろうから、作品自体を探してくるのも大変だろうと思うのだけれど、毎年素晴らしいセレクトっぷり。ゲストの数もまだそれほど多くはないけれど、作品自体を楽しめる映画祭になっている。歴史もの好きの方にはお勧めのセレクション。
ウォン・ジンポー黃精甫監督
前回書いたウォン・ジンポー黃精甫監督とナビゲーター飯星恵子さんとのQ&A写真が出て来たのでアップしておきましょう。
ウォン・ジンポー監督から聞いた面白いエピソードを思い出したのでついでに脱線しておく。
『江湖』の撮影の時の話。
アンディ・ラウ劉德華の傍を通りかかった時に呼び止められた。「ちょっとお茶淹れてもらえないかな?」と。「はいどうぞ」とお茶を渡したその時、スタッフから「監督ー!準備できましたよー!」と呼ばれた。その時のアンディの顔ったら。「えーー!監督だったの!すみませんっ!!」と平謝りと。
監督自身は「僕のことをただのスタッフだと思ったらしい。そりゃそうだよな。こんなどこの馬の骨ともわからない若造が監督だなんて誰も思わないよな、はっはっはー!」と全くもって根に持っていない様子だった。恐るべし若き才能だということね。
『智取威虎山』
話を戻そう。その京都ヒストリカ映画祭、翌2015年にまた呼んでいただいた。『タイガー・マウンテン~雪原の死闘~ 智取威虎山 The Taking of the Tiger Mountain』ツイ・ハーク徐克監督作品。徐克に会えるの?ぎゃー!嬉しすぎる!と思ったけれど、残念ながら徐克監督は新作撮影中で来日ならず。ガックリ。代わりに Bona Film Group 博納電影のプロデューサー Jeffrey Chan 陳永雄氏が来日。超大手の超高層だけれど気さくで面白い人だった。
上映後のQ&Aにて。京都ヒストリカ映画祭は常にワークショップも開催していて世界各地から映画人が参加してくる。この時のQ&Aには、このワークショップに参加している映画人たちが自分の機材を持ったまま観に来ていて、質問を発してくれた。外国人が機材を持って入っているのを見た Jeffrey氏、外国メディアだから(と思い込み)彼らのためにと「これ、英語で話していい?」と私に聞いてきた。私はもちろん、いいですよと二つ返事でOK。Jeffrey氏は滔々と英語で話し始めた。
突然英語でも
ここで慌てたのが映画祭事務局とナビゲーターの飯星恵子さん(ご本人達の弁)。「ソフィさんは広東語通訳なのに、Jeffreyさん英語で話し始めちゃったよ!どうすんの!」と血の気が引いたそうだ。そして当の私が何の躊躇もなく平然と日本語に訳し始めたのを見て「えー!英語も大丈夫なんだ!」と安堵するやら驚くやらだったそうだ(ご本人達の弁)。特に飯星さんはナビゲーターとして通訳がスムースにいかなかった時にどうフォローしていけばよいのかと気が気ではなかったらしい。それを私が通常運転で通訳してしまったものだからかなり驚いたという。彼女のブログにも書いてくださっているけれど、「私の人生5大ビックリの一つになったわよ!」といまだに笑う。
多くの香港人は英語もできるのがデフォルトだった
現時点での中年層あたりから上の世代で、ある程度の教育を受けた香港人は、広東語が母語ではあるけれど英語もかなり流暢にこなすのがデフォルト。植民地時代の学校教育においてキリスト教系の学校は教科書が英語というのがデフォルトだったし、授業も英語での授業が圧倒的に多かったと友人から聞いた。英語を書くのは苦手(スペルさえ間違っていること多し)だけれど、聴き取りも問題無く、ブロークンでも相手に伝わるように話すことは難なくできる、というのがかつてのデフォルトだった。今の若い世代は中文教育が始まってしまったせいで普通話の読み書き喋りができるのがデフォルトになった代わりに英語力がぐんと落ちたという。
こういった学校教育のベースに加え、香港人はもとから子供を海外に出すのが大好き。昔々、大学がまだ2つしか無かった頃、大陸からの移民も今ほど大量にはいなかったけれど、たかだか大学2校では香港地元民の若者を収容しきれるだけのキャパシティも無かった。なので、香港内で大学に行けるのは本当に一握りの成績優秀者のみ。英国植民地の当時は英語が出来ると就職に有利だということで親達は必死で子供を海外の大学に行かせた。この傾向は時代に連れ大学が順調に増えていっても連綿と今現在にまで続いている。
多言語はアドバンテージ
英語もある程度出来て助かったよ私は。最初に在住した90年代から2000年代初頭では、香港人のオフィス・ワーカーは広東語と英語がデフォルトだったので、そこへネイティブの日本語(とビジネスレベルの普通話)がプラスされる私はアドバンテージが高かった。同じローカル採用でも他の香港人社員より給料が高かったけれど、彼らもこの私のアドバンテージを認めて納得してくれていたので根拠のない衝突や嫉妬などは無かった。そして、後になって、このヒストリカ映画祭での突然の英語通訳。香港人の話す英語に慣れていたこともあってそつなくこなせた。芸は身を助くとはこの事。(続)