生命の神秘
一日があっという間に過ぎていきます。四十を過ぎると十年があっという間、五十を過ぎるともっと早いと、若い頃に、いろんな方が同じことを言っていて、へーと他人事として聞いていましたが、このことかぁとわかることがあります。
瞑想を日常的にされている方でしたら体験的にわかることがあるのではないかと思いますが、瞑想には様々な効果があり、睡眠時の夢同様、未来予知として映像化していることがあります。時はあり時はないという多次元意識場である現実を教えてくれます。
大学時代は、単館映画を好んで観ることが多く、もともとテレビや映画館が苦手なこともあり、数は少ないですが、また観たいなぁと、時々、思い出す映画作品があります。
それとは別に自主映画で観てみたい作品がいくつもあり、これは観たいなぁと上映が始まったものは、いまの私が観るには、エネルギー消耗が著しく低下しそうなのと、近くの映画館では上映予定がないので、DVD になってくれることを期待しています。
医師に精神疾患者が多いとは何度も聞いてきていますが、そうなるのも不思議ではない気がしています。
近年、濃厚過ぎた時間を過ごしながら、生命の死生と直に関わっておられる方々の人生を、ふと想いました。
中学二年生になった娘が、小学生の頃より「自然死はあるのか」と、度々、聞いてきます。私は、その度に「あるよ」と応えます。
最近、娘が「難しいことはめんどくさいから考えない人が多いよね。」と言ってきました。「そうだね。」と、わたしは返しました。
「自分にゆとりがないと人の為になんか出来ないよね。」と続き「そうだね。その通りだね。」と返しました。
週末は、楽しみにしている場所へ出かける予定があり、触れたい気を帯びている方々と出会えることが、とても楽しみです。
身近としてある環境が、大切にしてきた空気感に戻っていくことに、喜びを感じます。
みてみたい映画。