風の時代に必要な繊細さとは
風の時代に重要な能力の一つとして、適切な認識力というものが挙げられる。
一見すると認識力というのは、識別する左脳的な機能によってなされるように感じられるけれど、実際には右脳的な感覚をこそ必要とする。
というのは、左脳的な働きは過去のデータからしか判断を下すことができず、さらには個人的な思い込みや信念を強く反映するため。
そして左脳的な解析だけでは、実はものすごく目が粗いのだ。
これがまた、地の時代的だと言えるだろう。
例えば、「嘘のないエネルギーで生きる」というのと、実際に行為として嘘をつかないことはイコールではない、ということが分かるだろうか?
「嘘のないエネルギーで生きる」というのは、 言葉尻や「言った」「言わない」で判断するような話ではない。
これはエネルギー的な話であり、全ては周波数の問題。
けれどもここを左脳的な機能だけで判断すると、とんでもなく浅い次元でしか生きられなくなってしまう。
そして周波数レベルで感知して動いている人々のことを、嘘つきだとかよく分からない人だと怪しむようになるだろう。
また、「死ぬ時にお金や物質は持っていけない。持っていけるのは経験だけ。だから目に見えないものこそを大切にしよう」…というようなフレーズを耳にすることがあるけれど、もしもそれに共感したならば、やはり根本的にこの世界が何なのかをわかっていないということになる。
経験というのは目に見えるか見えないかの区別なく、この世界で知覚し得る全ての物事を通してできるもの。
当たり前だけれど、お金を得たり使ったり、物を買ってそれを大切にしたり無駄にしたりと、それらを通して経験できることが山ほどある。
この世の全ては経験になる。
というより、物質的であれ精神的であれ、実のところ全ては経験でしかなく、実態はない。
地の時代から風の時代への移行は、物質主義から精神主義への移行と見ることもできるけれど、これを単に「物質よりも精神が大切」だというような単純さで捉えてしまうのは、あまりにも鈍く目の粗い認識力だ。
物質か精神かのどちらかだけが重要な訳はもちろんなく、占星術でもホロスコープには物質から精神まで全ての要素が平等に網羅されている。
なぜならそれがこの世界だから。
全てがあるのがこの世界だからだ。
大切なのは、物質であれ精神であれ、「それをどんな意図で、どんな意識で、どんな周波数で経験するのか? 」ということ。
何を経験するかよりも、目の前に起こってくる全ての事象を「どんなふうに経験するのか?」の方がずっと重要だということだ。
この記事でも書いたけれど、この世界は足し算引き算のような単純な仕組みではなく、とても複雑な多重構造になっている。
平面ではなく、立体なのだ。
けれども周波数を感知できない人にとっては、世界は平面のように見えている。
実際は立体である世界を平面の次元でしか捉えられず、その平面の上で仮想の世界ごっこをしているようなもの。
でももう、ここから人類の意識は開かれつつある。
これまでモノクロでしか見えていなかった視界がだんだんと色づいていくように、徐々に知覚できる範囲が広がっていくだろう。
平面的な認識力から、立体的な認識力へ。
これも地の時代から風の時代への移行において起こっていくことなのだ。
そして、現在スピリチュアルやオカルトと呼ばれているものは、ここからの数十年、数百年で様々な領域において(再び)科学と交わっていく。
私たちもより本質的なことに気がついていくため、これまでのスピリチュアルがまるで子供の遊びのように感じられるようになる日も遠くない。
風の時代のエネルギーの軽さとは、浅薄な軽さではなくて、周波数が上がることで感覚の目が細かくなっていくことによる、繊細な軽さだ。
もしもこの周波数の微細なグラデーションに気がつけず、繊細な認識力を欠いていたとしたら、風の時代の波に乗った人たちの言動が全く理解不能になる可能性がある。
そうならないためにも、自分の重心を左脳から、直観、体感覚、バイブレーションなど左脳の管轄外の感覚に移し、そちらをフルに開放していくような意識でいることが重要だ。