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哲学みたいな日

もしもの話が好き。仮説とか、そういうのを語りあうのは好きだ。例えば、友人と他愛ない話をしているときに、いつの間にか宇宙の話になったり、愚痴を話していただけなのに、何故かそれまで興味もなかった政治の話になっていたり、そんな経験のある人は多いと思う。話したところで何かが解決する訳でもなく、そもそも結論が出るわけでもなく、行動を起こすこともない。では何故そんな話をするのか。答えは単純、楽しいからだ。楽しいから解決しなくても話すし、結論がでなくても会話は進む。現実味のない会話が弾むのは、平和の象徴だと思う。

母はもしもの話が苦手だ。仮説も。小学生の頃、どんな会話の流れだったか忘れたが、「産まれてから二十歳まで人間を含めた生物やそれに関するものと一切関わらず育った人と、一般家庭で普通に育った二十歳、果たして知能は同じか」という話をしたときに、母は「そんな人いるわけない」とか「ありえないこと言うんじゃない」と言って会話を一蹴した。この話の論点としては、「知能が同じかどうか」であって、産まれてから二十歳まで人間を含めた生物やそれに関するものと一切関わらず育った人が実際にいるかどうかは重要ではない。だって仮説だから。それ以外の日常会話に置いても、母は例え話が苦手なようだった。それがいいとか悪いとか言うつもりは一切ないし、まあそういう人も居るんだなぁってだけだが、私はそんな母をずっとなんでだろう、と思っていた。もしもの話や想像、仮説が好きだから、語り合えないのは少々残念に思ったりもした。そして、なんでだろう、と思う度に、また頭の中で母についての議論を展開していた。本人には一生内緒だろうけどね。だからここでも詳しく言うつもりはない。いつか怒られそうだから。

小学生のころから私は周りと考え方が違っていたようだった。高校生のときに、通っていた学校のカウンセラーの先生に、「なんだか哲学みたいな考え方してるね」と言われたことがある。それまで、〇〇学とつくものとは、自分は全く縁がないと思っていたし、そもそも哲学というものをよく知らなかった。でも、哲学が好きになった。私は頭も悪いし、運動もできない、人とも上手く関われない。目に見える部分でコンプレックスの塊だったが、自分の考え方は好きだった。昔から、周りの子とは違うね、なんて言われてきたこの考え方に、「哲学」という名前がついたのは、よく分からないけどなんだか面白い、と感じたのを覚えている。その後特に哲学について調べたりした訳では無いが、でも必要ないとも思う。私にとっては、私の考え方が私の哲学なのだ。客観的であり、理性的であり、経験から作る人生観であるならば、前提として正解が一つではないだろう。客観的も理性的も経験も、人の数だけ解釈がある。だから私はこれでいいし、これがいい。必要以上に調べてしまっては、想像する余地がなくなるだろう。それはきっと、私にとっては人生の損失と言って過言ではない。

実は今日は特に書くことがなかった。昨日が活発過ぎたのだ。でもやっぱり哲学はいい。ほら、気づいたら日記が埋まった。

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